第十七話
揺れで目が覚めた。
最初に分かったのは口の中の苦さだった。
あの布の匂いが舌の奥に残っていた。
次に手首。
縛られている。
体の前で、両の手首を重ねて縄が食い込んでいた。
荷車の上だった。
筵をかけられていた。
筵の織り目から、藍色の空が細切れに見えた。
夜になりかけている。
車輪が石を噛むたびに、頭の芯が揺れた。
――さらわれた。
言葉にした瞬間、体が震え出した。
止まらなかった。
歯の根が合わなかった。
前世で四十五年生きた頭が、状況を並べようとしているのに、六歳の体が先に泣こうとした。
喉の奥が勝手に鳴った。
筵がめくれた。
男の顔が覗いた。
細い目だった。
アシュの震えを見て、男は舌を打った。
「起きたか。……おい、薬が切れてる」
「量は合わせた。子供は加減が難しい」別の声がした。「騒ぐようならもう一度嗅がせる」
「傷はつけるなよ」
三つ目の声。
低くて平らな声だった。
命令に慣れた声だと、震えながらでも分かった。
「分かってる」
薬の男の声が返した。返してから、こちらへ向く。
「……ガキ。静かにしてれば、痛いことはしない。騒げばまた眠らせる。どっちがいい」
アシュは、声が出なかった。
代わりに小さく頷いた。
頷きながら、頭の隅で一つだけ数えた。
声が、三つ。
御者がもう一人いるなら、四つ。
四人。
数えることだけが震えの外側にあった。
――――――――――――――――――――
荷車は夜のうちに小屋へ着いた。
運び込まれるとき頭を低くされた。
それでも見えるものは見た。
木立。
傾いた柵。
使われなくなった農家の納屋。
灯りは獣脂の燭が二つ。
窓は板で塞がれ、板の隙間から夜気が入ってきた。
柱に繋がれた。
手首の縄から、別の縄が柱へ伸びていた。
犬の繋ぎ方だった。
足は縛られなかった。
逃げても六歳の足だと思われている。
猿ぐつわは外された。
「叫んでいいぞ」細い目の男が言った。「ここで叫んでも誰も来ない」
脅しではなく、事実として言っていた。
それが一番怖かった。
アシュは叫ばなかった。
壁にもたれて膝を抱えた。
震えはまだ残っていた。
残ったままでいい、と思うことにした。
震えを消そうとすると、震えのことばかり考える。
置いておく。
揺れはなくならない。
――見ろ。
自分に言った。
見るのはできる。
ずっとやってきた。
ガルドの稽古を窓から見た。
ガイの足の指を見た。
流れの枝分かれを見た。
見ることだけはこの縄でも縛れない。
小屋の中の男は三人だった。
声の低い平らな男が頭だ。
他の二人の目が話すとき必ず一度その男を通る。
年は四十くらい。
剣を壁に立てかけているが、手入れの跡が刃の側にある。
飾りではない剣だった。
「ヴェルク。街道はどうする」
細い目の男が頭に聞いた。
ヴェルク。
名前が一つ、手に入った。
「クルガが見てる。戻ってから決める」
クルガ。
二つ。
外にいる一人が、それだ。
「ドレン、薬の残りは」
「三回分。だがガキにはもう使いたくない。子供は量を外すと戻らなくなる」
ドレン。
三つ。
薬の男。
アシュを眠らせた布はこの男の仕事だ。
残る一人。
細い目の男は、部屋の隅で燭の火を見ていた。
よく見ると、火が揺れていなかった。
塞いだ板の隙間から夜風が入っているのに、燭の炎だけが静止していた。
炎の周りに薄い光の膜。
魔法だ。
詠唱は聞こえなかった。
男がこちらを見た。
目が合った。
濃いオレンジの目だった。
「なんだ、ガキ」
「……火が、きれいだと思って」
「はっ。変わったガキだ」
男は笑って目を離した。
ギレス、と後でヴェルクが呼んだ。
四つ。
全部揃った。
ヴェルク。
ギレス。
ドレン。
クルガ。
頭。
魔法使い。
薬師。
外の目。
アシュは膝を抱えたまま名前と役を頭の中の棚に並べた。
並べる作業をしている間だけ、震えが遠かった。
――――――――――――――――――――
夜半、飯が出た。
硬いパンと、水。
ドレンが持ってきてアシュの前に置いた。
手首は縛られたままだが、前で縛られているから椀は持てた。
「食え。商品が痩せると俺たちが困る」
商品。
その言葉で、いくつかのことが一度に分かった。
殺されはしない。
傷もつけられない。
売り先が決まっている。
だから丁寧なのだ。
丁寧さは優しさではなかった。
「……僕は、どこに売られるの」
聞いてみた。
声は思ったより普通に出た。
ドレンが眉を上げた。
「泣かないんだな、お前」
「泣いたら帰れる?」
「……はっ。おい、ヴェルク。このガキ、面白いぞ」
ヴェルクは笑わなかった。
壁際からアシュを見た。
値踏みの目ではなかった。
もう値踏みは済んでいる目だった。
「ガキ。知ってどうする」
「知らないより怖くないから」
ヴェルクの目がわずかに動いた。
「注文だ。青い目の子供をという注文があった。俺たちは注文の品を届ける。それだけの仕事だ。届け先で何をされるかは、知らん。知る必要がない」
注文。
誰かが、青い目の子供を、注文した。
攫えと言った誰かがいる。
この四人の後ろに、まだ顔がある。
寒気が、震えとは別の速さで背中を通った。
「よく分かった」
「そうか」ヴェルクは壁に戻った。「食って寝ろ。明日は長い」
アシュはパンを齧った。
味はしなかった。
それでも全部食べた。
走るとき、体に力が要る。
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男たちが寝静まる時間をアシュは待った。
待ちながら確かめたいことが一つあった。
詠唱だ。
声に出さず、舌の形だけ、なぞれるか。
逃げるとしたら、道具はそれしかない。
風刃は一発と見るしかなかった。
自分の器の底をアシュはまだ知らない。
塔では底に触れる前に必ずゼドルが止めた。
だから限界がどこにあるのか試したことがない。
分かっているのは二属性を回したその夜で、薬で眠らされて芯の疲れがまだ底の方に残っている、ということだけだ。
知らない底は当てにできない。
二発目はないものとして数える。
それに四人は倒せない。
倒す魔法でもない。
藁を切る魔法だ。
なら、切るのは人ではない。
縄だ。
手首の縄。
柱への繋ぎ縄。
どちらかを一筋で。
刃は線。
使いどころは一点。
塔で教わったことが、そのまま逃げ道の設計図になっていた。
問題は線の場所だった。
手首と手首の間。
縄が交差するところに皮膚のすき間がある。
指二本分もない。
そこに刃を通す。
外せば縄ではなく手首が切れる。
指が落ちる、とゼドルは言った。
今度は、自分の手首だ。
できるか、ではなかった。
そこしかないのだった。
アシュは目を閉じて、舌だけを動かした。
音は出さない。
息も混ぜない。
テンペシュトゥルム、ヴェンティラ――形だけ。
ここまではただの舌の運動のはず――
部屋の隅でギレスが顔を上げた。
濃いオレンジの目が、闇の中でこちらを向いていた。
アシュは心臓が跳ねるのを聞いた。
跳ねたまま、体は動かさなかった。
目を閉じたまま、呼吸だけをわざと乱した。
眠りの浅い子供のうなされる息。
喉の奥で小さく泣き声のかけらを鳴らした。
足音が、近づいてきた。
燭の火の熱が顔のそばに来た。
ギレスがしゃがんで覗き込んでいる。
アシュは瞼の裏で数を数えた。
七つ数えたところで鼻を鳴らす音がした。
「……夢見てんのか。ガキが」
足音が離れていった。
アシュはさらに百を数えてから、そっと息を吐いた。
背中が、汗で冷たかった。
――なぞるのも駄目だ。
あの男は、アニマの動きが分かる。
舌の形だけでも、体の中で何かが立ち上がりかけたのを、拾われた。
練習はできない。
本番だけがある。
一回きりの本番だけが。
一回。
それでいい。
線を一本引くだけだ。
震える手で引く、一本の線。
引けるかどうかは、考えないことにした。
――――――――――――――――――――
夜明け前、戸が開いてクルガが戻った。
初めて見る顔だった。
四人の中で一番若く一番目が動いた。
部屋に入る前に一度外を振り返り、入ってからも窓板の隙間を確かめた。
見る仕事の人間の癖だった。
「街道に灯りはない」クルガが言った。「町も静かだ。まだ騒ぎになってない。ガキ一人、朝までは気づかれんよ」
「ガキの親父は、冒険者だぞ」ドレンが言った。
「知ってる。下調べは俺の仕事だ」クルガが言った。「腕は立つんだろうが夜の追跡は別の技だ。犬もなしに轍は追えん。動けるのは早くて朝からだ」
声には疲れと軽さが半々に混ざっていた。
ヴェルクだけが腕を組んだまま黙っていた。
黙ってから、短く言った。
「予定を早める。明日の朝……いや、もう今日か。日が出たら、運ぶ」
「川向こうの中継ぎまで?」
「そうだ。旧街道を使う。町から離れるほど、こっちのものだ」
日が出たら運ぶ。
アシュは寝たふりの瞼の裏でその言葉を棚に置いた。
棚の一番手前に。
時間が決まった。
運ばれる前。
小屋から荷が出る、朝の短い騒がしさの中。
四人の手と目が荷に散るそのわずかな幅。
水は幅、と老人は言った。
人の注意にも幅がある。
開く瞬間がある。
そこに線を一本。
アシュは縛られた両手を、胸の前で握り合わせた。
手のひらの奥にまだ昨日の稽古の豆の痛みがあった。
レインと打ち合った痛み。
一回目の分。
――帰って、二回目をやる。
夜明けが、塞いだ板の隙間から、細く入り始めた。




