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第十四話 手合わせ


 朝、パンを半分残した。


 ミラがそれを見ていた。

 何か言うかと思ったが、言わなかった。

 代わりに、残った半分を小さくちぎって、皿の端に寄せる。

 後で食べられるように、という形だ。


「今日はどこ行くの」


「広場。ガイと会う」


「そう」


 ミラは膝の上のリアを揺すりながら頷いた。

 リアがアシュの方に手を伸ばす。

 届く距離ではない。

 それでも伸ばしている。

 アシュは卓越しに指を出した。

 リアの手が、指を掴んだ。

 握る力が前より強くなっている。

 半年でこんなに変わる。

 体は、勝手に育っていく。


 昨日のことが、まだ頭の隅にあった。


 椀から溢れた水。

 自分に向かってきた流れ。

 押し返した反動。

 夜、布団に入ってからも、手のひらの奥に何かが残っている感じが消えなかった。

 眠りは浅かった。


 庭でレインが素振りをしていた。

 アシュが土間に降りると、レインが木剣を止めた。


「顔が重いな」


「そう見える」


「見える」


 レインは木剣を下ろして、それ以上は聞かなかった。

 聞かないのがレインだ。

 ただ、家を出るアシュの背中に、短く言った。


「転ぶなら、前に転べ」


 アシュは振り返った。

 レインはもう素振りに戻っている。

 ガルドがよく言う言葉だ。

 稽古のとき、レインが打ち込みで崩れるたびに飛んでくる声。

 それを、レインが自分の言葉のように使った。


 意味を考えながら、アシュは路地に出た。


――――――――――――――――――――


 広場の縁で、ガイが棒を振っていた。


 いつもの棒だ。

 長さはガイの背丈より少し短い。

 振るたびに空気の鳴る音がする。

 アシュはしばらく見ていた。

 ガイの振りは、前より速くなっている。

 速くなっただけではない。

 振り終わりの棒の位置が、毎回同じ場所に戻っていた。


「見てないで来いよ」


 ガイが振り向かずに言った。

 アシュは歩み寄った。


「ガイ、頼みがある」


「珍しいな。何」


「フェイさんに会ってみたい」


 ガイが棒を止めた。

 振り返って、変な顔をする。


「親父に? なんで」


「動きを見たい」


「……お前、ほんと変なやつだな」


 ガイは笑ったが、嫌がってはいない。

 棒を肩に担いで、顎で通りの先を指した。


「今日は詰所にいる。ついて来い」


 歩きながら、ガイが思い出したように言った。


「そういえば、聞いたぞ。目のこと」


「フェイさんに?」


「おう。なんで俺と親父だけ琥珀(こはく)なのかって」


「なんて」


「『知らん』だってさ」


 ガイは肩をすくめた。


「考えたこともねえって顔だった。親父はそういうの気にしない。目の色より、今日の飯と明日の仕事」


 それはそれで一つの答えだった。

 気にしない、という答え。

 アシュにはできない種類の答え方だった。


――――――――――――――――――――


 ガレア傭兵団の詰所は、市場の外れにあった。


 石造りの平屋で、前庭が広く取ってある。

 土がよく踏み固められている。

 稽古で使われている土だと、見れば分かった。

 庭の隅で男が二人、槍の穂先を布で巻いて突き合っている。


 その奥に、フェイがいた。


 大きい。

 話には聞いていた。

 ガイが「背も高くて体もでかい」と言っていた。

 実物は、聞いていた以上だ。

 ガルドも大きい方だが、フェイは幅が違う。

 肩から腕にかけての厚みが、扉のようだった。


「親父」


 ガイが呼ぶと、フェイが振り向いた。


 琥珀色の目が、まずガイを見て、それからアシュを見た。

 目が留まった。

 長くはない。

 でも、ただ見たのとは違う留まり方だった。


「ヴァルドんとこの、下の子か」


 声が低い。

 腹の底から出る声だった。


「アシュです」


「フェイだ」


 それで名乗りは終わった。

 フェイは膝を落として、アシュと目の高さを合わせる。

 大きな体が沈むと、庭の空気が少し動いた。


「ガルドは元気か」


「はい。昨日、依頼から帰りました」


「そうか」


 フェイは短く笑った。

 笑うと目尻に深い皺が寄る。

 怖い顔ではない。


「で、何しに来た」


「フェイさんの動きを、見たくて」


 フェイがガイを見た。

 ガイが「な、変なやつだろ」という顔をする。

 フェイはもう一度アシュを見て、それから立ち上がった。


「見るだけか」


「え」


「ガイ、棒を貸してやれ」


――――――――――――――――――――


 庭の真ん中で、ガイと向かい合った。


 借りた棒は、思っていたより重かった。

 ガイが毎日振っているものだ。

 持った瞬間に、それが分かった。

 手に馴染んだ道具の重さではない。

 アシュの手には、ただの重い棒だった。


「軽く行くぞ」


 ガイが構えた。


 アシュは、ガイの動きなら何度も見てきた。

 庭の稽古を見せてもらった朝から――いや、もっと前から、広場で、路地で、ガイが体を動かすところを見続けてきた。

 踏み込む前に右足の指が土を噛むこと。

 振りの起こりで左肩がわずかに下がること。

 速く見える動きの中に、順番があること。

 全部、知っている。


 ガイが踏み込んできた。


 右足の指が土を噛むのが見えた。

 左肩が下がるのも見える。

 棒が来る線も、来る前から見えていた。


 体が、動かなかった。


 正しくは、動いたが、間に合わなかった。

 棒を上げようとした腕が、見えている速さに追いつかない。

 ガイの棒が、アシュの棒を軽く払って、止まった。

 アシュの肩の、指二本分手前。


「一本」


 ガイが棒を引いた。


「もう一回」


 アシュは構え直した。

 今度は最初から、来る場所に棒を置いておこうとした。

 読みは合っていた。

 ガイの棒は、思った線を通ってくる。

 でもアシュの棒は、思った場所より低いところにある。

 置いたつもりの場所と、実際に置けた場所が、ずれていた。


 払われた。


「一本」


 三本目。

 四本目。

 五本目。

 全部、見えていた。

 見えているのに、当たらなかった。

 防げない。

 読みが外れたのは一度もない。

 外れていないのに、届かなかった。


 六本目の後、アシュは棒を下ろした。

 息が上がっている。

 手のひらが熱い。


 昨日と、同じだった。


 椀の前で起きたことと、同じ形をしている。

 流れの揺れも、枝分かれも、見えていた。

 見えていたのに、止められなかった。

 今日は、ガイの動きが見えていた。

 見えていたのに、体が追いつかなかった。


 見えることと、できることは、別の場所にあった。


「お前、変だな」


 ガイが棒を担いで言った。


「初めてのやつは、大体どこ見ていいか分かんなくてキョロキョロする。お前は逆だ。目だけは、ずっと合ってる」


「目だけ」


「そう。目は合ってるのに、体が留守だ」


 言い方は雑だったが、中身は正確だった。

 アシュは自分の手を見た。

 まだ少し熱い。


「見えてるな」


 フェイの声がした。

 いつの間にか、庭の端からこちらを見ていた。

 腕を組んで、壁に寄りかかっている。


「六本とも、目は死んでなかった。来る場所も分かってた。だろう」


「はい」


「なのに足が出てない。手も遅い」


 フェイは壁から背を離して、ゆっくり歩いてきた。

 土を踏む音が、体の大きさの割に静かだ。


「目と体の間には、橋がいる」


「橋」


「見えたものを、体に渡す橋だ。生まれつき架かってるやつは、いない」


 フェイはアシュの前で足を止めた。

 見上げると、琥珀色の目がこちらを見下ろしている。


「架け方は一つしかない。回数だ。千回見ても架からん。百回転べば、少し架かる」


 回数。

 ゼドルも同じことを言った。

 読めるようになるには、何度もやるしかない。

 言葉は違ったが、指している場所は同じだ。

 剣でも、魔法でも、同じ場所に同じ橋が要る。


「フェイさんは、何回転びましたか」


 フェイが一瞬黙った。

 それから、腹の底で笑った。


「数えてたら、傭兵はやってられん」


 答えになっていない答えだ。

 でも、たぶんそれが答えだった。


 フェイが、ガイに手を出した。


「棒」


 ガイが棒を渡した。

 フェイの手の中に入ると、同じ棒が半分の長さに見える。


「動きを見たいと言ったな」フェイがアシュを見た。「一本だけだ。よく見ろ」


 フェイがガイに顎をしゃくった。

 ガイが立てかけてあった予備の棒を取って、構える。

 父親相手でも、構えに遠慮はない。


 ガイが踏み込んだ。


 速かった。

 さっきアシュに向けたどの一本よりも速い。

 右足の指が土を噛む。

 左肩が下がる。

 起こりは、ちゃんと見えた。


 フェイは、ほとんど動かなかった。


 半歩。

 体が斜めに沈んで、棒がガイの棒の根元に触れた。

 それだけで、ガイの一撃は線ごと外に流れる。

 音もあまりしない。

 ガイが体勢を立て直したときには、フェイの棒の先が、もうガイの胸の前で止まっていた。


「……ちぇ」


 ガイが棒を下ろした。

 悔しがり方に慣れがある。

 何百回も、同じ形で負けてきた顔だった。


 アシュは、いま見たものを頭の中で追い直した。


 追えなかった。


 ガイの動きには起こりがあった。

 順番がある。

 だから読めた。

 フェイの動きには、それが見当たらない。

 始まりの前に、もう終わっていた。

 あの大きな体が、一番小さい動きだけで、全部を済ませていた。


「見えたか」


「……半歩、沈んだところまでは」


「上等だ」フェイが棒をガイに返した。「その半歩に、俺の回数が全部入ってる」


 フェイがふと、顔を上げた。


 視線が、アシュの頭越しに、通りの方へ動いた。

 組んでいた腕が解ける。

 数える間、フェイはそのまま通りを見ていた。

 それから何事もなかったように視線を戻した。


「ガイ。今日は門の内側で遊べ」


「? なんで」


「なんとなくだ」


 ガイは首をかしげたが、それ以上聞かなかった。

 アシュは振り返って通りを見た。

 人が歩いている。

 荷車が通る。

 いつもの市場外れの通りだ。

 何も見つけられなかった。


 でも、フェイの目は、何かを数えていた。


――――――――――――――――――――


 家に帰り着いたのは、夕方だった。


 庭にレインがいた。

 朝と同じ場所で、木剣を振っている。

 土に残った足跡の数からして、だいぶ長くやっていたらしい。

 アシュは縁側に座らずに、庭の端に立った。


 レインが振りを止めた。


「顔が変わったな」


「朝より?」


「朝より」


 レインは木剣を下げて、アシュの手を見た。

 棒を握った跡が、まだ手のひらに残っている。

 豆が潰れかけている場所もある。


「やったのか」


「ガイと。六本」


「取れたか」


「一本も」


 レインが少しだけ笑った。

 珍しい顔だ。


「見えてたんだろ」


「全部見えてた。全部、間に合わなかった」


「知ってる」レインは木剣を担いだ。「俺も最初はそうだった」


 レインでも、そうだった。

 八歳から毎朝振り続けている兄でも、最初は目と体が別々だった。

 なら、道は同じ場所を通っている。

 誰の道も。


 アシュは、壁に立てかけてあった古い木剣を見た。

 レインが昔使っていた、短い方のやつだ。

 手を伸ばして、握った。

 ガイの棒より軽い。

 それでも、アシュの手には十分に重かった。


「レイン。一本、頼める」


 レインがアシュを見た。

 断るかどうか考える間は、なかった。


「転ぶなら」


「前に、だろ」


 レインが構えた。

 アシュも構える。

 見よう見まねの、形にもなっていない構えだ。

 それでよかった。

 今日が一回目だ。

 百回転べば、少し架かる。


 夕方の光の中で、アシュは前に踏み込んだ。


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