第二十五話
夕食の匂いで、手が止まった。
包丁を握ったまま、動きが遅れた。
玉葱を炒める匂いだった。
いつもと同じはずの匂いだったが、今日は何かが違って感じられた。
似た匂いを、前世のどこかで嗅いだ気がした。
思い出そうとした。
台所。
フライパン。
誰かの声。
テレビの音。
狭い部屋。
窓の外の音。
断片が、次々に浮かんできた。
今までなら、ここまで細かく出てこない量だった。
断片は出てきたが、繋がらない。
何を作っていたのか、誰の台所だったのか、思い出せなかった。
ただ、断片の数だけは、以前より明らかに増えていた。
「アシュ、手伝って」
ミラの声で、我に返った。
「はい」
パンを切る作業に戻った。
手は覚えていた。
切る回数も、力加減も、いつも通りだった。
それでも、頭の隅では、さっきの匂いのことがまだ引っかかっていた。
「今日は、いつもより無口ね」
ミラがフライパンを振りながら、こちらを一瞬だけ見た。
「考え事してた」
「珍しいこと」
珍しくは、なかった。
ただ、口に出せる種類の考え事ではなかった。
誰にも見せられない考え事は、この六年でいくつも増えていた。
魔法のことならミラも知っている。
前世のことだけは違った。
話す言葉すら持っていなかった。
夕食は、いつも通り賑やかだった。
リアが皿を叩き、レインがパンを取り合い、ガルドが仕事の話を一言だけ挟んだ。
アシュはその輪の中にいながら、頭の半分だけを、さっきの匂いの続きに預けていた。
この賑やかさも、いずれ細部を忘れる日が来るのだろうか。
今はまだ、想像もつかなかった。
想像したくもなかった。
――――――――――――――――――――
夜、布団に入ってから、アシュはもう一度、さっきの匂いのことを考えた。
最近、こういうことが増えていた。
何かの拍子に、前世の記憶が、以前より鮮明に浮かぶようになっていた。
転生した直後は、田中誠としての記憶は断片的で、輪郭がぼやけていた。
名前も、顔も、細かい出来事も、曖昧なまま奥に沈んでいた。
それが最近、少しずつ違ってきていた。
通っていた学校の教室の位置。
使っていた駅の改札の数。
前の会社のデスクの並び方。
求められてもいないのに、勝手に浮かんでくることが増えた。
昨日は、通勤で使っていた電車の路線図が、ふいに頭に浮かんだ。
何線から何線に乗り換えていたか、乗り換えに何分かかっていたか、細部まで正確だった。
今日は、玉葱の匂い。
明日は、また別の何かかもしれない。
順番にも法則にも、心当たりはなかった。
顔は、まだ戻ってこなかった。
同僚の顔も、上司の顔も、はっきりしない。
名前すら、いくつかはもう思い出せない。
事実や場所や数字は戻ってくるのに、人の顔だけは、まだこちらに来ていなかった。
脳が育ったせいだろうか、とアシュは考えた。
赤ん坊の頃は、体を動かすことすら覚束なかった。
生まれてすぐの体は、記憶を保存する容量にも、読み出す速度にも、明らかに制限があった。
今の体は、六歳なりに育っている。
器が大きくなれば、しまえるものも増える。
単純な話かもしれなかった。
でも、それだけで説明がつくのかどうかは、分からなかった。
なぜ、前世の記憶を持ったまま生まれ変わったのか。
普通なら、そんなことは起きないはずだった。
前世の物語や創作の中でも、生まれ変わりというものは、たいてい記憶を持たない。
持っていたとしても、断片的な既視感程度で終わる。
田中誠のように、名前も出来事もほぼ丸ごと保持したまま、別の体に入るという話は、聞いたことがなかった。
考えても、答えは出なかった。
田中誠として死んだ夜のことは覚えている。
あの後、真っ暗になって、気づいたらこの体の中にいた。
その間に何があったのかを、誰も教えてくれない。
教えてくれる相手が、そもそも存在しない。
もっと分からないのは、この世界そのものだ。
この世界は、前世とただ国が違うという話ではなかった。
魔法があった。
精霊がいた。
加護があった。
人の目の色が、生まれつきの血筋を示していた。
田中誠が生きていた世界には、そのどれもなかった。
似ている部分より、違う部分の方が、圧倒的に多かった。
ただ生まれ変わるだけなら、まだ分かる。
人間は、いつかどこかで別の人間に生まれ変わる。
そういう話を、前世でも聞いたことがあった。
宗教の本や、テレビの特集で。
でも、なぜよりによって、これほど違う場所に、なのか。
同じ人間の姿をしているのに、世界の仕組みそのものが根本から違う場所に。
仕組みを知りたい、とアシュは思った。
前世からの癖だった。
理由が分からないことを、そのままにしておくのは落ち着かない。
原因があって、結果がある。
そう信じて生きてきた四十五年間があった。
バグには、必ず原因がある。
田中誠はそう教わって育った。
動かないコードがあれば、ログを見る。
ログになければ、条件を絞って再現させる。
再現できれば、原因は必ず見つかる。
見つからなかったことは、一度もなかった。
でも、今回ばかりは、ログを見る方法自体がなかった。
調べる相手も、聞ける相手もいない。
ゼドルに聞いても、答えは持っていないだろう。
この世界の誰も、田中誠という存在を知らない。
知りようがない。
魔法にも、加護にも、この問いに答える項目は用意されていなかった。
仕組みが分からないまま、受け入れるしかないことがある。
それを覚えたのも、この六年で得たものの一つだった。
――――――――――――――――――――
翌朝、目が覚めてすぐ、昨夜考えていたことの続きが頭にあった。
結論の出ない問いを抱えたまま眠ったのは、これが初めてではなかった。
前世でも、答えの出ない夜はあった。
それでも朝が来れば、体は動いた。
今日もそうだった。
朝食の席で、また同じ匂いがした。
今度は少し長く、匂いをたどってみた。
玉葱。
油。
焼ける音。
あの匂いの続きに、何か特定の料理があったはずだった。
名前まではっきり出てこないが、確かに好きだったという感覚だけが残っていた。
でも、味は出てこなかった。
どんな味だったか、思い出そうとしても、何も浮かばなかった。
甘かったのか、辛かったのか、濃かったのか、薄かったのか。
輪郭さえない。
ただ「好きだった」という結論だけが、答え合わせのできない状態で残っていた。
不思議だとアシュは思った。
教室の位置は、思い出せる。
駅の改札の数も、思い出せる。
事実は、鮮明になってきている。
なのに、味だけが、なぜか戻ってこない。
考えて、一つの仮説にたどり着いた。
舌が、違うのかもしれない。
今のこの舌は、この体のものだった。
田中誠の舌ではない。
記憶の方は、頭のどこかに残っている。でも味は、それを感じる舌の側に残る。舌が替われば、同じ記憶でも同じ味には戻らない。
舌はこの体のもので、記憶は前世のもので、その二つは、思っていたよりも独立していた。
「アシュ、また止まってる」
レインの声で、パンを持ったままの手に気づいた。
「考え事」
「朝から難しい顔だな」
「別に、難しくはない」
難しくは、なかった。
ただ、答えの出ない問いを、一つ抱えているだけだった。
――――――――――――――――――――
塔への道すがら、アシュはまた考えた。
前世の記憶が鮮明になっていくのに、味だけが戻らない。
同じことが、いつか他の感覚にも起きるのかもしれない。
匂いも、音も、触った感触も。
それは、少し寂しいことのようにも思えた。
田中誠として生きた四十五年間のうち、味という感覚だけが、静かに手の届かない場所へ移動していく。
誰に奪われたわけでもないのに、いつの間にか失われている。
そういう種類の寂しさだった。
塔の扉の前で、来訪者術式の光が灯った。
テンペシュトゥルムの印。
もう何百回も見た光だった。
この光を初めて見た日のことは、はっきり覚えている。
でも、その日の朝、何を食べたのかは、もう思い出せなかった。
アシュは扉を押した。
答えの出ない問いは、そのまま持って歩くしかない。
今日も、そうするだけだった。
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塔で、水生成の反復稽古をしている最中、ゼドルがふと言った。
「今日は、集中が浅いな」
「すみません」
「珍しいな、お前が。何かあったか」
答えに迷った。
魔法の失敗を隠す理由はなかったが、原因を正直に話せば、前世の話に触れないわけにいかない。
ゼドルに嘘をつく理由もなかった。
ただ、どこまで話すかは、決めなければならなかった。
「昔のことを、少し思い出していました」
「昔、というと」
「ずっと、ずっと前のことです」
全部は言っていないだけだ。
ゼドルは、それ以上聞かなかった。
ただ、椀を見て、少し考える顔をした。
竈の火が、ぱちりと小さく爆ぜた。
「昔のことを思い出すのに、集中が乱れるほどの何かがあったのか」
「はっきりしない記憶が、急に、はっきりしてきています。理由は分かりません」
「儂にも、昔のことは思い出せんことが増えた。逆に、お前は増えているのか」
「はい」
「若いということかもしれんな。器が育っている途中なら、そういうこともあるだろう。儂も、若い頃はもう少し違ったかもしれん。それも、また面白い話だ」
面白い、という言葉に、他意はなさそうだった。
ゼドルにとって、老いれば記憶が薄れるのは当然のことで、その逆が起きている子供がいることは、単純に珍しい事例として映っただけらしかった。
アシュはそれ以上、何も付け加えなかった。
ゼドルにこの謎を解く手立てがあるわけではない。
ただ、口に出したことで、少しだけ、頭の中が整理された気がした。
「もう一度、やります」
次の詠唱は、揺れが小さかった。
竈の火が、椀の水面をわずかに揺らしていた。
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夕方、家に帰る道すがら、また同じ玉葱の匂いがどこかの家から漂ってきた。
今度は、立ち止まらなかった。
ただ通り過ぎた。
家の明かりが、路地の先に見えてきた。
窓から漏れる光の色は、いつもと変わらなかった。
それでよかった。
答えが出ないなら、出ないまま歩けばいい。
それも、この六年で覚えたことの一つだった。




