第二十三話
卓の向こうで、ゼドルの目がじっとこちらを見ている。
値踏みの目でも驚きの目でもなく、何かの答え合わせをしている目だった。
ゼドルは椀を卓の上に置き直した。
空の椀が二人の間にある。
「詠唱している時、何が見える」
見える。
アシュはさっきまでの感覚を思い出した。
うまく言葉にできる自信はなかったが、聞かれたことには答えたかった。
「糸みたいなものです。自分の中から出ていって椀まで繋がる」
「太さは」
「毎回同じくらいです。太すぎても細すぎても駄目な気がして」
「駄目、というのは」
「漏れる気がします。太いと余った分がどこかに逃げる。細いと届く前に切れる」
そこまで言って、思い出した。
「いつもはそうです。でも、あの時は違いました」
「あの時、とは」
「剣を逸らした時です。いつもより糸が太かったです」
ゼドルは少しの間黙っていた。
「儂には糸そのものは見えん」
「はい」
「だが、想像はつく」ゼドルが言った。「あの時は、加減している余裕がなかったはずだ。怖くて、必要な分より多く押し出した。太かったのは、それだろう」
「限界が近い、というのとは違うんですか」
「近づいたから太くなったわけじゃない。太く出したから、近づいた。順番が逆だ」
「色は」
「水の時は薄い青です。風の時は白に近い色でした」
沢で見た、ゼドルの二本の流れを思い出した。
水色の流れと白に近い風の流れ。
あれと同じ色だ。
自分の糸も同じように見えているのだと、その時初めて気づいた。
「色まで見えるのか」
「はい。ずっとそうでした」
ゼドルの目が動かなくなった。
「それを見て、加減しているのか」
「はい」
「儂は感じるだけだ。ここに何かがある、というくらいの手応え。太さも形も分からん。分からんまま多めに送る。余る分は覚悟の上でな」
余る分。
「それで減るんですか」
「減る。無駄になった分だけ余計に呼び水がいる」
アシュは自分がやっていたことの意味をそこで初めて理解した。
ゼドルは手探りで水を運んでいる。
アシュは水の通り道が見えている。
同じ蛇口をひねっているようで、片方は目を閉じたまま、片方は目を開けたままだった。
「儂は四十年やって、無駄を減らす稽古をしてきた。手応えだけを頼りに、少しずつ削ってきた」
あの日、沢で見た二本同時の流れを、アシュは思い出した。
あれは鍛えた年月の分だと思っていた。
半分は合っている。
もう半分はこういうことだったのだと分かった。
「氷を溶かそうとした時は、どうだった」
アシュはあの朝のことを思い返した。
「何も見えませんでした」
「見えなかった、のか」
「怖くて、それどころじゃありませんでした。声も途中で止まりました」
「なるほどな」ゼドルが呟いた。「見えるのは落ち着いている時だけか。焦ればお前も他の者と同じになる」
そう聞くと少しだけ安心した。
何もかもが特別なわけではない。
怖ければ見えなくなる。
自分にもそういう境目があった。
「お前は、最初から見えている」
ゼドルの声に答えを探している響きがあった。
「見えているから無駄がない。無駄がないから疲れない」
アシュは何も言わなかった。
褒められているのか、それとも別の何かなのか、判断がつかない。
「これは良いことですか」
ゼドルはすぐには答えなかった。
椅子に座り直して、卓の上で指を組む。
「良いも悪いもない。ただの事実だ。だが」
言葉が途中で止まった。
「その事実を他人が知ったらどう思うか。それはまた別の話だ」
値打ちが付く。
ガルドから聞いた、ゼドルの言葉がそのまま蘇った。
青い目で、この歳で魔法が使える。
それだけで値打ちが付く。
今度は、それを知った上で来る。
「誰にも言うな、ですか」
「魔法のことは言うな。見えることは言う言わん以前の話だ。見せるな」
ゼドルは卓に置いた指を一本だけ立てた。
「もう一つ、話しておくことがある」
「まだ、何か」
「二つの属性を同時に編む技がある。二重詠唱、という」
「ゼドルさんが、沢でやったやつですか」
「そうだ」
沢で見たあの静かな流れを思い出した。
水色の流れと白に近い風の流れが、二本、同時に編まれていた。
「二重詠唱はその四十年の先にある」
ゼドルは、そこで言葉を切った。
「お前は見えている分、儂より早く辿り着くかもしれん。だがまだ早い」
「なぜですか」
「一つの流れもまだ迷いなく操れていない。二つを同時に持てば、片方が崩れた時、もう片方も巻き込む。危険も難しさも比べ物にならん」
アシュはその説明に素直に頷いた。
まだ早い、という言葉に不満はない。
むしろ、いつかやることが決まっている、という方が待つ理由になった。
「いつか、教えてもらえますか」
「いつかな」
短く言われた。
それでも、いつか、という言葉が確かに残った。
「ガイには言わないほうがいいですか」
「言うなと言ったのは儂だ」ゼドルが言った。「それでも話すかどうかは、お前があいつをどこまで知っているかの話だ」
アシュはガイの顔を思い浮かべた。
屈託のない、いつもの顔。
木剣を持ってこいと笑っていた顔。
「ガイはたぶん何も気づいていません」
「なら、それでいい。無理に話す必要はない」
その答えに少しだけ体から力が抜けた。
ゼドルはしばらく黙っていた。
窓の外の明かりが、もう夕方の色になっている。
「怖くないか」
急に聞かれて、アシュは戸惑った。
「何がですか」
「自分が他の者と違う、ということが」
アシュは少し間を置いてから答えた。
「怖くはありません。まだよく分かりません。今までも色々見えていました。それが普通じゃないと知っただけで、僕自身は何も変わっていません」
「そうか」
ゼドルはそれだけ言うと、椅子の背にもたれた。
「儂は怖い。お前じゃない、周りの連中がな」
詰所の庭でこちらを見ていた若い傭兵の顔が、頭の隅をよぎった。
値打ちが付く、という言葉も。
「ガルドには儂から話しておく。お前はいつも通りでいい」
「杖の話は、なしですか」
さっき保留にされた話を、アシュは思い出した。
「さっき言った通りだ」ゼドルが言った。「見えている者には増幅する必要自体が薄いかもしれん。だが、それもまだ分からん。焦って使い方を決めるな」
「分かりました」
「今日はもう終わりだ。帰れ」
アシュは立ち上がった。
「明日も来ます」
「来い。掃除はまだ残っている」
ゼドルはそれだけ言って、椅子から動かなかった。
戸口で振り返ると、竈の前に座ったまま灰の跡をじっと見ている。
何を考えているのか、後ろ姿からは分からなかった。
――――――――――――――――――――
家に着く頃には、日が傾いていた。
「おかえり」
ミラが台所から顔を出した。
夕食の匂いがする。
玉葱と何かの肉を焼く匂い。
足元にリアが這ってきた。
アシュの膝に手をついて、立ち上がろうとして、途中で尻餅をつく。
それでも、機嫌よく声を上げた。
「レインは」
「庭。さっきからずっと待ってる」
待ってる、という言葉にアシュは足を止めた。
「ガイに、木剣持ってこいって言われた」
「今度、連れてきなさい」ミラが笑った。「レインが先に待ってるから、そっちが先ね」
庭に出るとレインが木剣を素振りしていた。
日が落ちかけて、影が長い。
アシュに気づくと、素振りを止めた。
「遅かったな」
「ゼドルさんの話が長くて」
「そうか」
レインは木剣を下ろして、壁に立てかけてあったもう一本をアシュに向けて放った。
受け取った木剣は、いつもより軽い。
「今日やるのか」
「今日じゃなきゃ、いつやる」
レインの声はいつもと変わらない。
でも、待っていたのは分かった。
何日も前から、この一言のために庭に立っていたのだと分かった。
「二回目だよな」
一回目は、攫われる前の日の夕方だった。
アシュは木剣を構えた。
「二回目」
言葉にするとあの納屋の暗さが一瞬だけ蘇った。
パンの味がしなかった夜。
手首の縄。
帰って、二回目をやる、とだけ決めていた夜。
あの時の自分に、今、答えを返している気がした。
「行くぞ」
レインの木剣が思ったより速く伸びてきた。
アシュは半歩下がって、間合いを外す。
ガイの肩の沈み込みと同じ、体の重心が動く一瞬。
線が見えた。
でも、見えることと避けきることは別だ。
木剣の先が肩をかすった。
「一本」
レインが少しだけ笑った。
「見えてるのに、避けられないのか」
「まだ足りない」
「足りない、で終わらせるなよ。次だ」
二度目。
レインの木剣はさっきと同じ角度から来た。
線もさっきと同じに見える。
アシュは同じように半歩下がった。
だが、レインの木剣は途中で角度を変える。
同じ線に見せて、途中から別の軌道に乗せていた。
躱しきれず、脇腹に木剣が触れた。
「同じ躱し方を、二度は見せるな」レインが言った。「一度見切られた形は、次から狙われる」
三度目。
今度は、線が二本重なって見えた。
どちらが本物か分からないまま、木剣を構える。
レインの一撃が来た瞬間、二本の線のうち太い方についていった。
当たらなかった。
躱せた。
「今のはいい」
レインの声に初めて感心の色が混じった。
それでも、木剣を下ろす気配はない。
夕方の風が、庭の木を鳴らした。
汗がこめかみを伝って落ちる。
塔での二十三回では出なかった汗だった。
「もう一本」
四度目、五度目。
アシュの木剣は、一度もレインに届かなかった。
それでも、木と木がぶつかる音は、前より澄んで聞こえた。
息が上がった。
手も少しだけ震えた。
塔では震えなかった手が、ここでは震えている。
同じ体のはずなのに、違う場所が疲れている。
そのことがなぜか安心につながった。
何もかもが規格外なわけではない。
剣はまだちゃんと普通に疲れる。
「今日はここまでだ」
レインが木剣を下ろした。
「まだ、やりたい」
「暗くなる。母さんが夕飯だと言ってる」
言われて、庭が薄闇に沈みかけているのに気づいた。
台所の窓から、明かりが漏れている。
「明日も?」
「毎日やる。お前が望むなら」
望むなら、という言い方がレインらしかった。
決めるのはアシュの側だという言い方。
「うん、やる」
レインは頷いて、木剣を壁に立てかけた。
アシュも借りた木剣を隣に立てかける。
二本並んだ木剣は、アシュの方が少し短い。
握った時の重さも、いつも少しだけ違った。
「飯にするぞ」
レインが先に歩き出した。
アシュは少し遅れてついていく。
肩がまだじんじんと痛い。
塔での疲れとは違う痛みだ。
この痛みは、明日には引いている。
そういう種類の痛みだった。
台所からリアの笑い声が聞こえた。
窓の明かりが庭の土を四角く照らしている。
アシュはその四角い光の中を通って、家に入った。
――――――――――――――――――――
夕食は玉葱と肉を焼いたものとパンだった。
湯気の匂いが部屋いっぱいに広がっている。
「今日も、塔の掃除か」
ガルドがパンを千切りながら聞いた。
「うん。それと、話も」
「話」
「疲れない理由が分かったって」
ガルドはそれ以上聞かなかった。
ただ少しの間、アシュの顔を見ている。
何を確かめればいいのかもまだ分からない、という目だった。
「レインと庭で打ち合ってたな」
「うん。二回目」
「二回目」
ガルドがその言葉を繰り返した。
意味までは知らないはずだ。
それでも、何かを察したような間があった。
「そうか」
それだけだった。
でも、その一言で十分だった。
リアがミラの膝の上で皿を叩いて音を立てた。
ミラが軽く手を止めさせて、また食事に戻る。
いつもと同じ食卓だった。
アシュはパンを一つ取って、齧った。
塔で聞いた話も、庭で聞いた木剣の音も、まだ頭の中で整理しきれていない。
それでも、パンの味はいつもの味がした。
食事の途中でレインがぽつりと言った。
「明日はもう少し長くやる」
「うん」
「息が上がるくらいまで、な」
アシュは頷いた。
塔で二十三回水を出しても上がらなかった息が、庭では五回で上がった。
同じ体の中にそういう差があることが、まだ少し不思議だ。
窓の外で、虫の声がし始めている。
夜が来る前の、いつもの時間。
まだ日課になる前の、二回目だった。
食事が終わって、皿を片付けた後、アシュは部屋に戻った。
窓辺に腰かけて、今日一日を思い返そうとして、やめた。
整理するには、まだ材料が多すぎる。
代わりに、木剣を握った手の感触を確かめた。
まだじんわりと痺れている。
塔で二十三回水を出した手とは別の疲れ方だった。
ガイに木剣を持っていく約束がある。
詰所でまた棒ではなく木剣で打ち合える。
塔では罰の掃除があり、庭ではレインが待っている。
やることが急に増えていた。
悪くない増え方だった。
窓の外の月は、まだ細い。
今日も、その光の下で庭の土が静かに冷えていくところだった。
塔の竈も、今頃はもっと冷えているはずだ。
布団に入ると、体の重さがいつもより早くやってきた。
目を閉じる前から、まぶたが落ちかけている。
塔では疲れなかった手が、庭では震え、今は瞼だけが重い。
全部が特別なわけではない。
そのことを、もう一度確かめてから、静かに目を閉じた。




