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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第二十二話

 頬の傷が塞がったのは、五日目だった。


 手首の擦れた痕はもう跡形もなかったが、その横の細い切り口だけは、まだ薄く赤い線を残している。

 ミラは毎晩それだけ確かめて、黙って軟膏を塗り直した。


 監禁されていた数日間の疲労は、いつの間にか抜けていた。

 朝、起きて真っ先に感じるのが体の重さではなくなった日、アシュはそのことに気づいて、少し驚いた。

 あの重さに、いつしか慣れてしまっていたらしい。

 腕を伸ばし、拳を握って、開いた。

 引っかかるところは、どこにもない。

 ただの、いつもの手だった。


 朝食の席で、リアがミラの膝の上で、「あう」と声を出してアシュを見た。

 小さな手が、匙を握ろうとして、届かずに空を掴む。

 行き先を聞いたのはレインだった。


「今日はどこに行くの」


「詰所と、塔」


「詰所が先か」


「うん」


 レインは頷いて、それ以上聞かなかった。


「稽古は、また今度でいい」


「うん、今度」


 稽古の埋め合わせは、まだ果たされていない。

 二人ともそれを覚えていたが、今日はその日ではなかった。


 ガルドは、朝から仕事に出ていた。

 行ってきますと言うと、ミラが玄関先で「暗くなる前に」とだけ言う。

 何日か前までは、その一言に別の重さがあった。

 今は、ただの一言だった。


――――――――――――――――――――


 ガレア傭兵団の詰所へ向かった。


 広場で遊ぶ、という話ではない。

 ガイに会うなら詰所へ来い、とフェイがガルドに言ったそうだ。

 誘拐を仕組んだ相手の正体は、まだ分かっていない。

 外で目立つより、その方がいいという話だった。


 前に来たときと同じ庭だった。

 隅で男が二人、槍の穂先を布で巻いて突き合っている。


「アシュ!」


 声のする方を見ると、ガイが木の棒を放り出して走ってきた。

 途中で止まりきれず、肩からぶつかってくる。

 押されて、少し後ろに下がった。


「もう平気なのか。傷とか」


「もう平気」


「そうか」


 ガイはそれだけ言うと、放り出した棒を拾いに行って、もう一本を庭の脇から取ってきた。


「やるか」


「棒で?」


「木剣は詰所に置いてない。棒で我慢しろ」


 渡された棒は、木剣より軽くて、握りの太さが違う。

 ガイが構えを取った。

 踏み込みが浅い。

 前に見た時と同じ、切り替えの速さで動くための構えだった。


「行くぞ」


 ガイの棒が、思ったより早く伸びてきた。

 アシュは棒で受けた。

 木と木がぶつかる音。

 反動で腕がしびれた。

 ガイの棒はもう引かれていて、次の角度から来ていた。


 考える前に体を動かす。

 前に見た通りだ。

 踏み込みが浅い分、次の動きに移る時間が短い。

 速さで押し切るタイプだった。


 三度目、棒先が肩をかすった。


「一本」


 ガイが棒を下ろして笑った。


「お前、剣の筋悪くないな。レインに教わってるだけあるわ」


「もう一回、いいか」


「もちろん」


 二度目は、様子が違った。

 ガイの棒が来る前に、アシュは半歩下がって、間合いを外す。

 ガイの棒が空を切った。

 体勢が流れた一瞬に、アシュの棒がガイの肩に触れた。


「……あ」


 ガイが自分の肩を見て、それからアシュを見た。


「今、外したのか。俺の間合いを」


「レインに教わった。力を受けないで、ずらす」


「マジか」ガイは笑って、棒を拾い直した。「じゃあ、もう一回」


 三度目は、ガイが半歩深く入ってきて、逸らしきれなかった。

 棒先が肩をかすった。


「一本、返した」


「ガイの方が速い」


「速いだけだよ。親父は、速さより先を読む方が大事だって言う」ガイが自分の肩をさすった。「お前、なんか嫌な動きするな。次、分かってるみたいだった」


 ガイの肩が沈み込む一瞬、次の一撃が線として見えていた。

 それを言葉にする必要は感じない。

 アシュは黙っていた。


 庭の奥から、フェイが歩いてきた。

 槍を突き合っていた男の一人に何か短く指示して、こちらに目を向ける。

 琥珀(こはく)色の目が、アシュを見て、少しだけ長く留まった。

 特に何か言うわけでもない。


「傷は塞がったか」


「はい」


「そうか」


 フェイは頷いて、そのまま庭の別の場所へ歩いていった。

 言葉はない。

 それでよかった。

 言葉にされるより、その方が楽だった。


「親父、あんまり喋らないだろ」


「知ってる」


「無口なだけだから。優しいんだぞ、ほんとは」


「知ってる」


 庭の隅で槍を合わせていた若い方の男が、稽古の手を止めて、こちらを見ていた。

 何か言いたそうな顔をしていたが、フェイに一睨みされて、また槍を構え直した。


 ガイが棒を担いで、詰所の裏手を指した。


「水浴び場、貸してもらってんだ。行くか」


 二人で水を撒き合った。

 冷たい。

 声を上げて笑った。


 水をかけ合う合間に、ガイが一度だけ聞いた。


「結局、何があったんだよ」


「話しちゃだめだって、言われてる」


「親父に?」


「ううん。塔のおじいさんに」


「ゼドルさん?」


「うん」


「……そうか」


 ガイはそれ以上聞かなかった。

 追及しない、というのも一つの答え方だ。

 代わりに、隣にいることを確かめるように、何度も肩をぶつけてきた。


 日が高くなる頃、アシュは棒を置いた。


「もう行くのか」


「塔」


「あの爺さんのとこ、今日も行くのか」


「罰があるから」


「罰?」


「掃除」


 ガイは首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。


「今度、木剣持ってこいよ。棒じゃ物足りない」


「今度」


「また来いよ」


「うん」


 水浴び場で濡れた前髪から、水が一筋垂れる。

 アシュはそれを手の甲で拭って、詰所の門を出た。


――――――――――――――――――――


 塔に着くと、竈《かまど》の火はすでに落ちていた。

 灰が薄く積もっている。


 扉をくぐるのは、誘拐される前と同じはずだったが、少し違う感覚があった。

 路地の匂い、竈《かまど》の煙、棚の並び。

 何も変わっていないのに、以前より近くに感じた。


「掃除、やります」


 ゼドルは棚の前で石板を並べ替えていて、こちらを見なかった。


「灰を出せ。棚の上も、埃が積もっとる」


 アシュは箒《ほうき》を取って、灰を掃き出した。

 棚の一段一段、布で拭く。

 石板は動かさず、その周りだけ。

 竈《かまど》の脇に積まれた薪の数を数えて、足りない分を裏の小屋から運んだ。

 前に来た時と、変わらない作業だ。

 ただ、体が軽い。

 腕を伸ばしても、震えなかった。


 一通り終えると、ゼドルが向かいの椅子を示した。


 卓を挟んで座った。

 前回と同じ配置だ。

 ゼドルはしばらく黙ってアシュを見ていた。

 値踏みとは違う目だ。

 何かを測ろうとしている目だった。


「聞いておきたいことがある」


「はい」


「あの時、お前は何を使った。順番に言え」


 アシュは、あの日のことを思い返した。


「最初は、手首の縄。風刃(ふうじん)で、細い一筋。皮を少しだけ切りました」


「次は」


「氷を、どうにかして溶かしたくて。ヴァッサークア、とだけ言えました。その先の言葉が、出ませんでした」


「魔法は」


「来ませんでした」


「それでも、それは使ったことに数える」ゼドルが言った。「発動しなくても、詠唱を始めれば、何かが動く。無駄に減らしただけだ」


 アシュは、その言葉を初めて聞いた。

 詠唱すれば必ず何かが起きる、と思っていた。

 届かなかったものは、何もしなかったことと同じだとも。

 違った。


「三度目は」


「フェイさんを庇った時。風刃(ふうじん)で、剣の腹に当てて、逸らしました」


「それで全部か」


「はい。それで全部です」


 ゼドルは頷いた。

 それから、椅子の背にもたれる。


「目の色を教える」


 アシュは黙って聞いた。


「金色は、器が一番小さい。世界にあるアニマを、詠唱で少しずつ借りてくるしかない。オレンジから赤は、そもそも自分の中にあるアニマの量が多い。詠唱を挟まず、その場で放てる。無詠唱、と呼ぶ。赤は、その中でも別格だ」


 言い方に、何か含みがあった。

 赤より上があるのか、と聞きたかったが、聞かなかった。


 ゼドルは、アシュの目を見た。


「お前の目は青だ」


「はい」


「分からん」


 短く言われた。


「金でも赤でもない。どこに当てはまるのか、儂《わし》には分からん。だから確かめる」


「ゼドルさんは、オレンジですよね」


「儂《わし》は薄い方だ。だからこそ、詠唱の精度を鍛えた。無詠唱で放てるほどの器は、儂《わし》にはない」


 あの日、沢で見た、水と風が二本同時に編まれていた流れ。

 あれも、器の大きさではなく、鍛えた年月の分だったということになる。


「確かめる、って」


「あの時使った風刃(ふうじん)は二回。それが、今のところのお前の限界だ、と儂《わし》は見ている」


 限界。


 考えたことのない言葉だ。

 あの時は、限界かどうかなど確かめる余裕がなかった。

 ただ必要だったから使った。


「金目相当なら、それで説明がつく」ゼドルが続けた。「金目の弱点は、器そのものより、間が保たない方だ」


「間」


「水を出す時、詠唱の後に少しの間があるはずだ」


「はい。ため、だと思っていました」


「その、ため。あの間に何が起きているか教える」


 ゼドルが、卓に指を一本置いた。


「詠唱をしてから実際に発動するまでの間、外のアニマが寄ってくるのを待っている。ただ待つだけでは寄ってこない。自分のアニマを少しだけ混ぜて、呼び水にする」


 呼び水。


 アシュは、水生成の詠唱を思い出した。

 詠唱してから水が生まれるまで、確かに一拍の間がある。

 あの間にそういう仕組みがあったとは考えていなかった。

 あの氷の時は呼び水以前に、言葉が途中で切れていた。


「器が小さい者は、呼び水にできる量も少ない。だから何度も使うとすぐに尽きる。金目が魔法を連発できないのはそれが理由だ」


「尽きたらどうなりますか」


「詠唱しても寄ってこなくなる。それだけならまだいい」


 ゼドルの声が、低くなった。


「呼び水が切れても、無理に押し込もうとする者がいる。そうなると、寄ってくる分では足りず自分の中にある命そのものを削り出す。加減を誤ればそれで死ぬ」


 命。


 その一言で、あの沢の記憶が、急に鮮明になった。

 視界が灰色になった瞬間。

 音が遠くなった瞬間。

 鼻から垂れた、生ぬるいもの。


「あの時、沢で――」ゼドルが続けた。「あれは、呼び水が尽きた程度の話じゃない。お前は、自分の中の分まで、無理に引き出していた」


 仕組みとしては、筋が通っている。

 だが、聞いた話の重さは、筋の話では済まなかった。


「対策は、二つある」ゼドルが指を二本立てた。「一つは、練習だ。呼び水の量そのものを、少なくしていける。上手くなればなるほど、少ない呼び水で済むようになる」


「もう一つは」


「杖だ。加護紋を刻んだ道具に、呼び水を注げばそこから発動する。自分の加護と杖の加護紋が合えば、少ない呼び水でも大きく響く」


「僕にも杖は使えますか」


「使える。ただし、今のお前には早い」


「なぜですか」


「杖は加護紋と呼び水の相性で威力が決まる。今のお前はまだ相性も何も測れていない。早い段階で杖に頼れば自分の呼び水がどれだけあるか、いつまでも知らんままになる」


 筋は通っている。

 アシュは頷いた。


 それ以上は、ゼドルも言わなかった。


「確かめる」ゼドルが立ち上がって、棚から空の椀を持ってきた。「水生成でお前のアニマを測る。少しでも体調に変化が出るまで続けろ。それで、呼び水がどれだけ保つかも分かる」


 アシュは椀を見た。


「何回やればいいですか」


「金目なら十度も持たん。息が上がって手が震え出す。そこまでやれ」


 儂《わし》が昔見た金目の商人は、五度目で膝を突いた――そう付け加えて、ゼドルは椀を卓に置いた。


――――――――――――――――――――


 最初の一回目は、いつもと同じだった。

 詠唱して、間があって、水が生まれた。


「ヴァッサークア、フルーミア――ヴァクナ・リンド・ヘンドル」


 二回目、三回目。

 椀の水を桶に空けて、また詠唱する。

 同じことの繰り返しだ。


 水を椀から桶へ移す音だけが、規則正しく響く。

 ゼドルは卓に片肘をついて、黙って見ていた。

 椅子の位置を、一度も変えない。


 詠唱するたびに、自分の中から出ていく糸が見える。

 太すぎず、細すぎず、椀までの一番短い形をなぞっている。

 漏れがない。

 前世で、無駄なコードを一行ずつ削っていた時の感覚と、似ていた。

 要る分だけを、正確に流していた。


 五回を過ぎても、何も変わらなかった。

 息は乱れない。

 手も震えない。


 ゼドルは黙ったまま、卓の向かいで見ていた。


 十回目。

 椀に、水が満ちた。


「十だ」


「まだいけます」


 ゼドルの眉が、わずかに動いた。

 それだけだった。


「続けろ」


 十五回。

 二十回。

 水を空ける桶が、いつの間にか半分近く溜まっている。

 腕の重さも、頭の芯の熱さも、感じない。

 今までと何も違わなかった。


「金目ならとうに倒れとる」


 ゼドルの声には、驚きより警戒があった。


「もういい」


 ゼドルの声が鋭くなった。


「まだ大丈夫です」


「なぜそう言い切る」


 アシュは少し考えた。

 手を見る。

 震えていない。


「あの時、沢で二発目を撃った後視界が灰色になりました。音も遠くなって鼻血が出ました。今はそれと違います」


 ゼドルは椅子から立って、卓を回り込んできた。

 アシュの隣に立って、顔を覗き込む。

 頬に触れて、目を確かめた。

 血の気も、瞳の揺れも、いつもと同じだった。


「……三度だけ、続けろ。儂《わし》が見ている」


 二十一回目。

 二十二回目。

 二十三回目。


 何も起こらなかった。

 手も、目も、息も、最初の一回目から、何一つ変わっていない。


 ゼドルが、椀を取り上げた。


「もうやめろ」


 声に、これまでとは違う響きがあった。

 命じる声ではない。


 アシュは椀を取り上げられた手のまま、ゼドルを見た。


 ゼドルは、しばらく何も言わなかった。

 竈《かまど》の灰の匂いだけが、部屋の中にあった。


「今何をした」


 アシュは、その問いの意味が分からなかった。


「……いつもと同じことをしました」


「そうだ。二十三回、同じことをした」


 ゼドルの目が、まだアシュの手を見ている。

 震えていない手を。


「お前は疲れていない」


 言われて、初めて気づいた。

 疲れていない。

 それが普通ではないという意味であることに、今、気づいた。


 さっきの棒稽古で、ガイの肩の沈み込みから、次の一撃が線として見えていた。

 今のこれも、線で見えている。

 だが、あれは相手の体の線で、これは自分の内側を流れる線だ。

 似ているようで、違う何かだった。


 ゼドルは、何も足さなかった。

 ただ、その事実だけを、卓の上に置いたままにした。


 外で、風が路地を抜けていく音がした。

 竈《かまど》は、まだ冷たいままだ。

 灰の匂いだけが、いつまでも部屋に残っていた。


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