第二十六話
この半年で、手の中に増えたものが二つある。
水刃と突風だ。
どちらも、ゼドルの一言から始まった。
「風にできることは、水にもできる」
ゼドルはそう言って、いつもの水生成とは違う詠唱を口にした。
「ヴァッサークア、フルーミア――スケラ・エッグ・アイン」。
風刃と同じ効果の言葉に、水の呼びかけを重ねただけだ。
糸のように細い水が、藁を切った。
切り口は、風刃の時よりも滑らかだった。
「風は速さで切る。水は重さで切る。同じ切れ味でも、性質が違う」
最初の数回は、狙いが逸れた。
水は風より重く、飛ばす加減が違う。
何度目かで、ようやく真っ直ぐ届くようになった。
藁を切った時の手応えも、風刃とは少し違う。
軽く弾く感じの風に対して、水は押し込むような重みが残った。
突風は、その逆だった。
線ではなく、幅を思い切り広げる。
教わった日、庭の枯れ葉が一斉に舞い上がって、ゼドルに「広げすぎだ、隣の家まで飛んでいる」と言われた。
「風刃は、細く保つ。突風は、逆に広げる。同じ精霊なのに、正反対のことを教える」
「混乱しませんか」
「最初はする。だが、慣れれば、両方が同時に手の中にある感覚になる。今のお前がまさにそうだ」
言われてみれば、細くする感覚と、広げる感覚は、もう頭の中ではっきり分かれていた。
混ざることはない。
二つとも、今ではもう、狙いを外すことはほとんどなくなっていた。
塔での日課は、その間ずっと同じだった。
竈の灰を掃く。
棚の埃を払う。
それが終わると、椀を持って卓に座る。
水生成、風刃。
詠唱するたびに、ゼドルは椀の水面を見て、「揺れている」か「それだ」しか言わない。
同じことの繰り返しで、増えた二つもその繰り返しの途中に紛れて手に入った。
庭でのレインとの稽古も、同じように続いていた。
木剣がぶつかる音は、日を追うごとに軽くなっていく。
一本、取れる日も出てきた。
取れない日の方がまだ多かったが、差は縮まっている。
「今日は、取れたな」
レインがそう言う日が、少しずつ増えている。
取れなかった日も、以前より粘れるようになっていた。
躱すだけで終わっていた頃とは、明らかに違う。
汗の量も、以前より増えていた。
ガイとの詰所での手合わせも、変わらず続いていた。
木剣の重さの扱い方は、レインに教わった分だけ、確実に体に馴染んでいく。
前に水浴び場でガイが言っていた、フェイの予備の、刃のない剣を貸す話は、まだ出ていない。
そうやって過ごすうち、季節が一つ変わった。
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朝食の席で、ミラがいつもより早く起きていた。
台所に、いつもと違う匂いがしている。
甘い匂いだ。
焼き菓子の匂いだと、すぐに分かった。
「今日、誕生日でしょう」
言われて、初めて気づく。
数えていなかったわけではないが、今日という日に結びつけて考えていなかった。
塔の日課と、庭の稽古と、そういうものを数えているうちに、月日そのものを数えるのを忘れていた。
「七つか」レインが、パンを千切りながら言った。「早いな」
「そうか」
ガルドは短く言うと、卓の下からくるんだ布を取り出した。
開けると、小さな革の腕当てが出てきた。
「稽古用だ。手首を守る」
「ありがとう」
腕当てを、その場で嵌めてみた。
革の匂いがする。
木剣を振るための道具だと、すぐに分かった。
リアが皿を叩いて音を立てた。
ミラが軽く手を止めさせる。
いつもの食卓に、いつもより少しだけ甘い匂いが混ざっていた。
焼き菓子が、後で出てくるらしい。
七歳になった実感は、すぐには湧かなかった。
体はいつも通りだし、朝の予定も変わらない。
塔に行く。
掃除をする。
詠唱を繰り返す。
それだけだった。
鏡があれば見比べたかもしれないが、この家に鏡はない。
それでも、家を出る時、レインが一言だけ付け加えた。
「今日、塔で何か言われるかもな」
「何を」
「知らん。俺は魔法のことは分からん」
分からないなりに、何かを予感していた言い方だ。
レインの勘は、たいてい当たる。
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塔に着くと、竈の火はもう熾きていた。
ゼドルはいつもの位置にいた。
「七つか」
「はい」
挨拶より先に、その一言だった。
誰から聞いたのかは分からない。
フェイか、あるいは町の噂か。
ゼドルの耳には、色々なことが入ってくるらしい。
「今日から、新しいことをやる」
「水刃と突風は、まだ完璧じゃありません」
「完璧になるまで待っていたら、次に進む日は永遠に来ん。それは、これからも続ける。今日から始めるのは、別の話だ」
ゼドルが卓に、椀と一緒に小さな石を置いた。
表面に薄く霜が張っている。
触れてみると、石そのものは冷たくない。
霜だけが、そこに乗っているようだった。
「水には、まだ性質がある。フルーミアは流れ。今日教えるのは、グラシア。冷やす精霊だ」
「冷やす」
「水を凍らせる。今のお前がやっている水生成とは、別物だと思え」
ゼドルが詠唱した。
「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」。
ためは、いつもより一拍長い。
石に張っていた霜が、見る間に厚くなって、表面全体が白く覆われた。
「フロスタは凍らせろ。ヴァトゥンは水。ヘンドルはここに、という意味だ。一番小さい冷却の魔法、氷結という」
「僕にも、できますか」
「加護があるかどうかは、やってみるまで分からん。だが、水の加護を持つ者は、たいてい冷却の加護も一緒に持っている。フルーミアとグラシアは、根が近い」
「対立する精霊同士だと、そうはいかないんですか」
「対立する精霊は、加護そのものが乗りにくい。片方を持てば、もう片方は最初から諦めるしかない者が多い。水と炎、土と風、命と死。だが、フルーミアとグラシアは、対立していない。同じ水の中の、違う顔だ。持ってしまえば、同時に使うのも普通にできる。難しいのは、両方を持つところまでだ」
アシュは椀を手に取った。
詠唱を、頭の中で一度なぞる。
フロスタ。
ヴァトゥン。
ヘンドル。
水生成の言葉より、音の角が少し鋭い。
「ヴァッサークア、グラシア――フロスタ・ヴァトゥン・ヘンドル」
流れが来た。
いつもの水生成の流れとは、質感が違う。
糸ではなく、もっと重い、沈むような流れだ。
椀の中の空気が、わずかに冷たくなった。
手のひらにも、じんわりと冷気が伝わってくる。
でも、何も起きなかった。
水は、いつも通りの温さのまま椀に残っている。
ゼドルは何も言わず、次を促す顔をした。
「もう一度、やってみます」
二度目。
今度は、流れが椀に届く瞬間まで、意識を切らさなかった。
水生成の時とは逆に、流れを外に広げるのではなく、内側に閉じ込めるようなつもりで、詠唱を最後まで保つ。
椀の底に、薄い霜が張った。
「ほう」
短い声だった。
いつもの「それだ」とは違う響きだ。
霜は、指で触れるとすぐに溶けた。
それでも、確かに何かが起きていた。
三度目、四度目と繰り返すうちに、霜の厚みが少しずつ増していった。
指で触れても、すぐには溶けなくなった。
でも、水生成の時とは違う疲れがあった。
自分の中から椀へ伸びていく糸の色は、いつもの薄い青のままだったが、太さの加減がまだ掴めていない。
呼び水をどれだけ流せばいいのか分からないまま、多めに、多めにと送ってしまう。
四度目を終える頃には指先が重い。
塔での稽古で、こんな疲れを感じたのは久しぶりだった。
水生成の反復と同じ形の上達だ。
積み重ねれば、少しずつ形になる。
前世からの理屈が、今日もそのまま通用した。
呼び水の加減だけは、まだこれからだった。
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水を飲んで休んでから、ゼドルがもう一つの石を出した。
今度は、表面に焦げたような跡がある。
「風にも、まだ性質がある。ヴェンティラは風そのもの。今日教えるもう一つは、フルゴリス。雷だ」
「雷」
「風より、格段に危ない。水と違って、溢れても濡れるだけでは済まん」
ゼドルの声が、いつもより低くなった。
「指が落ちる話ではない。下手をすれば、命に関わる。今日は、見せるだけだ。お前にやらせるのは、もう少し先だ」
「なぜ、そんなに危ないんですか」
「雷は、加減が利かん精霊だ。水は溢れ、風は暴れるだけだが、雷は、当たり所によっては心の臓を止める。子供が扱っていい代物じゃない。儂も、最初に習った時は、師匠に三年待たされた」
三年、という数字に、アシュは黙った。
ゼドル自身が師匠に待たされたという話は、初めて聞く話だ。
師匠に仕えて待たされた年月が、目の前の老人にもあったということだった。
ゼドルが指先を、卓の焦げた石に向けた。
「テンペシュトゥルム、フルゴリス――グニストル・プンクト・アイン」
詠唱の直後、指先で小さな光が弾けた。
音はほとんどしない。
ただ、空気が一瞬だけ張り詰めて、石の表面に新しい焦げ跡が増えた。
焦げた匂いが、部屋の中にわずかに漂う。
「グニストルは火花。プンクトは点。アインは一つ。小さな雷を一点だけ起こす、雷点という」
「見るだけでも、いいんですか」
「見て、どれだけ危ないかを覚えろ。体で覚えるのは、もっと先だ。水にも風にも、慣れてからにしろ」
もう一度、ゼドルが同じ詠唱を口にした。
「テンペシュトゥルム、フルゴリス――グニストル・プンクト・アイン」。
今度は、指先ではなく、卓の焦げた石の上に光が弾けた。
点を置く場所を、変えたのだ。
石の表面が、また少しだけ黒くなる。
ための時間は、水生成よりずっと短い。
詠唱が終わるのとほぼ同時に、光が来た。
アシュは、石の上に残った光の残像を見ていた。
風刃を初めて見た時と、似た緊張があった。
あの時よりも、もっと張り詰めた緊張だ。
「なぜ、僕に見せたんですか。まだやらせないなら」
「知らないまま近づくより、知った上で近づく方が、まだましだ」
その言葉には、これまでの注意とは違う重みがあった。
危険を避けさせるための言葉ではなく、危険をそのまま受け止めさせるための言葉だった。
「今日は、ここまでだ」
ゼドルが石を片付けた。
「氷結は、繰り返し練習しろ。雷点は、まだ何もするな」
「勝手に試したら、駄目ですか」
「駄目だ」
短く、きっぱりと言われた。
これまで聞いたどの禁止よりも、重い響きがあった。
塔の外で魔法を使うな、という約束の時とも、また違う重さだ。
あの時は、一人でやらせないための用心だった。
今回は、自分自身に対する用心らしかった。
「風刃の時も、塔の外でやるなと言われました。今度は、塔の中でも駄目、ということですか」
「そうだ。儂が見ている前でだけ、少しずつやる。それ以外は、一切禁止だ」
「はい」
アシュは、頷いた。
二つの新しい言葉が、頭の中にまだ残っている。
フロスタ。
グニストル。
どちらも、これまでの詠唱にはなかった響きだった。
――――――――――――――――――――
塔を出ると、日が高くなっていた。
空気は、いつもと同じだ。
でも、頭の中は、いつもより忙しかった。
氷結の感触、雷点の光。
二つとも、体にまだ馴染んでいない。
水刃も突風も、こうして馴染んでいった。
氷結もいずれ、同じように馴染む日が来るのだろう。
雷点は、まだその先が見えない。
三年、というゼドルの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
庭に着くと、レインが素振りをしていた。
「新しいこと、教わったか」
「うん」
「どんなだ」
「言えない」
「知ってる」
レインは笑って、木剣をアシュに向けた。
「腕当て、どうだ」
「うん。ちょうどいい」
「ガルドが、朝から選んでた。お前が起きる前に」
それは、初めて聞く話だった。
腕当ての革の匂いを、もう一度思い出した。
「行くぞ」
いつもの構えだ。
木剣がぶつかる音も、いつも通りだった。
それでも、アシュの頭の中では、氷の霜と、指先の火花が、まだ静かに残っていた。
井戸の水で汗を流してから、家に入った。
夕方の空が、少しずつ色を変えていく。
卓には保温壺のスープが並んでいた。
朝のうちに入れた温かさが、夜までまだ残っている。
夕食の席で、ガルドが聞いた。
「塔は、どうだった」
「新しいことを、二つ教わった」
ガルドが、パンを持つ手を止めた。
「二つ」
「一つは、もう練習していい。もう一つは、まだ」
「まだ、というのは」
「三年待たされた人もいるくらい、難しいものらしい」
ガルドが、少しだけ眉を上げた。
「三年」
「ゼドルさんが、そう言ってた」
ガルドは、それ以上聞かなかった。
ただ、パンを一つ千切って、口に運ぶ。
何かを考えているような、いつもより長い間があった。
ミラが、約束していた焼き菓子を運んできた。
甘い匂いが、朝から台所に漂っていたものと同じだ。
リアが匂いを嗅いで、机に手を伸ばす。
レインが自分の分を半分、アシュの皿に分けた。
「誕生日だからな」
「いいのか」
「今日だけだ」
レインがそう言うと、リアが不満そうな声を上げた。
ミラが小さく笑って、リアの口にも一口分けた。
「七つになったな」
ガルドが、菓子を一口食べてから言った。
「うん」
短い言葉だ。
それでも、今日という日を、確かに数えてくれている一言だった。
窓の外で、風が路地を抜けていく音がした。
腕当ての革の匂いが、まだ手首のあたりに残っていた。




