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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
青い目の子

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第十六話

 レインは、庭で木剣を振っていた。


 夕方もやるか、と朝に聞いた。

 やる、とアシュは答えた。

 腕、上がるのか。

 上がる。

 あの短いやり取りで、約束は成立していた。


 だからレインは待った。

 素振りをしながら待つ。

 百を数えて、二百を数えた。

 西の空が赤くなり、それから赤が薄れ始める。


 アシュは、来なかった。


 レインは木剣を下ろした。


 弟は、約束を破らない。

 忘れもしない。

 塔に行くと言った日は、日が落ちる前に必ず帰ってくる。

 それが崩れたことは、一度もなかった。

 一度もなかったことが、今日起きている。


 汗が冷えて、背中が寒くなった。

 素振りの汗とは別の寒さだ。


 レインは家に入った。


「母さん。アシュ、帰ってるか」


 ミラがリアを抱いたまま振り返った。

 レインの顔を見て、ミラの顔から何かが引いた。


「帰ってないわ。庭にいるんじゃ――」


「いない。夕方、稽古の約束だった」


 ミラは、すぐには何も言わなかった。

 リアを抱く腕に、少しだけ力が入る。

 それから台所の窓の外を見た。

 外はもう、藍色になり始めている。


「ガルドが戻ったら――」


 言い終わる前に、戸が開いた。

 ガルドだった。


――――――――――――――――――――


 ガルドは、レインの顔を見た瞬間に、荷を土間に下ろした。


 レインの顔は、大抵が稽古絡みだ。

 負けて悔しい顔。

 届きかけて明るい顔。

 曇るのも晴れるのも、木剣の届く範囲で起きる。

 今のは、そのどれでもない。

 見たことのない顔だった。


「どうした」


「アシュが帰らない。夕方の稽古の約束を破った」


 破った、という言い方に、レインの全部が入っていた。

 ガルドは一度だけ深く息を吸った。

 頭の中で、勝手に手順が組み上がっていく。

 長年の依頼で染みついた組み方だ。

 行き先。

 最後に見た人間。

 経路。

 時刻。


 その手順の下で、別のものが動いていた。

 手順に関係のない、冷たいもの。

 ――もし、このまま。

 そこまで考えて、ガルドはそれに蓋をした。

 蓋をするやり方も、依頼で覚えた。


「今日はどこへ行くと言っていた」


「塔」とミラが言った。「朝、行ってくるって。顔は明るかったわ」


「途中で寄りそうな場所は」


「ガイのところ」レインが言った。


「よし。レイン、お前はランドの酒場だ。じいさんの耳は広い。ミラは家にいてくれ。あいつが戻ったときに、誰もいないのが一番まずい」


 ミラが頷いた。

 頷いてから、小さく言った。


「ねえ、大ごとじゃないといいけど」


「大ごとじゃなければ、後で笑えばいい」


 ガルドは剣を取った。

 家の中で剣を取るのは久しぶりだ。

 ミラの目がそれを追ったが、何も言わなかった。


――――――――――――――――――――


 クラインの家の戸を叩くと、ガイが出てきた。


 アシュは、と聞く前に、ガイの顔が変わった。

 子供は察しがいい。

 特にこの子供は。


「アシュ、帰ってないのか」


「朝、家を出たきりだ。今日、会ったか」


 ガイが首を振った。


「今日は会ってない。昨日、うちの詰所で一緒だったけど……別れるとき、明日は朝から塔だって言ってた。だから今日は誘わなかった」


 ガイの声が、途中から速くなった。


「なんだよそれ。塔に行って、帰ってないだけって、そんなの」


 奥から、大きな影が出てきた。

 フェイだ。

 黒い髪を短く刈った、幅のある大きな男だ。

 上着を羽織りかけた格好で、もう半分外に出る体になっている。

 話は聞こえていたらしい。


「ガルド」


「フェイ。すまん、夜に」


「いい」フェイは短く言って、ガイを見た。「ガイ。昨日、門の内で遊べと言ったな」


「言った。……あれ、何かいたのか」


「いた」


 フェイの声は低いままだ。

 でもガルドには分かった。

 この男は、悔いている。


「詰所の前の通りに、目があった。俺たちを見る目じゃなかった。子供らを見る目だった。正体まで取れなくてな。念のため囲いだけした。よその子までは、囲えなかった」


 ガルドの中の冷たいものが、蓋の下で嵩《かさ》を増した。

 目。

 子供らを見る目。

 昨日から。


「フェイ。頼みがある」


「言うな。もう俺の仕事だ」フェイは上着に袖を通した。「グレンツで子供に手を出した。それだけで、うちの縄張りの話だ。門番と市場を洗わせる。知らない顔は必ず網にかかる。お前は?」


「塔だ。昼過ぎまでの足取りを埋める」


「いい判断だ。二刻後、詰所で合流」


 フェイはもう歩き出している。

 大きな体の割に、足音がしなかった。


――――――――――――――――――――


 塔の扉は、叩く前に開いた。


 ゼドルが立っている。

 ガルドの顔を見て、老人の目がすっと細くなった。


「アシュが帰らない」


 ガルドが言い切る前に、ゼドルは踵を返して部屋の中に戻った。

 卓の上の椀を見て、竈《かまど》を見て、それから壁の石を見る。

 確かめる順番に意味があるのかは、ガルドには分からなかった。


「夕方の手前まで、ここにいた」ゼドルが言った。「機嫌よく帰った。ここを出て、まっすぐ帰れば、日のあるうちに着く」


「途中で消えた」


「そうなるな」


 ゼドルは棚から外套を取った。

 老人の動きではない。


「ゼドル殿。一つ聞く。考えたくないことを先に潰したい」


「言え」


「あの子の目だ。青い目の子供というのは――」


「売れる」


 ゼドルは、ガルドの言葉を待たずに言った。


「珍しいものは、何でも売れる。青は特に珍しい。変わった力を持つ者が多いという噂も、値を上げる。攫ってでも欲しがる人間は、いる。儂《わし》は、それが商売になっている土地を知っている」


 事実だけを並べる言い方だった。

 ガルドは、蓋の下のものが一度大きく膨れるのを感じた。

 膨れたまま、抑えた。

 今は使うときではない。

 怒りは、相手が見えてから使う。


「なら、殺しには来ていない」


「そうだ。商品に傷はつけん。そこだけは、望みがある」


 望み、という言葉の使い方が、この老人は正確だ。

 慰めではない。

 計算だ。

 今は計算の方がありがたかった。


「儂も出る」


「ゼドル殿は――」


「今日の夕方まで、この卓で儂の話を聞いていた子供だぞ」


 それ以上の説明はなかった。

 それ以上は要らなかった。

 ガルドは頷いて、先に塔を出た。

 夜の風が路地を抜けていく。


――――――――――――――――――――


 二刻後、詰所には灯りが増えていた。


 フェイの部下が数人、出たり入ったりしている。

 フェイは卓に町の図面を広げていた。

 ガルドとゼドルが入ると、顔も上げずに言った。


「出たぞ」


「何が出た」


「知らない顔が四つ。三日前から市場の外れの安宿に入ってる。昼間は散けて、夜に戻る。門番が二人まで面を覚えてた。商人を名乗ってるが、荷を持たん商人だ」


 四つ。

 ガルドは数を頭に刻んだ。

 一人ではない。

 組んでいる。

 場数を踏んでいる。


「それと、こっちだ」


 フェイが図面の一点を指で叩いた。

 市場の外れと、ヴァルドの家の間。

 路地が折れる場所だ。


「夕方、うちの若いのが荷車の音を聞いてる。あの路地は荷車の道じゃない。轍《わだち》が残ってた。宿の裏の轍と、幅が合う」


「宿は」


「もう空だ。夜逃げの手際じゃない。最初から今日発つ算段の空け方だった」


 つまり、計画されていた。

 数日かけて、見て、選んで、今日決行した、ということだ。

 ガルドは目を閉じた。

 一瞬だけだ。

 閉じた瞼の裏に、アシュの顔が出る。

 顔は明るかった、とミラが言っていた。

 明るい顔で出ていった。

 その帰り道を、待ち構えていた者がいたのだ。


 目を開けた。


「轍はどっちへ向かってる」


「北の旧街道だ。夜のうちに距離を稼ぐ気だろうが――」フェイが図面から顔を上げた。琥珀(こはく)の目が、灯りを受けて光った。「荷車の速さなんぞ知れてる。夜のうちに追う。ガルド、お前は俺と来い。爺さんは」


「行く」ゼドルが言った。「置いていけば勝手に追うだけだ」


 フェイが一瞬ゼドルを見た。

 値踏みの目だ。

 それから、何かを認めた顔で頷いた。


「なら決まりだ」


 フェイが図面を畳んだ。

 畳み方が速かった。


 ガルドは剣の柄に手を置いた。

 蓋の下の冷たいものは、もう冷たいままの形に固まっている。

 使える形だ。


 ――待ってろ。


 夜の戸口を、三人で抜けた。


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