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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第十九話

 霧の中で、夜が明けた。


 川面から立った霧が、岸の木立まで白く浸していた。

 男たちが動き始めた。

 荷を分ける音。

 板戸の軋み。

 クルガが浅瀬を確かめて戻る足音。


 アシュは壁際で、膝を抱えたまま、その全部を数えていた。


 ドレンが来て、壁の繋ぎ縄を解いた。

 縄の端を手に巻いて、立て、と顎で言った。

 手首の縄はそのままだった。

 それでいい。

 線を通す場所は、二晩かけて決めてある。

 手首と手首の間。

 縄が交差する下の、指二本分もないすき間。


 外に出された。


 霧が、目の高さまで満ちていた。

 川の音が近かった。

 岩の並びの先に、白くけぶった浅瀬。

 渡れば、終わる場所。


 荷は二つに分けられ、川岸に下ろされていた。


 四人の注意が、水へ散り始めていた。


 クルガが浅瀬の岩を一つずつ確かめている。

 ヴェルクが対岸の霧を見ている。

 ギレスが荷の一つを担ぎ上げ、ドレンは縄の端を持ったまま、腰の袋の口を締めている。


 幅が、開いていく。


 まだだ。

 アシュは自分の足を見た。

 歩幅を合わせながら、呼吸を数えた。

 走る前に吸っておく。

 吸いすぎれば気づかれる。

 三回。

 深く、静かに、三回。


 ドレンが袋から手を離し、縄を持ち替えた。

 その持ち替えの、手が緩む半拍。


 今だ。


「テンペシュトゥルム、ヴェンティラ――スケラ・エッグ・アイン」


 声に出した。

 出すしかなかった。

 霧の中で、自分の声が他人のもののように鳴った。


 風が、来た。


 速い。

 知っている。

 速いまま、細く。

 細いまま、あのすき間へ。

 手首の内側の、皮膚と皮膚の間の、一筋の空白へ。


 刃が、通った。


 縄が弾けた。

 手首に、細く熱い線が走った。

 浅い。

 構うな。

 両手が、離れた。


「――詠唱だと!?」


 ギレスの声が裏返った。

 担いだ荷が落ちる音。

 振り向くドレンの手から、切れた縄の端が垂れていた。


「ガキが……!?」


 アシュは、もう走っていた。


――――――――――――――――――――


 闇雲には、走らなかった。


 昨日の谷だ。


 消音の膜の中で、ガレアの革鎧が目の前を素通りしていった、あの場所。

 声が聞こえてきた方角を、アシュは体で覚えていた。

 歩かされながら、太陽の位置を数え、川の流れる向きと、越えた尾根の数を数えていた。

 見張りの目を盗んで、ずっとやっていたことだった。

 逃げるあてもないまま、それでも数えるのをやめなかった。

 数えることだけが、縄の外側にあったから。


 あの谷は、ここから見て、山側――今いる岸から見て、川を背にした方角にある。

 日の出の位置と、昨日歩いた沢の流れから、およそ二つ尾根を挟んだ先。

 網が、まだそこにいる保証はない。

 でも、他のどの方角より、可能性があった。


 木立へ。

 網のある、はずの方へ。

 開けた道は駄目だ。

 大人の足に、まっすぐでは勝てない。

 木の間なら、体の小ささが使える。

 ガイと路地を駆けた足が、勝手に木の根を選んだ。


「クルガ!」


 ヴェルクの声が、短く飛んだ。

 怒鳴ってさえいなかった。

 それが一番怖かった。


 背後で、下生えの折れる音が始まった。

 速い。

 もう、速い。


 走った。

 枝が頬を打った。

 手首の熱い線から、血が一滴、指を伝った。

 芯の奥が、がらんどうだった。

 一発の代金だ。

 足だけが、恐怖で動いていた。


 ――帰る。

 帰って、二回目を。


 斜面を、谷のある方角へ向かって走った。

 下ればいずれ沢に出る。

 沢は開けている。

 開けた場所は駄目だと、もう知っていた。

 木の混んだ場所を選んで、選んで、また選んだ。

 方角だけは、崩さなかった。


 背後の足音が、近くなったり遠くなったりした。

 木立の作りが変わるたびに、間合いが揺れた。

 密な場所ではアシュが得をし、開けた場所ではクルガが得をした。

 追いかける方も、追われる方も、同じ地形を読んでいた。


 一度、倒木の下を這って抜けた。

 腹這いになって、濡れた樹皮の匂いを嗅ぎながら、体半分だけを通した。

 抜けた先で振り返ると、クルガは倒木を迂回していた。

 数歩、稼げた。


 尾根を、一つ越えた。


 風向きが変わった。

 木立の匂いに、微かに違うものが混ざった。

 焚き火の煙だ。

 遠い。

 でも、確かにあった。


 ――近い。


 昨日と同じ方角。

 網は、まだそこにいる。


 足に、残っていなかったはずの力が戻った。

 声を出しかけた。

 叫べば届くかもしれない距離だった。

 喉まで出かかった。


 息が、続かなかった。


 喉の奥が、焼けるようだった。

 六歳の肺は、前世で四十五年生きた頭が思うより先に、悲鳴を上げていた。

 それでも足を止めなかった。

 止まれば終わりだ。

 終わりの意味を、体が知っていた。


「――っ」


 木の根に、つま先が引っかかった。

 転んだ。


 地面に手をついた。

 手のひらに小石が食い込んだ。

 痛みより先に、体が起き上がっていた。

 転ぶなら、前に転べ。

 レインの声が、頭のどこかで鳴った。

 転んだ形のまま、前へ、前へ。


 もう一度、走った。


 木立が薄くなってきた。

 まずい、と分かった。

 この先で開ける。

 開けたら、終わる。

 左に折れた。

 右も左も分からないまま、ただ木の密度だけを見て、木の密度の濃い方へ、濃い方へと逃げた。


 背後の音が、また近づいた。


 振り返らなかった。

 振り返れば足が乱れる。

 乱れれば、それだけ距離が縮む。

 前だけを見た。

 前の木、その次の木、また次の木。

 木を、繋いでいくように走った。


 視界の端で、何かが動いた。


 クルガだった。

 もう真横にいた。

 木立の作りを、アシュより先に読んでいた。

 回り込まれていた。


「悪いが、これ以上は付き合えねえ」


 声に、息の乱れがなかった。

 走り続けているのに。


 アシュは方向を変えた。

 急な変え方だった。

 足がもつれかけて、それでも変えた。

 クルガの手が空を切る音がした。

 すれ違いざま、指先が肩をかすめた。


 逃げた。


 煙の匂いは、まだ鼻の奥にあった。

 あと、尾根一つ。

 あと、尾根一つで――


 でも、その先に、何もなかった。


 木立が、切れた。


――――――――――――――――――――


 目の前が、開けてしまった。

 浅い沢だった。

 水が細く流れて、向こう岸は岩の斜面。

 登れない。

 左右は下生えが深い。

 子供の足でも、深い。


 振り返った。


 クルガが、木の間から出てきた。

 走ってきたはずなのに、息が上がっていなかった。


「……手間かけさせんな」


 クルガはゆっくり歩いてきた。

 急ぐ必要がないからだった。

 アシュは後ずさった。

 踵が水に入った。

 冷たさが、足首から這い上がった。


 沢を渡ろうとした。

 水の中を、上流へ。

 石を踏んで、また踏んで。

 冷たさで足の感覚が薄れていった。

 それでも進んだ。


 クルガが水に入る音が、すぐ後ろで聞こえた。


 詠唱。

 舌が、勝手に形を作りかけた。


 ――撃てるのか。


 分からない。

 器の底は、知らない。

 撃って、何も来なかったら。

 来ても、細く保てなかったら。

 相手は人だ。

 藁ではない。

 外せば。

 当たっても。


 迷った半拍で、距離が死んだ。


 クルガの手が、アシュの襟を掴んだ。

 持ち上げられた。

 足が水を離れた。

 世界が高くなって、揺れた。


「暴れるな。傷はつけたくねえんだ、こっちも」


 ヴェルクとドレンが、木立から出てきた。

 息を切らしていた。

 ヴェルクの頬に、木の枝で切れたらしい浅い傷があった。


「よく走った」ヴェルクが言った。皮肉ではなく、聞こえた。「尾根一つ分、稼がれた。渡河の刻限が半刻は潰れたな」


 ドレンの手には、もう布があった。

 あの布だ。

 甘い、刺す匂いの。


「手数を増やしやがって」ドレンが布を広げた。「使うなと言われてたがな、走る商品は別だ。眠ってろ。次に起きたら川の向こうだ」


 布が、近づいてきた。


 体が、跳ねた。

 跳ねても、襟は外れなかった。

 六歳の体は、大人の片手で吊り下げられるほど軽かった。

 声が出た。

 声にならない声だった。


 舌が、勝手に形を作った。

 テンペシュトゥルム、ヴェンティラ――


 声に、ならなかった。


 喉が固まって、息だけが漏れた。

 音のない詠唱に、風は応えない。

 それでも舌は、もう一度同じ形をなぞった。

 何も、来なかった。

 手首の熱い線と、がらんどうに近い芯。

 声が出たとして、二発目が来るのかどうか、自分でも分からなかった。


 布の匂いが、鼻先に触れた。


 ――帰れない。


 このまま眠らされて、川を渡られたら、もう帰れない。

 フェイの網も、ガルドの剣も、この岸までだ。

 渡られたら、届かない場所へ行く。


 頭のどこかで、雨の音がした。

 前世の、遠い、狭い部屋の、六月の雨。

 一度終わった夜の音。

 あのときと同じに、視界の端から黒が来る。

 まだ何も返してない。

 ミラが取っておいたパンも、レインとの稽古の二回目も、リアの名前を呼ぶことも。


 帰りたい。


 帰りたい。

 帰りたい、帰りた――


 風が、鳴った。


 アシュの風ではなかった。

 もっと重い、質量のある風。

 木立の奥から、影が一つ、まっすぐに飛び込んできた。


 クルガの体が、横に消えた。


 正しくは、弾かれた。

 アシュの襟から手が離れ、アシュは水の中に尻から落ちた。

 冷たさで、視界が戻った。

 戻った視界の真ん中に、大きな背中があった。


 扉のような、背中。


「――ガキに、手ぇ出しやがったな」


 フェイ・クラインが、そこに立っていた。


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