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第十二話 六歳


 六歳になった日、ミラがパンを焼いた。


 いつもより大きいやつで、蜂蜜がかかっている。

 ガルドはいない。

 依頼で出ている。

 レインはいた。

 リアもいた。

 三人で台所の卓を囲んだ。

 ミラが「おめでとう」と言い、レインも続いた。

 リアは黙っている。

 まだ言葉が出ない。

 でも卓の上のパンを目で追っていた。


 アシュはパンを食べながら、リアを見ていた。


 半年でずいぶん変わった。

 産まれた日は布に包まれてほとんど動かなかった。

 今は座っている。

 支えがないと倒れるが、自分で体を起こしている。

 目が動く。

 音がすると顔を向ける。

 ミラが何か言うと、ミラの方を見る。

 まだ意味は分かっていないかもしれないが、声に反応している。


「リア、アシュのこと分かるかな」アシュは言った。


「分かってるわよ」ミラが言った。「毎日見てるんだから」


「そうかな」


「そうよ。名前呼ぶと振り向くもの」


 アシュはリアの方を向いた。


「リア」


 リアが振り向いた。

 アシュを見る。

 それから何かを言おうとする顔をして、言わない。

 口だけ動いた。


「分かってる」とアシュは言った。


「でしょ」とミラが言った。


 レインは黙ってパンを食べながら、リアを見ている。

 何も言わなかったが、その顔が少し柔らかかった。

 レインがそういう顔をするのは珍しい。

 アシュはそれを記録した。


 夕方、レインが庭で木剣を持っていた。


 素振りではない。

 一点を見て、構えていた。

 アシュが庭に出ると、レインが気づいて構えを解いた。


「邪魔だった」アシュは言った。


「いや」


 レインは木剣を下ろして、縁側に腰を下ろした。

 アシュも隣に座った。


 二人とも何も言わなかった。

 庭を見ている。

 夕方の光が地面に伸びている。

 朝の稽古で土が踏み固められた跡が残っていた。


「レインは稽古、毎日やってるの」アシュは聞いた。


「ガルドがいないときも」


「一人で」


「そうだ」


「目標とかあるの」


 レインが少し間を置いた。


「強くなりたい」


「何のために」


「家族を守れるくらいに」


 短い。

 続きはなかった。

 でも、レインが何かを多く話した気がした。

 感情を言葉にしないレインが、それだけ言った。

 アシュはその言葉をそのまま受け取った。

 返す言葉は探さない。

 返さなくていい。


 しばらく二人とも黙っていた。


「アシュは」レインが言った。


「何」


「塔に行って、何を学んでる」


「魔法の仕組み。精霊のこと」


「楽しいか」


「楽しい、かどうか分からない。でも知りたいとは思う」


 レインが少し頷いた。


「似てるな」


「何が」


「理由は違うけど、やってることが似てる」


 アシュはそれを聞いていた。

 レインは毎日木剣を振る。

 アシュは塔に通う。

 目的も方法も違う。

 でもレインの目には何か似たものとして映っているらしい。

 言われてみれば、確かに似ていた。


「レインは魔法、使えるの」


「使えない」


「剣の方が好き」


「そうだ」


 レインが木剣を地面に置いて、空を見た。

 アシュも空を見る。

 まだ明るいが、端の方が少し色づいている。


「ガルド、明日帰ってくる予定だ」レインが言った。


「そうか」


「リアの顔、久しぶりに見せてやれる」


「父さんは、しばらくリアに会ってないの」


「産まれてすぐの頃は家にいた。ここ数ヶ月は依頼続きで、ほとんど帰ってない」


 アシュは黙って聞いた。

 リアが産まれてしばらく、ガルドは家にいた。

 夜中に起きる音のことも覚えている。

 でもここ数ヶ月はずっと出ていた。

 それがガルドの仕事の密度だった。


「楽しみにしてるかな、父さん」


「してると思う」レインが少し考えてから言った。「してないはずがない」


 レインが「してないはずがない」と言ったことが、少し重かった。

 確信がある言い方だった。

 自分の父親を、そういう目で見ている。


 虫の音が始まった。

 夕方から夜に変わる境目だ。

 二人ともそのまま縁側にいた。

 話すことがなくなっても、どちらも立たなかった。

 それでよかった。


――――――――――――――――――――


 翌朝、町に出た。


 用があったわけではない。

 少し歩きたかった。

 ゼドルに全部の精霊の印を教わってから、町を歩くたびに見えるものが増えていた。

 街灯の付与石。

 水汲み場の浄水石。

 商店の看板についた光の付与石。

 どれも光って見える。

 前から見えていたが、今は印まで読めるものがある。


 市場の入口に差し掛かったとき、水汲み場の浄水石が目に入った。


 近づいて見た。


 収束型の流れ。

 その中に印がある。

 形を追った。

 ヴァッサークアの印だ。

 水の精霊の印。

 浄水石だからこれが入っているはずだ。

 でも今日初めて、自分でそれを確かめた。

 ゼドルに教えてもらった形と、ここにある形が重なる。


 一致した。


 それだけのことだったが、少し止まった。


 ゼドルの塔で石板を見ながら覚えた形が、町の中にある。

 石板の中だけの話ではない。

 どこにでもある。

 当たり前のことだったが、自分の目で確かめると違った。

 知っていることと、見えることは別だ。

 見えて初めて、知っていることになる。


 アシュはそのまま市場の中を歩いた。


 火起こし石を売っている店があった。

 店先に並んでいる。

 近づいて、一つを目で追った。

 小さな石。

 表面に文様が刻まれている。

 光っている。

 収束型ではない。

 拡散型だ。

 外に向かって流れが出ている。

 印を探した。

 フォイグニスの印だ。

 炎の精霊の印。

 叩くと点火するのは、炎の精霊の加護が拡散して放出されるからだと思った。

 合っているかどうかはまだ確かめていない。

 でもそういう仕組みだろう。


 次にゼドルに会ったとき聞いてみよう、と思った。


 市場を抜けて、また路地に入った。

 石畳の継ぎ目を踏まないように歩いた。

 商店の壁に光の付与石が埋め込まれている。

 天井の付与石と同じ種類だ。

 明るい。

 印を見た。

 エルデラの印ではない。

 ヴァッサークアでもない。

 形を確認した。

 フォイグニスだ。

 炎の精霊の印。

 光の付与石に炎の精霊が関わっているのか、と少し考えた。

 熱と光は近い。

 炎の精霊の加護が、燃やすのではなく光るだけの現象を起こしている。

 そういうことなら筋は通る。

 答え合わせは、まだしていない。


 面白かった。


 知りたい、とはずっと思っていた。

 面白い、と思ったのはこれが初めてだった。

 仕組みが分かることが、面白い。


 昼頃、塔に寄った。


 ゼドルは石板を見ていた。

 アシュが入ってきたのを確認して、椅子に座る。

 今日は石板を出さなかった。


「六種類、全部覚えたか」


「はい」


「言ってみろ」


「フォイグニス、ヴァッサークア、テンペシュトゥルム、エルデラ、レーベンヴィタ、エンデリス」


「印は」


「全部見えます。ただ、一つ聞いてもいいですか」


「何だ」


「火起こし石を見た。拡散型の流れに、フォイグニスの印が入っていた。叩くと炎が出るのは、炎の精霊の加護が拡散するからですか」


 ゼドルがしばらくアシュを見た。


「どこで見た」


「市場の店先に並んでいた」


「自分で読んだのか」


「はい」


 ゼドルが少し目を細めた。

 それからゆっくり言った。


「半分合っている」


「残り半分は」


「加護は拡散するのではない。精霊が集まる場所を作る。精霊が集まることで、そこに現象が起きる。炎の精霊が集まれば、熱と光が生まれる。拡散型は、精霊が集まりやすい空間を外に向けて広げる術式だ」


「外に向けて広げることで、外の空間に精霊が集まる」


「そういうことだ」


 アシュは頭の中で整理した。

 収束型は内側に精霊が集まりやすい場所を作る。

 拡散型は外の空間に精霊を呼び込む場所を作る。

 向きが違うのは、目的が違うからだ。

 内に集めるのか、外に広げるのか。

 それが術式の方向を決める。


「悪くない」とゼドルが言った。


「また来ます」


「好きにしろ」


 今日の話はそこまでだった。

 短かったが、自分で読んで、自分で考えて、答え合わせができた。

 それで十分だ。


――――――――――――――――――――


 夜、ガルドが帰ってきた。


 扉が開く音がした。

 部屋を出て廊下に行くと、ガルドが荷物を下ろしていた。

 ミラが台所から出てくる。

 レインも続いた。


「おかえり」とミラが言った。


「ただいま」とガルドが言った。


 それだけで、何かが家の中に戻ってきた感じがした。

 空気の重さが少し変わる。

 ガルドがいるときといないときで、家の密度が違う。

 アシュはそれをいつも感じていた。


 ガルドがリアを見た。


 ミラが抱いていたリアを、ガルドの前に連れてきた。

 ガルドがかがみ、リアと目を合わせる。

 リアがガルドを見た。

 知らない顔だと思ったのかもしれなかった。

 少し固まった。

 でも泣かなかった。


「大きくなったな」ガルドが言った。


「半年だもの」ミラが言った。


 ガルドがリアに指を差し出す。

 リアがそれを掴んだ。

 小さい手で、しっかり握っている。

 ガルドが少し笑った。

 声を出さない笑い方だ。


 アシュはそれを廊下から見ていた。


 ガルドがリアを見るとき、目が違う。

 仕事の話をするときとも、依頼から帰ったときとも違う。

 何かが緩んでいる。

 そういう顔をする人間だった、とアシュは思った。


 ガルドが顔を上げ、廊下にアシュがいるのに気づいた。

 一瞬、視線が滑りかける。

 いつものように。


 でも今日は、少し止まった。


「アシュ」とガルドが言った。「六歳になったそうだな」


「昨日」


「そうか」


 それだけだった。

 ガルドが視線を戻した。

 でも今日の一瞬の止まりは、いつもと少し違った。

 滑り切らなかった。

 それだけのことだったが、アシュはそれを記録した。


 なぜそうなったのかは分からなかった。

 ガルドも分かっていないかもしれなかった。


 ただ、滑り切らなかった。


 台所からミラの声がした。

 夕飯ができたらしい。

 レインが先に動く。

 ガルドがリアを抱いたまま台所に向かった。

 アシュも続く。


 家の中が、また少しだけ変わった気がした。

 変わった、というより、何かが少し動いた。

 どこに向かうのかはまだ分からない。

 でも動いた、ということだけは分かった。


 夕飯の間、リアが声を出した。

 言葉ではない。

 ただの音だ。

 でもガルドの方を向いて、声を出した。

 ガルドがリアを見る。

 リアがまた声を出した。


「呼んでる」とミラが言った。


「そうか」とガルドが言った。


 それだけだった。

 でもガルドの声が少し違った。


 アシュは飯を食いながら、今日のことを順番に思い返した。

 レインの「家族を守れるくらいに」という言葉。

 市場の火起こし石の印。

 ゼドルの「半分合っている」。

 ガルドの視線が滑り切らなかった瞬間。

 リアの声。


 悪くない一日だった。

 一拍遅れてから、そう思っていると気づいた。


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