第二十七話
塔に着いたのは昼前だった。
戸を開けて、まず竈の前にしゃがむ。
灰を掃いて、棚の埃を払う。
順番はいつも同じで、順番が同じだと頭の方が先に卓へ行っている。
窓から入る光は、少し前より角度が浅くなった。
季節がまた、ゆっくり動いている。
掃除が済むと椀に水を張って卓に着く。
「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」
椀の底に霜が張る。
初めての日より、霜はだいぶ厚くなった。
ただ、水そのものが凍るところまでは行っていない。
「呼び水を送りすぎだ。凍らせたいのは椀か水か」
「水です」
「椀ごと冷やそうとするな。水にだけ届かせろ」
流れの糸を見る。
自分の内側から出ていく細い青は、詠唱のたびに太さが変わる。
太いと霜が椀の外まで散る。
細すぎると冷気だけで終わる。
息を整えて、もう一度詠唱する。
冷気が手のひらの上を薄く舐めて、椀の縁に白いものが残った。
糸を半分だけ絞る。
次は椀の底だけが白くなった。
送る量と、届く場所。
動かせるものが二つあると気づいてから試せることは倍に増えている。
ちょうどいい太さはその間のどこかにあって、前世で数値を一つずつ動かして正解を探した感覚とよく似ていた。
「霜と氷は、何が違うんですか」
「霜は空気の中の水気が凍ったものだ。量が少ない分、少しの冷気で足りる。椀の水を丸ごと凍らせるのはその何十倍も先の話だ」
道理で、と思う。
同じ詠唱なのに、霜までは早かった。
水面が凍るまでの壁は、それとは別の高さにある。
「焦るな。水生成の時も、椀一杯に届くまでは時間がかかった」
「覚えてます」
「なら、反復の仕方はもう知っているはずだ」
十回ほど繰り返した頃、水面の端に薄い膜が張った。
指で突く。
ぱり、と小さな音を立てて割れた。
「音で分かる。今のは凍っていた」
次の一回は、椀の縁まで白くなりすぎた。
その次は、膜が張る手前で止まった。
同じ場所に同じ量を届けられるのはまだ十回に一回あるかどうかだ。
ゼドルは手元の書き物から顔も上げなかった。
承認の形は日によって違う。
今日は音だけ聞いて認める日らしい。
指先は、もう重くならない。
多めに送ってしまう最初の頃の癖は、糸を見ながら少しずつ削っていった。
氷結はまだ完成には遠い。
それでも、進む方向は見えている。
「魔法も言葉も同じだ。繰り返した回数だけ、形になる」
帰り際、ゼドルがそう言った。
いつもの小言と同じ調子で言われたその一言が、妙に耳に残った。
――――――――――――――――――――
家に帰ると戸口の内側でリアが立っていた。
両手を壁について、こちらを見ている。
このところ、掴まらずに立てる時間が少しずつ延びていた。
「おかえり」
台所からミラの声がする。
リアが壁から手を離した。
二歩、三歩。
柔らかい茶色の髪が、足を出すたびに揺れる。
四歩目でアシュの足にぶつかって、そのまま袖を掴む。
「歩いた」
「そうなの。今日は朝から歩いてばっかり」
ミラが手を拭きながら出てきた。
リアは袖から手を離すともう一度歩き出す。
三歩で尻から落ちた。
泣くかと思ったが、泣かない。
両手を床について、また立ち上がる。
その繰り返しを、飽きずに続けている。
「最近、転んでも泣かないの」
ミラが笑う。
「立つ方が楽しいんだって」
立ち上がったリアが、意味のない音を出した。
「あぶー。ばっば」
「はいはい」
このところ、リアの声には型ができ始めていた。
だっだ。ばぶ。あぶー。
同じ音の繰り返しが増えて、口の形がはっきりしてきている。
ただ、どの音もまだ意味を乗せていない。
誰に向けたのでもなく、何かを指したのでもなく、ただ出ている音だ。
繰り返した回数だけ形になる、というゼドルの言葉がそのまま当てはまる。
詠唱の反復と、やっていることは変わらない。
「そろそろ喋るよ、この子」
ミラがリアを抱き上げながら言った。
「レインの時もこういう感じになってからすぐだったもの」
「最初は何だった」
「まんま。ご飯のことばっかり考えてる子だったのよ、あれで」
今のレインを見る限り、あまり変わっていない気もする。
「この子、払いを溜めてる客と同じよ。聞いた分を溜めといて、ある日まとめて出してくるの」
「溜めといて」
「リアはもう、こっちの言うことは分かってるのよ。おいで、って言うと来るし、駄目、って言うと嫌な顔する」
言われたとおり、リアは返事のように声を出す。
こちらの言葉が終わる瞬間を、ちゃんと待っている。
先に溜まって、後から出てくる。
呼び水と同じ仕組みだ。
抱き上げられたリアが、アシュの方へ手を伸ばした。
金色の目が、まっすぐ見返してくる。
この目は一度も逸れたことがない。
町の大人はアシュの目を見ると視線を滑らせる。
ガルドは今でもまともに見られない日がある。
リアだけは生まれてからずっと、目の色ではなく兄の顔を見てくる。
意味を知らないだけだ。
それが分かっていてもなお、この目の前では息がしやすかった。
――――――――――――――――――――
夕方の庭で、レインと木剣を合わせた。
打ち込み、受けられ、返され、また打ち込む。
三本目の途中で、レインの木剣が止まった。
「今の、腕だけで振ったな」
「重心が遅れた」
「分かってるならいい」
次の一本は長かった。
レインの剣は相変わらず力を受け止めない。
打ち込んだ分だけ引かれて、ずらされて、返ってくる。
足の運びで粘って、最後は間合いを外された。
「今日は取れないな」
「そっちが本気を出し始めた」
「気のせいだ」
息が上がっていた。
木剣を握り直す手のひらに腕当ての革が擦れる。
もらった日から毎日着けているせいで革はもう手首の形に馴染み始めていた。
構え直す前に、レインが戸口の方へ顎をしゃくった。
「リア、もうすぐ喋るんだってな」
「母さんがそう言ってた」
「最初の言葉、何だと思う」
「賭けはしない」
「なんでだ」
「レインが有利だから。家にいる時間が長い」
レインは短く笑った。
「まんまだろ。あいつ、食い意地が張ってるからな。俺と同じだ」
「根拠がそれなら弱い」
「勘だ。俺の勘は当たる」
確かに、レインの勘はよく当たる。
ただ、今回はどうだろうか。
言うだけ言って、木剣を上げる。
「ほら、もう一本」
打ち込みの音が、暗くなり始めた庭に響いた。
汗を拭いて家に入る頃には台所の匂いが戸の外まで漏れていた。
――――――――――――――――――――
夕食の卓は、いつも通りの並びだった。
ガルドが端に座り、その隣にレイン。
アシュの向かいでリアが子供用の椅子に収まっている。
「ミラ、この鍋はもう下ろしていいのか」
「まだ。あと少しだから触らないで」
やりとりはいつも名前から始まる。
ガルドはミラを名前で呼ぶ。
レインもガルドを名前で呼ぶ。
この卓の上を一番多く飛んでいる音は、たぶんミラの名前だった。
リアが皿の縁を両手で叩いた。
いつもの音だ。
ミラが鍋を運びながら「はいはい」と応える。
リアの口が、何度か開いて閉じた。
「みー」
誰も気づかない。
ガルドはパンを千切っているし、レインは椀に手を伸ばしている。
「みーら」
ミラの手が止まった。
鍋を持ったまま、振り向く。
リアは皿を叩くのをやめて、ミラを見ていた。
「……今、あたしを呼んだ?」
「みら!」
今度は、はっきり聞こえた。
卓が静かになる。
ガルドがパンを持ったまま固まっている。
最初に動いたのはレインで、噴き出すように笑った。
「呼ばれたな、母さん」
「……なんで名前なのよ。かあさん、でしょう」
ミラが鍋を置いて、リアの前にしゃがみ込んだ。
「か、あ、さ、ん」
「みら」
「か・あ・さ・ん」
「みら!」
リアは両手を上げて、覚えたばかりの音を繰り返した。
よほど気に入った様子だ。
ミラは眉を下げて笑っていた。
目の縁が、少し赤い。
「……そう。あたし、ミラ」
諦めるのは早かった。
リアの頭を一度撫でて、それから思い出したように立ち上がり、火にかけたままの鍋へ戻っていく。
ガルドがようやくパンを置いて、大きく息を吐く。
「最初の言葉が母親の名前とはな」
「あんたのせいよ。あたしのことミラミラ呼ぶから」
言いながら、ミラは満更でもない顔をしていた。
「あたしね、店を手伝ってた頃は一日中名前で呼ばれてたの。ミラ、酒。ミラ、こっち」
「酒場の理屈だな」
ガルドが言い、ミラに睨まれて黙った。
アシュはリアの口の動きを見ていた。
仕組みは単純だ。
この家で一番多く鳴る音を、一番長く聞いて真似た。
それだけのはずだ。
なのに、ミラの目の縁は赤いままで、卓の空気は一段やわらかくなっている。
音一つで、人がこんな顔をする。
名前とはそういうものらしい。
「一番たくさん聞いた音なんだと思う」
アシュが言うとミラが顔を上げた。
「なにそれ」
「父さんも近所の人もみんなミラって呼ぶ。リアは一番聞いた音を真似ただけ」
ミラは少しの間、黙ってアシュを見た。
「……アシュって、そういう言い方するのね」
怒った顔ではない。
笑った顔でもない。
その中間の、初めて見る顔だった。
「悪い意味じゃないの。リアが選んだのがあたしの名前なら、あたしが一番この子のそばで喋ってたってことでしょ」
ミラはリアの頬を軽くつついた。
「なら、上等」
ガルドは、まだ何も言っていなかった。
パンの続きには手をつけないまま、リアを見ている。
「どうしたの」
ミラに聞かれて、ガルドは首を振った。
「レインの時は、依頼で外にいた。帰ったらもう喋っていた」
「ああ……そうだったわね」
「今日は、居た。それだけだ」
短い言葉だった。
でも、卓の空気がもう一段静かになった。
ミラが黙ってガルドの椀に汁を注ぎ足した。
レインが身を乗り出した。
「リア。れ、い、ん」
「みら」
「れいん」
「みら!」
「駄目だな」
レインがあっさり引き下がる。
それから、アシュの方を見た。
「アシュもやってみろ」
「あ、しゅ」
リアがアシュの顔を見た。
口が、何度か開いて閉じる。
卓の全員が待った。
「……みら」
「そうか」
レインが笑い、ミラが噴き出した。
悔しくはなかった。
この年頃はそういうものだと頭では分かっている。
それでも、いつか呼ばれる日のことを少しだけ考えた。
ガルドがリアの前に顔を寄せた。
「リア。俺はガルドだ」
「みら」
「ガルド」
「みら!」
「全部みらか」
リアは椀を指して「みら」、パンを指して「みら」と続けた。
覚えた音一つで、世界の全部を呼ぶつもりでいる。
ガルドが低く唸る。
「父さんと呼ばれたいんだがな」
レインが椀を置いた。
「無理だ。この家で父さんって呼ぶの、アシュだけだぞ」
リアがもう一度、皿を叩いて叫ぶ。
「みら!」
全員が笑った。
リアは自分が笑わせたと分かったのか、得意げに同じ音を繰り返す。
みら、みら。
湯気の向こうで、その音だけが跳ねていた。
アシュはリアの産声を聞いた夕方のことを思い出していた。
あの日、泣き声はただの音だった。
一年半経って、その音が名前になった。
繰り返した回数だけ、形になる。
昼の塔で聞いた言葉が、こんなところで答え合わせになるとは思っていなかった。
――――――――――――――――――――
夜、寝床に入ってからも壁の向こうから声がした。
「みら」
「はいはい、ここにいるよ」
「みら」
「もう寝なさい」
ミラの声は、口では面倒がっている。
でも、返事までの間がいつもより短い。
呼ばれるたびにすぐ応えている。
その向こうからガルドの低い声とミラの笑い声が続いていた。
何を話しているかまでは聞こえない。
でも、声の調子だけで足りた。
「なあ」
隣の寝床から、レインの声がした。
「なに」
「お前の最初の言葉、知ってるか」
「知らない」
「かあさん、だった。ある日いきなり、はっきり言った」
覚えている。
言った側だからだ。
周りの赤ん坊を思い出して、一番自然な時期を選び、一番自然な言葉を出した。
間違えないように練習してから出した。
「普通だな」
「そう、普通なんだよ。普通すぎて、ちょっと気味が悪かった」
レインは笑って、寝返りを打った。
「リアのは、間違ってて、うるさくて、いい」
「うん」
「ああいうのでいいんだよ、最初は」
それきり、レインの声はしなくなった。
間違えたまま堂々と呼ぶリアと、間違えないように選んだ自分。
言葉としてどちらが上等かは考えるまでもない。
アシュは天井を見ていた。
前世の名前を、最後に誰かに呼ばれたのはいつだったか。
思い出せるのは画面の中の文字ばかりだ。
声が付いてこない。
今の名前は、毎日誰かに呼ばれている。
塔で、庭で、この家の中で。
呼ぶ声はそれぞれ違う。
ゼドルの短い呼び方も、ミラの柔らかい呼び方も、同じ名前の別の顔だ。
名前を一つ覚えただけで、家の空気が一日分やわらかくなった。
魔法とは違う。
でも、あれも確かに何かを動かす言葉だった。
壁の向こうで、もう一度だけ小さな声がした。
「みら」
返事の声は、笑っていた。




