第十三話 制御
数日後、塔に行くと、ゼドルが棚の前ではなく卓の前に座っていた。
石板は出ていなかった。それだけで、いつもと違うと分かった。アシュが扉をくぐると、ゼドルがこちらを見た。値踏みする目だった。最初に会った日の目に少し似ていた。
「座れ」
アシュは座った。竈の音だけがしていた。
「今日は、何かが違う」アシュは言った。
「分かるか」
「石板が出てない」
ゼドルが少し間を置いた。それから口を開いた。
「今日から、実際に使う」
使う、という言葉が、思っていたより重く響いた。ここまでずっと、見ること、読むことだけをやってきた。次の段階があることは分かっていたが、急に距離が縮まった気がした。
「分かった」
アシュが答えると、ゼドルが少し体を前に出した。
「その前に、約束させる」
「何を」
「今日からやることは、この塔の中だけでやれ。家でも、町でも、一人でも、絶対にやるな」
声の調子が変わっていた。教えるときの声ではなかった。
「なんで」
「お前くらいの年で魔法を使う子供は、本来いない。詠唱を覚えるのも、もっと先だ。器が育っていない子供がアニマを集めると、何が起きるか分からない。集めすぎて自分の中で暴れることもある。最悪、死ぬ」
死ぬ、という言葉が、思っていたより簡単に出てきた。ゼドルはそれを脅すためではなく、事実として言っていた。
知っている人間の言い方だった。聞いた話ではなく、見たことがある人間の言い方。アシュはそれを感じ取ったが、何も聞かなかった。聞いていい空気ではなかった。
「ここでなら大丈夫なんですか」
「大丈夫とは言っていない。ここなら、何かあったときに儂が止められる」
アシュは少し黙った。今までの修行とは種類が違う、ということが分かった。見ること、読むことには危険がなかった。これからやることには、ある。
「約束する」
短く言った。ゼドルがそれを確認するように、もう一度アシュの顔を見た。それから頷いた。
「いいだろう」
ゼドルが立ち上がって、棚から空の木の椀を持ってきた。卓の上に置いた。中は乾いていた。何も入っていなかった。
「これに、水を満たす」
アシュは黙って椀を見た。塔に来てから水に関わるものを見せられるのは初めてではなかった。浄水石、来訪者術式、印の話。今日いきなり水を出せと言われても、唐突だとは思わなかった。何かにつながっているはずだった。
「やり方を教えてください」
アシュはその椀を見た。光っていなかった。当然だった。まだ何も起きていない。これから自分が、そこに流れを作る。
「魔法は、詠唱から始まる」ゼドルが言った。「お前は印を見たり、流れを読んだりしてきた。今日からのことは、それとは別だ」
「別」
「印が読めなくても、魔法は使える。お前みたいに見える人間の方が珍しい。普通の魔法使いは、詠唱だけで使う。見えなくても、感じなくても、使える」
アシュはそれを聞いて、少し意外に思った。ここまで覚えてきた印の形が、これから役に立つと思っていた。でもゼドルは、それとは別だと言った。
「詠唱すると、何が起きるんですか」
「詠唱した瞬間、お前が持っている加護に応じて、周りのアニマが自然に集まってくる。お前が引き寄せるんじゃない。向こうから寄ってくる。それを、お前が御す」
「持っている加護に応じて」
「そうだ。お前が水の加護を持っていれば、水の詠唱で水が集まる。持っていなければ、何も起きない」
「僕に、水の加護があるかは」
「やってみないと分からない」
それだけだった。アシュは少し止まった。今までのことと違う。印の形は、覚えれば確実に分かった。今日のことは、やってみるまで結果が分からない。
「詠唱はいる」
「いる。覚えろ」
ゼドルが言葉を口にした。
「ヴァッサークア、フルーミア」
最初の二語は、聞き覚えのある響きだった。塔に来るたびに名前だけは何度も聞いてきた、水の大精霊の名前。その後に下位精霊の名前が続いた。アシュには初めて聞く言葉だった。
「フルーミア」
「流水、という意味だ。水の精霊の中でも、流れる水を司る」
ゼドルがさらに続けた。
「ヴァクナ・リンド・ヘンドル」
最初の二語とは響きの種類が違う、もっと硬い音の連なりだった。アシュはそれを一語ずつ聞き分けた。ヴァクナ。リンド。ヘンドル。音の区切りを記憶した。意味は分からなかったが、形は覚えられた。
「ヴァクナは目覚めよ、という意味だ。リンドは泉。ヘンドルは、手という意味だが、ここでは『この場に』というほどの意味で使う」
「目覚めよ、泉よ、ここに」
「そうだ。お前が呼んでいるのは、水の精霊そのものじゃない。水の精霊が集まる場所だ。手のひらの上に、小さな泉を一瞬だけ作る」
もう一度、ゼドルが全体を通して言った。アシュは頭の中で繰り返した。三回目で、口の中で形をなぞれるようになった。
「言ってみろ」
「ヴァッサークア、フルーミア――ヴァクナ・リンド・ヘンドル」
声に出すと、いつもと違う感覚があった。言葉が言葉のまま終わらない感じがした。何かにつながっている感じ。普段話す言葉とは、根本的に質が違っていた。
「悪くない」ゼドルが言った。「次は、ためだ」
「ため」
「言葉だけでは発動しない。アニマを集める時間がいる。詠唱の後、すぐに何かが起きると思うな」
アシュは頷いた。理屈は分かった。詠唱で呼びかけて、加護があれば水のアニマが寄ってくる。そのまま放っておけば暴れる。だから御す。それだけのことだった。
「やってみろ」
アシュは椀を見た。
詠唱を口にした。
「ヴァッサークア、フルーミア――ヴァクナ・リンド・ヘンドル」
言った瞬間、何かが変わった。
椀の周りの空気が、急に違う密度を持った。今まで見えていた魔法式とは違う種類のものだった。今までアシュが見てきたのは、すでにそこにある流れだった。完成された形。動かないものを、外から観察していた。
今は違った。
流れが、生まれていた。
あった。
加護が、あった。
考えるより先に、それが分かった。何もないところから、何かが反応した。詠唱を口にした瞬間、自分の中から確かに何かが出ていった。やってみないと分からない、とゼドルは言った。分かった。あった。
アシュの体の中から、何かが出ていく感覚があった。最初は細い糸のようなものだった。それが椀に向かって伸びていく。アシュはそれを目で追おうとした。でも追えなかった。流れは一定ではなかった。太くなったり細くなったりした。揺れていた。
なぜ揺れるのか分からなかった。
今まで見てきた石板の流れは、全部安定していた。同じ太さで、同じ密度で、同じ向きに流れ続けていた。だからこそ読めた。観察できた。形を覚えられた。
でも自分が作っている流れは、揺れていた。
止めようとした。
止め方が分からなかった。
アシュは止め方を知らないことに気づいた。今まで見てきたのは結果だった。完成した流れの形。途中の段階を見たことがなかった。今、自分の中で起きていることが、その「途中」だった。途中がどうなっているのか、誰も教えてくれなかった。仕組みは知っていた。理屈は分かっていた。でも理屈と、これは別だった。
流れがさらに太くなった。
アシュの意思とは関係なく、太くなった。
――待て。
頭の中でそう思った。でも流れは待たなかった。
椀に向かっていた糸が、急に枝分かれした。一本だったものが、二本、三本に分かれた。分かれた先がそれぞれ別の方向を向いた。一本は椀に向かったままだった。もう一本は横に逸れた。もう一本は、アシュ自身の方に戻ってきそうになった。
怖い、と思う前に、体が反応した。
戻ってくる流れを、無意識に押し返した。押し返した瞬間、押し返した分だけ、椀に向かう流れが強くなった。強くなりすぎた。
椀の中に、急に水面が現れた。
白に近い光ではなかった。淡い青だった。流れの色がいつもと違った。水の流れだから、青く見えるのか。それとも自分の流れだから違う色なのか、まだ分からなかった。色の出方が、今まで見てきたどの魔道具とも違った。均一ではなかった。中心が極端に濃くて、外側が薄かった。密度の差が大きすぎた。水面が波打った。膨らみすぎた水が、椀の縁から溢れた。
「やめろ」
ゼドルの声がした。
アシュは反射的に止めようとした。流れを切ろうとした。でも切り方が分からなかった。続ける方法は教わった。止める方法は教わっていなかった。手探りで、流れの根元を探した。自分の中のどこから出ているのか、その出口を探した。
見つからなかった。
流れが見えるのに、自分の流れの出口だけが見えなかった。今まで見ていたのは、外にある誰かの魔法式だった。自分の内側は、初めて見るものだった。勝手が違いすぎた。
椀の中の水が、急に膨れ上がった。
大きな音ではなかった。水が卓の上に跳ねる、湿った音だった。水が弾けるように溢れて、椀の半分近くを空にした。卓の上に水が広がった。アシュの中の流れも、急に途切れた。
途切れた瞬間、力が抜けた。
椅子に座ったまま、体が少し傾いた。視界の端が暗くなった。誰かに支えられた感触があった。ゼドルだった。
「大丈夫か」
声が遠くに聞こえた。アシュは何度か瞬きをした。視界が戻ってきた。手が震えていた。自分の手を見た。震えているのが分かった。止めようとしたが、すぐには止まらなかった。
「……はい」
声が小さかった。自分でもそう思った。
ゼドルが手を離して、卓の上に広がった水を見た。それから黙ってアシュを見た。
アシュは何が起きたのか、もう一度頭の中で追おうとした。
詠唱した。流れが生まれた。揺れた。止め方が分からなかった。枝分かれした。一本が自分に向かってきた。押し返した。押し返した反動で、もう一本が強くなりすぎた。椀から水が溢れた。
全部、頭では分かった。
分かるのに、できなかった。
今まで、見えるものは全部、見れば分かった。形を覚えれば読めた。読めれば、次に進めた。
今日は、全部見えていたのに、止まらなかった。
「……なんで」
声が出た。考える前に出た。
「なんで、止まらなかった」
ゼドルは何も言わなかった。
「全部見えてたのに」
声が震えていた。アシュは自分でも気づいた。普段はこんなふうにすぐ声が出ない。一拍遅れて、感情が出てくるはずだった。でも今は、遅れがなかった。
「分かってたのに、できなかった」
手の震えが、まだ少し残っていた。アシュはその手を見た。
「ちゃんと、分かってたのに」
同じ言葉を、また言った。他の言い方が見つからなかった。
ゼドルが、ようやく口を開いた。
「分かっていなかったわけじゃない」
「でも、できなかった」
「できないことと、分からないことは違う」ゼドルは静かに言った。「お前は流れの揺れを見た。枝分かれを見た。それを自分に向かってきたときに押し返した。あれは判断だ。何も分からない人間は、何も押し返せない」
アシュは黙った。
「ただし」ゼドルが続けた。「押し返した反動までは読めなかった。それは経験がないからだ。読めるようになるには、何度もやるしかない」
「何度もやれば、揺れなくなる」
「揺れなくなりはしない。御せるようになるだけだ」
御す、という言葉が引っかかった。揺れがなくなるのではない。揺れを抱えたまま、それでも崩れないようにする。今までアシュが見てきた完成された魔法式は、最初から完成されていたわけではなかった。誰かが、何度も揺れを御して、その先にあるものだった。
「もう一度、やってみるか」
「……はい」
ゼドルが棚から、別の空の椀を持ってきた。さっきと同じ、何も入っていない椀だった。
「今度は、小さく集めろ。大きく集めようとするな。お前の中から出る分を、半分にしろ」
アシュは椀を見た。
もう一度、詠唱を口にした。
「ヴァッサークア、フルーミア――ヴァクナ・リンド・ヘンドル」
今度は、最初から流れを意識した。揺れることは分かっていた。揺れること自体を止めようとはしなかった。揺れたまま、細く保とうとした。
流れが生まれた。
また揺れた。さっきより小さかったが、揺れた。アシュは流れを追いながら、太くなりそうな瞬間に、力を抜いた。抜きすぎた。流れが弱くなりすぎて、椀に届く前に消えかけた。慌てて力を入れた。入れすぎた。また太くなった。
枝分かれはしなかった。
でも、椀は満ちなかった。
流れが椀に届く前に、霧散した。
「……消えた」
「ああ」
「失敗した」
「そうだ」
ゼドルは表情を変えなかった。
「さっきよりはましだ。枝分かれしなかった。自分に向かってくることもなかった。制御しようとして、しすぎた。それだけだ」
アシュは椀を見た。乾いたままの、ただの椀だった。
さっきの椀は溢れた。今度の椀は何も満ちなかった。どちらも失敗だった。でも違う種類の失敗だった。一つ目は、力が強すぎて溢れた。二つ目は、力が弱すぎて届かなかった。
ちょうどいい場所が、どこにあるのか分からなかった。
「今日はここまでにしろ」
「まだやれます」
「やれることと、やるべきことは違う」
ゼドルが立ち上がった。
「今日、お前は二回やった。二回とも失敗した。それでいい。三回目をやって、今の頭の状態でうまくいくと思うか」
アシュは少し考えた。手の震えはもう止まっていたが、頭の中はまだ落ち着いていなかった。さっきの感覚が、まだ残っていた。流れが自分に向かってきた瞬間の感覚。押し返した反動。水が卓に跳ねた音。
「思わない」
「なら今日はここまでだ」
アシュは立ち上がった。足元が少しふらついた。気づかれないようにしたつもりだったが、ゼドルがそれを見ていた。何も言わなかったが、見ていた。
「また来ます」
「来い」
アシュが扉に向かおうとしたとき、ゼドルがもう一度言った。
「今日言ったことを、忘れるな」
アシュは振り返った。
「ここ以外でやるな、ということですか」
「そうだ。今日のお前を見ただろう。たった二回で、あれだ。一人でやって、誰も止める者がいなかったら、どうなっていた」
ゼドルの声が、わずかに低くなった。
「子供の魔法を見誤ると、取り返しがつかなくなる。儂はそれを知っている」
それ以上は言わなかった。アシュも聞かなかった。今日はそれだけの意味を持つ言葉だと分かった。
アシュは今日の感覚を思い出した。流れが自分に向かってきた瞬間。押し返した反動。あれを一人で受けていたら、どうなっていたか分からなかった。
「分かりました」
「分かった、で終わらせるな。約束しろ」
「約束する」
短かった。いつもと同じ短さだった。でもさっきまでとは違う重さがあった。
扉に向かって歩いた。来訪者術式の石壁を見た。光っていた。テンペシュトゥルムの印。六つ全部を覚えた今なら、それが読めた。路地を通る風の乱れで、来訪を知る仕組みだろう。流れは安定していた。揺れていなかった。
あれを作った誰かは、最初からあんなふうに作れたわけではないはずだった。
アシュは塔を出た。
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帰り道、いつもより足が重かった。
石畳の継ぎ目を避ける癖は、今日もそのまま出た。考えなくても体が避けていた。でも頭の中は、その癖とは別のところで動いていた。
今まで、塔に通うのは楽しかった。印を覚えること、形を読むこと、火起こし石の仕組みを自分で言い当てること。全部、できることが増えていく過程だった。観察して、理解して、整理する。それがアシュの得意なやり方だった。前世からの癖だった。仕組みで理解する。期待しすぎない。
今日は違った。
理解していたのに、できなかった。
それが、今までの感覚と根本的に違っていた。仕組みを知っていることと、それを自分の手で扱えることの間に、思っていたより大きな距離があった。距離があることは知識として知っていたつもりだった。でも知っていることと、体で感じることは別だった。
水が溢れた感触を思い出した。
あの瞬間、怖かった。流れが自分に向かってきたとき、何が起きるか分からなかった。分からないまま、体が勝手に反応した。考えてから動いたのではなかった。考える前に、押し返していた。
前世でも、こんなふうに体が先に動いたことがあっただろうか。なかった、とアシュは思った。田中誠は、ずっと頭で考えてから動く人間だった。仕組みを理解して、納得してから動いた。
今日のアシュは、理解する前に動いていた。
それが、少し怖かった。
怖い、と思っている自分にも、少し驚いた。
いつもなら、感情は一拍遅れてやってくる。何かが起きて、それから少し経って、ようやく自分がどう感じているか分かる。でも今日は違った。詠唱を口にした瞬間から、ずっと何かが動いていた。遅れがなかった。
夕方の光が、いつもより強く目に入った気がした。
路地を曲がったところで、アシュは足を止めた。
何かが、おかしかった。
振り返った。誰もいなかった。いつもの路地だった。商店の壁、石畳、傾いた夕方の光。違うところは何もなかった。
それでも、何かに見られている気がした。
気のせいだ、と思った。今日は色々あった。気が立っている。神経が普段より敏感になっているだけだ。そう考えるのが筋だった。
でも、もう一度だけ振り返った。
やはり誰もいなかった。
アシュは少しの間、そこに立っていた。何も起きなかった。耳を澄ませても、いつもの町の音しかしなかった。
しばらくして、また歩き出した。気のせいだ、ともう一度思った。
家に近づくにつれて、考えがまとまらないまま、ただ足を動かし続けた。
次に塔に行ったとき、また同じことが起きるのだろうか。
起きるだろう、とアシュは思った。
御せるようになるまでには、何度も、同じことが起きるはずだった。揺れること自体は、なくならない。
それでも、行く。
行かない、という選択肢は、最初から頭になかった。
ただ、今日のことは、簡単には整理できそうになかった。




