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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第二十話

 アシュは水を蹴って岩陰に転がり込んだ。


 朝の沢の音が、耳の中で急に遠くなる。

 そこから見た。

 見ることしかできない。

 でも、見えた。

 誰よりも、見えてしまった。


 最初に動いたのはクルガだった。

 弾かれた体勢から立ち直るなり、フェイの背後、沢の浅瀬を音もなく回り込む。

 正面ではヴェルクが剣を抜いていた。

 抜き方に無駄がない。

 鞘走りの音さえ、小さい。


「団長さんよ」ヴェルクの声は、まだ平らだった。「あんた一人だろう。商売の話をしないか」


「するか」


 フェイが腰の剣を抜いた。

 傭兵の剣だ。

 飾りのない、幅広の、使い込まれた刃。


「……解せんな」ヴェルクが半歩、間合いを測り直した。「轍《わだち》は消した。網も抜けたはずだ」


「消した轍なんぞ、誰も探しちゃいねえよ」フェイの剣先は、揺れなかった。「グレンツの川で荷を渡せる場所は、五つとねえ。全部に耳を置いた。それだけの話だ」


「……地の利か」


「グレンツで子供を攫った。その時点でお前らは終わってんだよ」


「なら仕方ない」


 ヴェルクが、来た。


 速い、というのとは違う。

 重い。

 踏み込みの一歩で沢の水が割れ、上からの斬撃が朝日ごと落ちてきた。

 フェイは受けなかった。

 半歩。

 詰所の庭で見た、あの半歩。

 刃は空を通り、水面だけが裂けた。


 返す刀が、下から来る。

 フェイの剣が初めて鳴った。

 鉄と鉄の、腹に響く音。

 噛み合った刃の間で力が軋むのが、岩陰からでも分かった。


 そこへ、針。


 ドレンの手が閃いて、細い光が三つ、フェイの首筋へ飛んだ。

 フェイは剣を合わせたまま、体だけを薄く傾けた。

 一本は上着の肩を裂き、二本は沢に落ちて小さな水音を立てた。


 背後から、クルガ。


 石を蹴る音より先に、フェイの肘が後ろへ動いている。

 振り向きもしない。

 肘はクルガの顎を掠《かす》め、クルガは舌を打って距離を取り直した。


 アシュは岩陰で、口の中だけで詠唱をなぞった。

 テンペシュトゥルム――


 何も、来ない。

 指先だけが震えて、それだけだった。

 声も、風も、出せなかった。


 三対一。

 それでも、崩れない。

 フェイの足は沢の中で、いつも半歩分だけ、誰の間合いからも外れた場所にある。

 大きな体が、一番小さい動きだけで、三人分の殺気を捌いていた。

 息一つ乱していない。

 それでも、削られてはいた。

 上着の裂け目が増え、剣を受けるたびに、半歩の戻りがほんの一瞬ずつ遅くなっていく。


 ――でも。


 アシュには、見えていた。


 ギレスだ。

 遅れて木立を抜け、離れた岸に立って、指先だけを動かしている。

 詠唱はない。

 声もない。

 でも、アニマが動いていた。

 薄い青の光の糸が、男の指先から水面を這って、フェイの足元へ、静かに、静かに、伸びていく。


 水が、凍り始めた。


 音もなく。

 フェイの踏む浅瀬の、次の半歩の着地点だけが、選んで凍らされていく。

 厭らしい魔法だ。

 倒す魔法ではない。

 転ばせる魔法。

 三本の刃の前で転べば、それで終わる。


「フェイさん、足元――!」


 叫んでいた。

 叫ぶより先に、舌がもう一度動いていた。

 ヴァッサークア――氷へ向けて。

 溶かせるとも、崩せるとも、考える間はなかった。

 続くはずの言葉が、喉の途中で消えた。


 半端な呼びかけに、応える気配はどこにもない。

 氷は氷のままだった。


 叫んだ瞬間、クルガの目がこちらを向く。

 まずい、と思う間もなかった。

 ヴェルクの剣が大きく来て、フェイはそれを受けるしかなく、受けた足が、氷を踏んだ。


 膝が、滑った。


 体勢が沈む。

 開いた胴へ、ヴェルクの剣が水平に走る。


 間に合わない。

 誰も。

 声も、何も。


 舌が、動いていた。


「テンペシュトゥルム、ヴェンティラ――スケラ・エッグ・アイン!」


 二発目があるかどうかも、底がどこにあるのかも、考える場所へ届く前に、口が終わっていた。


 いつもより太い糸が、一瞬だけ見える。

 考える暇もなく、それは風になった。


 風が、走った。


 細い、細い一筋。

 狙いは刃。

 横に走る剣の、平らな腹へ、下から。


 甲高い音が鳴って、剣の軌道が拳一つ分、跳ね上がった。


 拳一つ。

 それで足りた。

 フェイの体は沈みながらねじれ、刃は胴ではなく肩の上をすべって、上着だけを裂いた。


 直後、アシュの世界から、色が抜けた。


 沢の音が遠くなる。

 岩を掴んだ自分の手が、自分の手に見えない。

 視界の縁が灰色に狭まり、鼻の奥から、生ぬるいものが一筋垂れた。


 ――底だ。


 これが、底。

 ゼドルが毎回、手前で止めていた場所。


 狭まった視界の真ん中で、水が、爆ぜた。


 沢の水が、ひとりでに立ち上がった。

 人の胴より太い水の腕が水面から生えて、ヴェルクの剣ごと体を横へ払い飛ばした。

 ドレンの針は、来た道を忘れたようにあさっての方へ流れ、フェイの足元の氷だけが、砕けて溶けた。


「ヴァッサークア、フルーミア――」


 低い声が、木立から歩いてきた。


 ゼドルだった。

 外套の裾が風で鳴っている。

 詠唱の後半は、もう次の術のためのものだ。

 アシュには、それが見えた。

 老人の周りで、水色の流れと、ほとんど白に近い風の流れが、二本、同時に編まれている。

 二本同時。

 塔で見たどの流れよりも太く、それなのに、髪の毛ほどの震えもなかった。


 なんて静かな流れ。

 こんな戦いの真ん中で、湯を注ぐみたいに、静かな。


 フェイは、その一瞬でもう動いていた。


 これまでとは、違う。

 半歩ではない。

 踏み込みが、深い。

 体全体が沈み込み、伸び上がる勢いのまま、距離を取り損ねたクルガの襟を掴んで、浅瀬に叩きつける。

 水柱が立った。

 膝で背を押さえる。

 速さより、重さで終わらせる動きだった。


 親父は大きく動く。

 前にガイがそう言っていた声が、頭のどこかで鳴った。

 詰所の庭で見た半歩は、たぶん、余力の方だった。


 ドレンの手が、もう次の針を構えている。

 フェイは膝を上げず、押さえた背中を踏み台にするように爪先だけを跳ね上げた。

 蹴られた小石が、ドレンの手首を打つ。

 針が、ばらばらと水に落ちた。


「……っ」


 ドレンは手首を押さえてよろけ、そのまま浅瀬に膝をついた。

 立ち上がる気配はない。

 膝の下のクルガも水面に顔を伏せたまま、動かなかった。


「……声が、一つしかなかった」ギレスの声が引き攣った。


 水しか、聞いていない。

 それなのに、風まで動いている。


 指が跳ね上がり、氷の礫《つぶて》が十いくつ、一斉に宙に生まれた。


「聞いてないぞ、こんな田舎に、そんな化物がいるなんて――!」


「儂《わし》も聞いとらん」


 礫が、飛んだ。

 風が、鳴った。


 十いくつの氷は、ゼドルへ届く途中で全部、粉になった。

 砕けた氷が朝日を受けて、沢の上に一瞬だけ、小さな虹の帯を作る。

 その帯の下を風がまっすぐ通って、ギレスの膝の裏を払った。

 倒れた体を、水が上から押さえ込む。

 押さえ方まで正確だ。

 溺れない深さで、動けない重さ。

 一呼吸だった。

 オレンジの目の男は、水面で白目を剥いた。


「儂の弟子に、こんな真似をする阿呆(あほう)がいるとは」


 弟子。


 その言葉が耳に入った瞬間、岩陰のアシュの喉の奥で、何かが小さく音を立てた。


 そして、残る一人のところへ、朝の光を割って人影が来た。


 ガルドだった。


 木立を突っ切ってきた勢いのまま、水の腕に払われて立ち上がりかけたヴェルクへ、まっすぐ剣を合わせた。

 一合目で、ヴェルクの体が半歩下がる。

 重いはずの男の剣が、押し負けていた。

 二合目。

 ヴェルクは受けの角度を変える。

 玄人の修正だ。

 それでも、下がった。

 三合目、ガルドの剣が下から跳ね上げて、ヴェルクの剣は根元から折れ、朝日の中を回転しながら飛んだ。


 アシュは、ガルドの流れを初めて見た。


 ただの体の動きなのに、フェイとも違う、レインの素振りの先にあるものとも違う、一本の太い流れが、踏み込みから剣先まで、途切れずに通っていた。


 ヴェルクは、折れた柄を見た。

 それから、周りを見た。

 水に縫い付けられたギレス。

 浅瀬に沈められたクルガ。

 針の尽きた手を上げるドレン。


 柄を、捨てた。


「……商売にならん」


 両手を上げた。

 上げながら、ヴェルクはアシュの方を一度だけ見る。

 値札の外れた目だった。


「ガキ。お前、何なんだ」


 誰も、答えなかった。


 沢の水が、ゆっくりと静かさを取り戻していく。

 ヴェルクは膝をつき、両手を頭の後ろで組んでいた。

 それでもフェイは油断せず、剣先を外さない。


 アシュは、岩に手をついたまま動けずにいた。

 世界の色が、少しずつ戻ってきている。

 灰色だった視界の縁に、朝の緑が滲むように戻ってくる。

 指先の感覚も、遅れて戻った。

 戻った指先が、震えていた。


 勝った。

 生きている。

 それが、まだうまく飲み込めなかった。


――――――――――――――――――――


 縄が打たれる間、フェイがアシュのそばに膝をついた。


「手首、見せろ」


 布を巻き直しながら、フェイの目がアシュの顔を一通り確かめた。

 頬の枝傷。

 鼻の下の血の跡。

 震えの残る指先。


「よく、粘ったな」


 それだけ言って、フェイは立ち上がった。

 ヴェルクの縄を確かめる手つきに、容赦がない。

 指の欠けた左手を見て、何かに気づいたように結び目を増やした。

 玄人は、玄人の縄抜けを知っている。

 だから信用しない。

 その徹底ぶりが、この男の生き方をそのまま表しているようだった。


――――――――――――――――――――


 縛り上げが終わる頃、ゼドルがアシュの前に来た。


 岩陰から出たまま、アシュは動けずにいた。

 ゼドルはしゃがんで、アシュの手首を取った。

 切れた縄の端が、まだ手首に巻きついている。

 縄の切り口。

 まっすぐな、刃の切り口。

 その横に、細い血の線。


 ゼドルは長いこと、それを見ていた。


「……誰が」


 声が、低かった。


「塔の外で使っていいと、言った」


「言ってません」


「約束は」


「破りました」


「二発目も、儂は見たぞ。木立を抜けたとき、お前はもう詠唱しとった」


「……」


「底も知らんまま、撃ったな」


「フェイさんが、斬られそうだったから」


「…………分かっとる」


 アシュは目を逸らさなかった。

 逸らす力も残っていない。

 ゼドルの目の奥で、いくつかのものが順番に通り過ぎた。

 怒り。

 それより大きい何か。

 それを全部押し込めて、老人は息を一つ吐いた。


「刃の線は、手首の間を通ったか」


「……通りました。少し、掠りましたけど」


「見せろ」


 ゼドルは傷を検分した。

 浅い、と小さく言う。

 それから、アシュの頭に手を置いた。

 塔で一度だけされた、あの置き方だ。

 大きくて、硬い手。


「罰だ。当分、塔の掃除はお前がやれ」


「……はい」


「できるだけ来い」


「…………はい」


 二度目の返事は、うまく声にならなかった。


――――――――――――――――――――


 ガルドは、縄の始末をフェイに任せて、振り返った。


 アシュが、立っていた。


 濡れて、頬に枝の傷をつけて、鼻の下に血の跡を残して、手首に布を巻かれて、それでも自分の足で立っている。

 ガルドを見ていた。

 青い目が、朝の光の中でこちらを見ている。


 いつもの子だ、と一瞬思った。

 倒れもせず、泣きもせず、状況を見ている、いつもの――


 アシュが、歩き出した。


 歩みが、途中から崩れる。

 二歩目で走りになって、三歩目でもう形がない。

 ガルドは膝をついた。

 間に合った。

 小さい体が、胸にぶつかってきた。


「――っ、う」


 最初の音は、言葉ではなかった。


 アシュは泣いた。


 ガルドの上着を両手で掴んで、顔を押し付けて、声を上げて泣いた。

 六歳の、そのままの泣き方だ。

 ひくつく背中は薄くて、掴む力だけが強い。

 怖かった、と言った。

 切れ切れに、何度も言った。

 怖かった。

 帰れないかと思った。

 父さん。

 怖かった。


 ガルドは、その全部を受けた。


 片腕で背中を抱えて、もう片方の手を、濡れた頭に置く。

 何か言おうとして、やめた。


 ――泣くんだな、アシュも。


 赤ん坊の頃から、泣かない子だった。

 転んでも、驚いても、静かに世界を見ている子だった。


「よく、逃げた」


 それだけ言った。

 腕の中の泣き声が、一段大きくなった。


 朝日が沢の水面で割れて、木立の鳥が鳴き始めていた。

 フェイが縄尻を引きながら、こちらを見ないでいてくれる。

 ゼドルは沢の水で、切れた縄の端を洗っていた。


「借りだな、ガルド」フェイが縄尻を引く手を止めずに言った。「氷を踏んだのは俺の落ち度だ。あの一声がなけりゃ、今頃俺は死んでた」


 ガルドは何も言わなかった。

 言葉にする形が、まだ見つからない。

 代わりに、腕の中の重みを、もう一度だけ抱え直した。


 ガルドは息子を抱え上げた。


 軽い。

 この軽さで、あの縄を切って、あの木立を走ったのだ。


 帰るぞ、と言うと、首筋のあたりで小さく頷く気配がした。

 泣き声は、いつの間にか寝息との境目に来ている。

 掴んだ上着だけは、離さない。


 ガルドは歩き出した。

 朝の道は、家までまっすぐだった。


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