第二十一話
朝の道は、まっすぐだった。
だが、長かった。
腕の中の重みは、抱え上げた時の軽さとは違って感じられた。
生きて戻ってくる重さは、失っていたかもしれない重さの分だけ、余分に重い。
ガルドは、その重さを、両腕で確かめるように、何度も抱き直した。
アシュの息は、規則正しい。
時々、眉の間に力が入って、また抜ける。
夢の中でも、まだ何かと戦っているらしい。
ガルドは、その眉が緩むたびに、少しだけ肩の力を抜いた。
沢の音が、遠くなっていった。
かわりに、鳥の声が増える。
朝の光が、木の間から縞になって落ちている。
いつもなら、何も思わずに通り過ぎる道だ。
今日は、一歩ごとに、確かめるように歩いた。
この道の先に、家がある。
家に、アシュを連れて帰る。
それだけのことが、今日はひどく重要なことに思えた。
分かれ道で、若い衆が三人、駆けてきた。
ガレアの詰所の連中と、町の見張りだ。
フェイが顎で縄尻を示すと、三人はそれぞれ縄を受け取り、来た道を戻っていった。
ヴェルクが振り返って、ガルドの腕の中を見る。
何も言わずに、連れていかれた。
声の届かない距離まで離れてから、ゼドルが口を開いた。
「話しておく」
足は止めなかった。
杯を運ぶときと同じ、変わらない声だ。
「教えたのは儂だ。責任も、儂が取る」
ガルドは、隣を歩く老人を見た。
「アシュに才があると気づいたのは、去年の冬だ。術式に刻まれた精霊の印が見える目を持っていた。教えんわけにはいかんかった」
「知っていた。塔に通っているのは」
「知っとったのは、通っとることだけだろう。使えるようになったことまでは、知らんかったはずだ」
ガルドは黙った。
図星だ。
「水と、風。二属性、両方使えている。加護は生まれで決まるものだが、使えるかどうかは別の話だ。六歳で、両方まともに詠唱を通せる子供は、儂も見たことがない。あの縄を切ったのも、あの剣を逸らしたのも、アシュだ」
剣を逸らした。
その一言で、フェイの足が止まった。
「……待て」
声が、初めて低くなった。
「あの時、剣の軌道が変わったのも――あの子か」
ゼドルは答えなかった。
答える必要がない。
フェイは、ガルドの腕の中で眠っている子供を、しばらく見ていた。
「あの一声だけじゃ、なかったってことか」
誰も、否定しなかった。
フェイは息を吐いて、それだけで済ませた。
表情は、あまり変わらない。
ただ、縄尻を持っていた手が、一度だけ強く握られて、緩んだ。
「――そうか」
フェイは前に向き直り、また歩き出した。
ゼドルが続けた。
「頼みがある」
「何だ」
「このこと、できるだけ他人には言うな。町の連中にも、ガレアの残りにも」
「なぜだ」
「あの晩、お前に言った通りだ。噂だけで値が上がる。魔法が使えると知れれば、もっと上がる。今日みたいな連中が、また来る。今度は、それを知った上で来る」
値打ち。
ガルドの腕の中で、アシュが小さく身動きした。
眠ったままだ。
「商品としてじゃない。道具として狩られる。そういう意味だ」
ガルドは、腕の中を見た。
頬に枝の傷、鼻の下に血の跡。
傷だらけの、小さな顔。
「誰が狙うと」
「貴族の中にも、血筋を欲しがる家がある。魔法まで使えるとなれば、閉じ込めてでも手元に置きたいと思う者が出る。今日みたいな連中は、ただの人買いだ。次に来るとしたら、もっと質の悪い奴らだ」
ガルドの喉が、鳴った。
「分かった」
「家の中で話すのは止めん。身内に話すのは、お前の判断でいい。だが、外へは出さんでくれ」
「ああ」
「儂も、同じだ。弟子だと言ったのは、儂の口だ。責任は、儂が持つ」
その言い方には、何か古い重みがあった。
ガルドは、それが何かまでは聞かなかった。
聞いていい場所ではない。
フェイが、縄尻を握り直した。
「ガルド。息子のことだ、口を出す気はない。だが、うちの詰所は、いつでも開けてる。ガイと遊ばせたいときは、いつでも寄越せ」
「ありがたい。落ち着いたら、そうさせてもらう」
「それでいい。焦る歳じゃない」
短いやり取りだったが、十分だった。
ガルドは、この男が本気で言っているのが分かった。
道の先に、町の屋根が見え始めていた。
町の入口で残った一人の縄尻を、フェイは見張りに渡した。
――――――――――――――――――――
目が覚めたのは、家の匂いがしたからだった。
薪と、パンと、ミラの匂い。
まぶたを開けると、ガルドの肩越しに、見慣れた戸口があった。
声が出ない。
出す前に、戸が開いた。
「――アシュ」
ミラだった。
一瞬、その場で固まる。
それから、走ってきた。
ガルドの腕から、そのままミラの腕に移された。
ミラの手が、頬の傷、鼻の下、手首の布を、順番に確かめていく。
声は震えていたが、手は震えていない。
いつも通りだ。
慌てない人だった。
「痛いところ、ちゃんと言って」
「……大丈夫」
「大丈夫かどうかは、あたしが決める」
抱きしめる力が、少しだけ強くなった。
それ以上は、何も聞かれなかった。
聞かなくても分かることは聞かない人だ。
ミラはアシュを下ろし、戸口で声を上げていたリアを抱き上げた。
背後で、足音がした。
「アシュ」
レインだった。
木剣を、まだ手に持っている。
稽古の途中で駆けてきたのだろう。
何も言わず、ただアシュの前に立って、頭のてっぺんから足の先までを、目で辿った。
それで満足したように、小さく頷いた。
「腕、上がるか」
いつもと同じ聞き方だ。
だから、いつもと同じに答えた。
「上がる」
「そうか」
短い返事で終わった。
ただ、木剣を握る手の関節が、白くなっていた。
「無事だったんだ」
ガイだった。
門の方から走ってきて、勢いのまま止まれずに、隣のレインにぶつかった。
「悪かったな。誘わなかったから」
言っている意味が、少し遅れて繋がった。
前の日、詰所で別れる時のことだ。
塔に行くと言ったから、ガイは次の日、誘いに来なかった。
それを、ずっと気にしていたらしい。
「気にしなくていい。フェイさんが来てくれたから、助かった」
ガイは何か言おうとして、結局「そうか」とだけ言った。
レインと同じ言葉だ。
ガルドと連れ立って戻ってきていたフェイが、門のところからそれを見ていた。
歩み寄って、ガイの肩に手を置く。
「行くぞ。お前の母さんも待ってる」
ガイは、もう一度アシュを見て、それから頷いた。
フェイに背中を押されるようにして、門の方へ戻っていく。
歩きながら振り返って、大きく手を振った。
ミラの腕の中で、リアが手を伸ばしてきた。
小さい手が、アシュの服の袖を掴む。
何も分かっていないはずだ。
でも、家の中の空気がおかしいことだけは、伝わっているようだった。
握られた袖を、そのままにしておいた。
家の匂いの中に立って、みんなに囲まれて、アシュはようやく、帰ってきたのだと分かった。
湯を使わされた。
ミラが手ずから、頬の傷と手首の傷に薄荷の軟膏を塗る。
手首には、縄で擦れた赤い痕と、その横に、刃物で引いたような細い切り口が一本ある。
ミラの指が、切り口の上で一度だけ止まった。
何も聞かずに、続きを塗る。
染みたが、声には出さなかった。
ミラの手はいつも通り迷いなく動いて、それが逆に、どれだけ心配していたかを教えてきた。
「痩せたわね」
ミラの指が、アシュの手首の骨の形を確かめるように、そっと触れた。
数日でこんなに変わるものかと、自分でも思うくらい、腕が細くなっていた。
ミラは、あとはもう何も聞かなかった。
何があったのか、どこで何をされたのか。
聞けば、こちらが話さなければならなくなる。
それを、ミラは分かっていた。
軟膏を塗り終わると、布団に入れられた。
眠るつもりはなかった。
目を閉じただけのつもりが、次に開けたとき、窓の外の光は夕方の色になっていた。
体が、頭より先に、足りない分を取り戻していた。
夕食は、いつもより早かった。
パンと、豆のスープ。
同じ席で、同じ人数で、同じものを食べる。
匂いを吸うと、口の中に唾がにじんだ。
ひと口含むと、いつもの味のはずが、やけに濃い。
スープの湯気だけは、いつもと同じ高さで立っていた。
レインは、隣に座って、何度もアシュの皿を見た。
減っているかを確かめているらしい。
リアは、ミラの膝の上で、時々アシュの方を向いて、意味のない声を出す。
誰も、魔法の話はしなかった。
誰も、縄や布や、川の水の話もしない。
ただ、パンを食べて、スープを飲んで、それぞれの一日を話した。
レインが稽古で失敗したこと。
ミラが市場で値切ったこと。
当たり前の話ばかりだった。
アシュは、パンを千切りながら、その話を最後まで聞いていた。
納屋で食べたパンとは、味の濃さが違う。
食事が終わって、ミラがリアを寝かしつけに行った後、レインが庭に出た。
木剣を、また持っている。
「今日は、いい」
レインは、木剣を壁に立てかけた。
「約束、破ったままだった。夕方の稽古」
「覚えてたのか」
「覚えてる。約束は、破ったままにしない」
言い終えると、レインは縁側に腰を下ろした。
木剣には、もう触れない。
今夜は稽古をする体力も気力もない、と分かっていて、それでも約束のことだけは、言葉にしておきたかったらしい。
「今度、埋め合わせする」
「うん」
レインが頷いた。
それきり、二人とも何も言わない。
庭に落ちる月の光を見ながら、しばらく並んで座っていた。
虫の音と、遠くで犬が短く吠える声が聞こえた。
何も話さないことが、今日は一番、心地よかった。
――――――――――――――――――――
夜、リアが寝たあとで、ガルドが呼んだ。
二人だけで、外の縁台に並んで座った。
空に、月が出ている。
「傷は」
「大丈夫、もう痛くない。ゼドルさんにも見てもらった」
ガルドは頷いた。
それから、しばらく黙っていた。
言葉を探しているのが、隣にいると分かる。
「ゼドルから、聞いた」
アシュは、月を見たまま、動かなかった。
「魔法のことだ。水と、風。縄を切ったのも、剣を逸らしたのも、お前だと」
息を、少し止めた。
「……怒る?」
「怒らない」
答えは、早かった。
「隠していたことも、怒らない。塔に通っていたのも、俺は知っていた。何も聞かなかったのは、俺が聞きたくなかったからだ」
その言い方は、ガルドらしくなかった。
いつもは、少ない言葉で終わらせる人だ。
今日は、続けようとしていた。
「お前の目を見るたびに、何か違うものを見ている気がしていた。息子として見ればいいのに、それができなかった。それは、俺の問題だ。お前のせいじゃない」
言葉が、途中で何度か止まった。
それでも、止まったまま黙りはしなかった。
「今日、抱いて帰る間に、決めた。魔法があっても、青い目でも、関係ない。お前は、俺の息子だ。それだけだ」
月の光が、縁台の板を白く、静かに照らしていた。
風が、庭の木を鳴らした。
アシュは、口を開きかけて、閉じた。
代わりに、隣の大きな手に、自分の手を重ねる。
硬くて、大きな手だった。
「誰にも言わない方がいい?」
「ゼドルもそう言っていた。青い目で、この歳で魔法が使えると知れば、値打ちが付く。今度は、それを知った上で来る、と」
「僕が、怖くない?」
ガルドは、少しの間、月を見ていた。
「怖くない」
短かった。
でも、迷いはなかった。
「隠すのは、怖いからじゃない。守るためだ。それは違う」
守るため。
その言葉が、じわりと胸に落ちてきた。
いつもなら、嬉しさより先に、疑いが来る。
今日は、疑う前に、胸の奥が熱くなった。
遅れてくるはずのものが、先に来た。
「母さんには」
「もう話した。お前が寝ている間に」
「……レインとガイには」
「まだだ。話すかどうかは、お前が決めろ。俺は、お前の決めたことに従う」
決めるのは、アシュだ。
その一言だけで、何かが変わった気がした。
庭の木が、もう一度風に鳴った。
しばらく、二人とも黙っていた。
虫の音が、庭の隅から聞こえている。
「父さんも、怖かった?」
ガルドは、すぐには答えなかった。
「怖かった。お前を失うことより、怖いものはなかった」
「前は、僕のことが分からなくて、怖かった?」
「怖かった。魔法のことじゃない。分からないお前だと思っていたのが、怖かったんだ。今は、分かる」
その答えは、すぐには理解できなかった。
でも、悪い意味ではないことだけは、分かった。
「うん」
ガルドが立ち上がった。
それから、アシュの頭に手を置く。
大きくて、硬い手。
ゼドルの手とは、違う重さだった。
「よく、生きて帰った」
それだけ言って、家の中へ戻っていった。
縁台に一人残って、アシュは月を見上げた。
白くて、細い月だ。
逃げていた朝には、空を見る余裕がなかった。
今は、ただ見ていられる。
庭の木が、また風に鳴った。
塔の周りを抜ける風より、低い音だ。
家々の壁に当たって、角が取れてから届く音。
傷は、本当はまだ少し痛んだ。
手首の、縄で擦れた痕と、その横の細い切り口。
頬の枝の傷。
ミラの軟膏の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
しばらくして、アシュは家の中へ戻った。
戸を閉める前に、振り返った。
月の光が、庭の土を薄く照らしている。
朝の稽古の跡が、その光の中に、まだ残っていた。
戸を、静かに閉めた。




