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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第十八話

 朝は、クルガの声で始まった。


「まずい方の報せだ」


 戸が閉まる音より先に、声が部屋に入ってきた。

 クルガは夜明け前から出ていたらしい。

 上着が朝露で黒く濡れていた。


「町が早い。夜のうちに騎馬が二つ、旧街道を北へ抜けた。それと傭兵団だ。ガレアの連中が、夜明け前から沢筋を洗ってる」


「数は」ヴェルクが聞いた。


「見えたのは六。灯りの数からして、倍はいる」


「早いな」ドレンが顔をしかめた。「夜は動けんのじゃなかったのか」


「素人はな」クルガが濡れた前髪をかき上げた。「ガレアの頭は、この土地の生まれだ。轍を追ってるんじゃない。俺たちが行きそうな場所を、先回りで潰してる。追跡じゃなくて、狩りの網だ」


 柱の根元で、アシュは息を止めていた。


 ガレア。

 フェイの傭兵団。

 来ている。

 夜のうちに、もう。


 胸の中で、何かが跳ねた。

 跳ねたものを、アシュは急いで押さえた。

 顔に出せば、こいつらは気づく。

 希望は、隠すものだった。

 この小屋の中では、希望も手札だった。


「予定を変える」


 ヴェルクの声は、朝も平らだった。


「旧街道は捨てる。川まで山を歩く。渡しは使えん、張られてる。上流の浅瀬だ。二日を、三日にする」


「荷は」


「半分捨てろ。金目のものだけ分けて持つ。ドレン、ガキは歩かせろ。薬はもう使うな。商品は起きたまま運ぶ」


 四人が、動き出した。


 誰も復唱しない。

 誰も確認しない。

 捨てる荷と持つ荷が音もなく分かれ、燭《しょく》が消され、灰が土間に撒かれて足跡ごと掻き均された。

 火を焚いた跡が、火を焚かなかった土間に変わっていった。


 クルガが最後に、納屋の外周りを一度歩いた。

 戻ってきて、短く言った。


「消した」


 一晩いた場所が、一晩でなかったことになった。


――――――――――――――――――――


 山を、歩かされた。


 繋ぎ縄の端はドレンが持った。

 前をクルガが行き、しんがりにヴェルク。

 ギレスは列の真ん中で、退屈そうに氷の粒を転がしながら歩いた。


 アシュは、歩きながら見た。

 見る以外にすることがなかった。


 クルガの歩き方は、変だった。

 まっすぐ行けば楽な斜面を、わざわざ岩の上を選んで渡る。

 土を踏むときは、獣の踏み分け道の、獣の足跡の上だけを踏む。

 一度、来た方向へ逆向きに数十歩戻り、太い枝を折って東へ投げ、それからまた西へ進んだ。


 跡を消しているのではなかった。

 嘘の跡を、作っていた。


 沢に出ると、四人は迷わず水の中へ入った。

 アシュも入らされた。

 冷たさが骨まで来た。

 水の中を、上流へ向かってずっと歩いた。

 足跡は水が消す。

 匂いも水が消す。

 犬が来ても、ここで鼻が切れる。


 ――追えるのか、これ。


 歩きながら、その考えが染みてきた。


 フェイは玄人だ。

 狩りの網だとクルガも言った。

 でも、消す方も玄人だった。

 追う技の上に、消す技が乗っていく。

 今朝、胸に灯ったものが、水の冷たさと一緒に、少しずつ下がっていった。


「冷えたな」


 不意に、頭の上から声が降った。

 しんがりのヴェルクが、いつの間にか真後ろにいた。


「唇が紫だ。ドレン、止まれ。ガキを水から上げろ」


「まだ半刻は水の中の予定――」


「商品が肺をやられたら半刻どころじゃない。上げろ」


 岸に上げられ、ドレンに足を拭かれ、乾いた布を巻かれた。

 手早くて、正確で、優しさの温度だけがなかった。

 ヴェルクは、その間ずっと上流と下流を交互に見ていた。


「歩けるか」


 ヴェルクがアシュを見下ろした。

 アシュは頷いた。


「いい商品だ」


 褒め言葉として、言っていた。

 この男の中では、それが本当に褒め言葉なのだった。

 アシュは、この四人の誰よりヴェルクが怖い、と思い始めていた。

 怒鳴らない。

 急がない。

 全部を数で決めて、決めたら迷わない。


 戦で覚えたんですか、と聞きそうになって、やめた。

 ヴェルクの左手は、小指と薬指が根元からない。

 あれはたぶん、答えの一部だった。


――――――――――――――――――――


 昼過ぎ、それは起きた。


 尾根を一つ越えた先の、細い杣道(そまみち)。

 クルガが先頭で急に拳を上げた。

 四人が、止まった。

 止まり方に音がなかった。


 声だ。


 風の向こうから、人の声が切れ切れに届いた。

 複数。

 下の谷筋。


「――から沢を洗え! 上は俺らが――」


 アシュの心臓が、跳ね上がった。


 知らない声だった。

 でも、あの荒い号令の掛け方は、詰所の庭で聞いた傭兵たちの声と同じ響きをしていた。

 ガレアだ。

 すぐそこに。

 谷一つ向こうに。


 叫べば。


 叫べば、届く距離――


 口が開くより先に、ドレンの手が口を塞いでいた。


 いつの間に距離を詰めたのか、分からなかった。

 首筋に、細く冷たいものが触れた。

 針だ。


「静かにな」


 耳元で、粘る声が囁いた。


「商品に傷はつけない主義だが、眠らせるのと黙らせるのは、傷のうちに入らない」


 同時に、視界の中で、ギレスが両手を広げた。


 アニマが、動いた。

 白に近い光の糸が、蜘蛛(くも)の巣のように広がって、五人の周りを丸く包んだ。

 音が、変わった。

 正しくは、消えた。

 自分の呼吸の音さえ、膜の内側にこもって外へ出ていかない。

 外の音は、膜を素通りして入ってくる。


 消音の膜。

 燭の火を守っていた、あの魔法の大きいやつ。


 谷の声が、近づいてきた。


 下生えを掻き分ける音。

 二人。

 いや三人。

 杣道のすぐ下を、横切っていく。

 木の間から、革鎧の背中が一瞬見えた。

 ガレアの傭兵。

 手を伸ばせば――伸ばせない。

 届かない。

 声も出ない。

 音のない膜の中で、アシュは自分の心臓の音だけを聞いていた。


 助けが、目の前を通り過ぎていく。


 誰も、こちらに気づかない。


 革鎧の背中が、木立に呑まれて消えた。

 声が遠ざかり、風の音だけが残った。


 ギレスが両手を下ろした。

 膜が解けて、世界に音が戻った。

 鳥の声。

 梢《こずえ》の音。

 自分の、間抜けなほど大きい心臓の音。


「……ふう。近かったな」クルガが息を吐いた。


「網が思ったより深い」ヴェルクが言った。「今夜は火を焚かん。夜のうちに川へ出る」


 四人が、また歩き出した。


 アシュは、足が動かなかった。

 繋ぎ縄が張って、体が前へ引かれた。

 歩くしかなかった。

 歩きながら、目の奥が熱くなった。

 泣くな。

 泣けば体力が減る。

 泣くな。

 棚に置け。

 全部、棚に――


 棚が、初めて軋んだ。


 届く距離にいたのだ。

 助けが。

 谷一つ、膜一枚の向こうに。


――――――――――――――――――――


 日が落ちてから、川に出た。


 大きな川だった。

 夜目にも水面が広く、対岸は闇に溶けていた。

 上流へ少し歩いた岩陰に、朽ちかけた猟師小屋があった。

 今夜の寝床はそこだった。

 火はなし。

 飯は乾いたパンと干し肉。

 冷えた体に、冷えた飯だった。


 アシュは壁際に繋がれて、四人の低い声を聞いていた。


「浅瀬は、あの岩の並びの先だ」クルガが言った。「膝までで渡れる。夜明けの霧が出てるうちに渡る」


「渡った先は」


「石だらけの河原が半刻。跡は残らん。その先で中継ぎと落ち合う」


「川さえ渡れば」ドレンが干し肉を噛みながら言った。「ガレアの縄張りも終わりだろう」


「終わる」ヴェルクが言った。「川向こうは、もう俺たちの道だ」


 川向こうは、俺たちの道。


 アシュは、闇の中で目を開けていた。


 渡られたら、終わる。

 フェイの網は、この岸までだ。

 川一本で、助かる場所と助からない場所が分かれている。


 なら、幅は一つしかない。


 夜明け。

 霧。

 渡る前の、川岸。

 荷を分け、浅瀬を確かめ、四人の手と目が水へ向く、その短い時間。

 そこで縄を切る。

 切って、来た方向へ、網のある方向へ走る。

 網は敵の言葉だった。

 アシュにとっては、あれは味方の形をしている。


 一発。

 一筋。

 一点。


 指先で、手首の縄の交差を、もう一度確かめた。

 皮膚のすき間。

 指二本分もない空白。

 昨夜から何十回も確かめて、体が覚えるほど確かめた場所。


 棚の軋みは、まだ消えていなかった。

 谷で見た革鎧の背中が、瞼の裏に貼りついていた。

 それでも、とアシュは思った。

 それでも、届く距離まで来ていた。

 網は生きている。

 走れば、掛かれる。


 目を閉じた。


 板壁の外で、川の音が続いていた。

 大きな水が、夜通し、同じ速さで流れていた。


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