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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第二十四話

 朝食の席でレインが布に包んだ木剣をアシュの前に置いた。


「これ、お前のにしろ。昨日使ったやつだ」


「いいのか」


「俺はもう使ってない。ガイと打ち合うなら、棒より木剣がいる」


 木剣の柄には、細かい傷がいくつも残っている。

 何年も振ってきた跡だ。

 柄の先端だけ、色が濃く沈んでいた。


「使い込んでるな」


「四年、使った」


 四年という数字が、アシュにはまだ実感の湧かない長さだった。

 今日からこれが自分の木剣になる。

 ガイに木剣を持ってこいと言われてから、ずっと欲しかったものだった。


「落とさないでね」


 ミラがそれだけ三回言った。

 三回目には、レインが小さく笑っていた。


 リアがテーブルの下から布の端を引っ張って、笑い声を上げた。

 ミラがやんわりと手を止めさせる。


 朝食の後、アシュは布に包んだ木剣を背負って、塔へ向かった。

 背中の重さがいつもの通学路を少しだけ違う道のように感じさせた。

 布越しに柄の位置を確かめる。

 歩くたびに肩のところで木の硬さが小さく揺れた。


――――――――――――――――――――


 塔に着くと竈《かまど》の火はもう熾きていた。

 灰の匂いが部屋の隅々まで染みついている。

 ゼドルはいつも通り棚の前にいた。

 罰の掃除を済ませると、ゼドルが口を開いた。


「今日は、水生成と風刃(ふうじん)だ。両方やる」


 アシュは棚から椀を取って、椅子に座った。

 石板の並びも、竈《かまど》の位置も、いつもと同じだ。

 それでも、昨日聞いた話のせいで部屋の空気が少し違って見えた。


「昨日の話、考えました」


「どの話だ」


「二重詠唱の話です」


 ゼドルは棚から手を止めて、こちらを見た。


「まだ早い、と言ったはずだ」


「分かってます。それでも、何をすればいいのか、知りたくて」


 ゼドルの目に面倒がる色はない。

 むしろ、質問そのものを値踏みしているような目だった。


 ゼドルはしばらく黙っていた。


「一つの流れに迷いがないか。それをまず確かめる」


「迷い、というのは」


「詠唱してから発動するまで、一度も揺れないことだ。今のお前の水生成は、まだほんの少し揺れる」


 揺れる、という自覚はない。

 だが、ゼドルが言うなら、そうなのだろう。


「風刃(ふうじん)も、同じですか」


「風刃(ふうじん)は、もっと厳しい。一度でも揺れれば、刃が曲がる。曲がった刃は、狙った所を切らない」


 曲がった刃、という言葉に少しだけ怖さを感じた。

 狙いを外した刃がどこへ行くのか、考えたくない。


 アシュは椀を握り直した。


「今日、それを見る。詠唱してみろ」


 アシュは詠唱した。

 ヴァッサークア、フルーミア――水が椀に満ちた。


「今のはどうでしたか」


「悪くない。だが、まだ揺れていた。最後の一拍で、少しだけ」


「漏れとは違うんですか」


「漏れの話ではない。量は合っとる。流れが最後まで静かかどうかは別の話だ」


 自分では分からない揺れだ。

 糸の見えないはずのゼドルが、椀の水の側からそれを読み取っていた。


「どこが揺れましたか」


「言葉にはできん。水面に出る。だが、言えば違う教え方になる」


 感覚でしか渡せないものがある、ということだ。

 それは剣の稽古でレインがよく言う「体で覚えろ」と同じ種類の言葉だった。


「もう一度、やってみます」


 肩の力を抜いて、もう一度椀を持ち直した。

 二度目。

 詠唱してから水が満ちるまでの間、意識を糸の先まで伸ばしてみる。


「まだ、揺れている」


 水面が、いつもよりわずかに波打っている。

 目には見えないはずのものが、椀の中の水にだけ表れていた。


 三度目。

 今度は、糸の途中で意識が切れた瞬間があった。


「今のは、揺れが大きくなった」


 力を入れすぎるとかえって崩れる。

 水を出す強さを教わった時と同じ話だ。

 強すぎと弱すぎの間の幅に入ればいい、とあの時ゼドルが言っていたのを思い出した。

 あの頃はまだ幅の意味がよく分かっていなかった。


 四度目で、初めて何も言われなかった。


「今のは」


「言わなかったのが答えだ」


 短く言われた。

 それだけで十分だった。

 ゼドルの基準では褒め言葉より沈黙の方が重いことがある。

 それを少しずつ覚えつつあった。


「これを繰り返せば、いつか二重詠唱に届きますか」


「届くかどうかは、儂《わし》にも分からん。だが、届く道の途中には、必ずこれがある」


 道の途中。

 まだ遠い場所の話だったが、道があるということは、歩けるということだ。

 歩けるなら、今日やることは今日のうちに決まっていた。


「風刃(ふうじん)もやってみるか」


「はい」


 ゼドルが頷いて、庭に続く戸を開けた。

 裏庭には藁を束ねた的がいつもの場所に立てられている。


「一筋、切ってみろ」


 藁の的は何度も切られた跡で表面が毛羽立っている。


 アシュは詠唱した。

 テンペシュトゥルム、ヴェンティラ――スケラ・エッグ・アイン。

 刃が走って、藁の束を音もなく切った。

 切り口はまっすぐだった。


「今のは」


「悪くはない。だが、切り口の端がほんの少し波打っている」


 言われて、切り口を近くで見た。

 確かに端の方だけ、繊維の切れ方が揃っていない。

 断面の光り方まで、途中で変わっていた。


「最後まで、集中が保っていない証拠だ」


「もう一度、やります」


 二度目。

 今度は、刃が藁を抜けるその瞬間まで、意識を切らさなかった。

 切り口を確かめる。

 端までまっすぐだった。


「それだ」


 短い言葉が今日は二度目だった。


――――――――――――――――――――


 詰所への道はいつもより荷物が重かった。

 木剣を布に包んで背負っている。

 ミラが朝から「落とさないでね」と三回言っていたのをまた思い出した。


「アシュ!」


 門をくぐると、ガイが走ってきた。

 今日は途中で止まって、ぶつからずに済んだ。

 庭の隅では若い衆が二人、いつも通り槍を合わせている。

 フェイの姿は詰所の奥に見えた。

 何か書き物をしていて、こちらには気づいていないようだった。


「持ってきたか」


「うん」


 布を解くと木剣が出てきた。

 レインの古いもので、握りの布までよく使い込まれている。

 木の色が先端と柄で少し違う。

 振ってみると思ったより軽かった。


「お前んちの、お下がりか」


「うん。レインの」


「上等じゃん」ガイは木剣を陽にかざして、傷の具合を確かめていた。


 ガイは自分の木剣を取ってきて二本を並べた。

 長さはほとんど同じだ。


「やっと、木剣同士だな」


「うん」


 ガイは自分の木剣を軽く一振りしてから、切っ先をアシュに向けた。


 構えると、いつもと違う重さがあった。

 棒よりも先端が重い。

 振り方も少しだけ変わる。


「行くぞ」


 ガイの木剣が来た。

 アシュは半歩下がって、間合いを外す。

 ガイの肩の沈み込みから次の一撃の線が見えた。

 線の通り、木剣を合わせて弾いた。


「お、防いだな」


「うん」


 二度目。

 ガイの木剣がさっきより速く来る。

 アシュは同じように弾こうとしたが、力が足りず、木剣ごと押し込まれた。


「まだ、押し負ける」


 ガイが木剣の先を下げずに言う。


「ガイと木剣でやるの、初めてだから」


「言い訳すんな」ガイが笑った。「三度目、行くぞ」


 三度目。

 今度は、押し込まれる前に半歩引いて、力を受け流した。

 ガイの木剣が空を切る。

 体勢を崩したガイが慌てて足を踏ん張り直した。


「今のは、いい」


 ゼドルの言葉と同じ響きだ。

 誰から言われても同じくらい嬉しかった。


「もう一回」


「うん」


 四度目。

 ガイがさっきとは違う軌道で打ち込んできた。

 低く、脛を狙う一撃。

 アシュは木剣を下げて受けた。

 衝撃が膝まで響く。


「棒じゃ、下は狙えなかったからな」ガイが笑った。「木剣だと、これができる」


 棒との違いは思っていたより大きかった。

 狙える場所も受け方も間合いの詰め方も、少しずつ違う。


 五度目。

 木剣がぶつかる音が、詰所の庭に響いた。

 棒の頃とは違う、重い音だ。

 若い衆が一人、手を止めてこちらを見ていたが、いつの間にか戸口に出ていたフェイに何か言われて、また槍に戻った。


「お前、前より強くなってないか」ガイが息を切らしながら言った。


「そうかも」


 塔での稽古のことは言わなかった。

 木剣を握る手の感触だけが、今日の全部だった。


「棒の時から、思ってたけど」ガイが木剣を担いで、肩で息をした。「お前、本当は結構やるだろ」


「そんなことない」


「またそれか」ガイは笑って、それ以上は聞かなかった。


 水浴び場で二人で水をかけ合った。

 冷たい。

 声を上げて笑った。

 水しぶきが日差しを受けて細かい虹のように光る。

 木剣は、水に濡れないよう二人とも岸に置いていた。


「なあ」ガイが濡れた前髪をかき上げながら言った。「今度は、俺んちの剣、貸してやろうか。親父の予備」


 予備、という言葉が少し引っかかった。

 フェイほどの人でも使わない剣が余るほど、詰所には道具があるということだ。


「本物の剣?」


「刃はついてない。訓練用」


「危なくないか」


「木剣より重いだけだ。すぐ慣れる」


 その提案に少しだけ心が動いた。

 今までは棒、今日から木剣。

 次に来るものが、どんな重さなのか、まだ想像がつかない。


「フェイさんは、いいって言うかな」


「聞いてみないと分かんねえけど、たぶん」ガイは肩をすくめた。「親父、そういうの気にしないから」


 目の色のこともそうだった。

 気にしない、というのはあの人にとって一番自然な答え方らしい。

 今日と明日の飯と仕事の方が大事だと、前にガイが言っていたのを思い出した。


「また今度な」


「うん」


 詰所を出る時、木剣を担いだガイの背中が見えた。

 屈託のない、いつもの背中だった。


――――――――――――――――――――


 家に着くと、レインが庭で待っていた。

 夕方の光が、木剣の切っ先だけを白く光らせている。


「遅かったな」


「詰所に、寄ってた」


「木剣、持って行ったか」


「うん。ちゃんと使えた」


 レインが頷いて、木剣を構えた。


「今日も、やるか」


「うん、やる」


 レインの木剣が来た。

 アシュは半歩下がる。

 線が見えた。

 今日も避けられなかった。


「一本」


「まだ、足りない」


 レインが少しだけ笑った。


「毎日、そう言ってる気がするな」


「言ってる」


 二度目。

 三度目。

 木剣がぶつかる音が庭に響く。

 詰所で聞いた音とよく似ている。

 だが、レインの木剣はガイのものより重く感じた。

 年季の違いなのか、体格の違いなのか、まだ判断がつかない。


「今日、ガイと打ち合ったんだろ」


「うん。木剣で」


「どうだった」


「まだ、力で負ける」


「木剣は、力じゃない」


 レインが構えを解いて額の汗を拭った。

 それから木剣の重心のあたりを指す。


「ここを持て。力じゃなく、重さで受ける」


 アシュは言われた通りに持ち直した。

 次の一撃を力ではなく重さで受ける。

 手首への負担が少しだけ軽くなった。


「それだ」


 もう一度同じ持ち方で受けた。

 今度は最初から力を入れずに構える。

 木剣同士がぶつかる感触がさっきより滑らかだった。


「ガイにも、教えてやれ」


「うん」


 教える、という言葉が少しだけ照れくさかった。

 今日一日、ずっと教わる側だった。

 誰かに何かを渡せる立場になるのは初めてのことだ。


 塔でも詰所でも庭でも、同じ言葉を今日は何度も聞いた。

 それだ、今のはいい。

 違う場所で違う人から、似た言葉が返ってくることがアシュには少し不思議だった。


――――――――――――――――――――


 夕食の席で、ガルドがパンを千切りながら聞いた。


「木剣、使えたか」


「うん。ガイ、喜んでた」


「そうか」


 ガルドはそれだけ言うと、スープを口に運んだ。


「今日は塔で何を」


「反復。同じことの繰り返し」


「いつも通りか」


「うん。でも、今日は少し違う話も聞いた」


「違う話」


 アシュはどう言えばいいか迷った。

 二重詠唱の名前を出せば長くなる。

 出さなければ何も伝わらない。

 ゼドルの言葉がまた頭の隅をよぎった。

 値打ちが付く、という言葉。


「いつか教えてもらえる技があるって。まだ、先の話だけど」


 ガルドはそれ以上聞かなかった。

 ただ、スープの匙を止めて少しの間、アシュを見ていた。


「そうか」


 短い返事だったが、いつもより少し長く目が合っていた。


 リアが皿を叩いて音を立てた。

 ミラが軽く手を止めさせる。

 いつもと同じ食卓だった。


「レインとの稽古は」


「まだ、全然勝てない。でも、今日は木剣の持ち方を教わった」


 レインがパンを千切りながら言った。


「筋はいい。あとは、慣れるだけだ」


 ガルドがレインの言葉に小さく頷いた。

 ミラがリアの口元を拭きながら二人のやり取りを聞いている。


「明日も、やるからな」


「うん」


 台所の湯気が天井に沿って薄く広がっている。

 夜が来る前の、いつもの匂いだった。


 食事の後、アシュは部屋に戻った。

 木剣を壁に立てかけると、握っていた場所だけ布の色が少し違って見える。

 柄に残った、レインの手の跡。

 いつか自分の手の跡も同じ場所に重なるのだろう。

 布の上から柄を一度だけ握って、離す。

 四年分の凹凸はまだ自分の手の形と合っていない。

 それでも、振れば音は同じに鳴る。

 合ってくるまで振ればいい。


 窓の外の月が庭の土を薄く照らしている。

 雲が、その上をゆっくり流れていた。


 アシュは布団に入って、静かに目を閉じた。

 遠くで、犬が一度だけ吠えた。

 それきり、家の中は静かになった。


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