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第十話 アニマ


 塔に再び来たのは、リアが産まれてから少し経った頃だった。


 その間にも、毎日何かがあった。

 リアが泣く。

 ミラがあやす。

 夜中にガルドが起きる音がする。

 朝になるとまた何かが始まる。

 家の中の空気が変わっていた。

 変わった、というより、増えた、という感じだった。

 音が増えて、動きが増えて、その分だけ家が少し違う場所になっている。


 嫌ではなかった。

 ただ、落ち着いて考える時間が減っていた。


 塔のことは、ずっと頭の隅にあった。

 浄水を浄水と決める残り半分。

 収束型の特徴ではない、別の何か。

 老人は答えを教えなかった。

 でも問いは残っている。

 問いが残るなら、また来る理由になる。

 そう思っていた。


 路地の奥に石の塔が見えた。

 煙突から細く煙が上がっている。

 扉を叩く前に、扉の横の石壁をもう一度見た。

 前回、あそこに何か刻まれていると気づいた。

 かすかに光っている。

 今日も同じだ。

 流れがあることは分かる。

 でもその先は、まだ読めない。


 扉を叩いた。


「入れ」


 すぐに声が返ってきた。

 アシュは扉を開けた。


 中に入ると、ゼドルは棚の前にいた。

 石板を一枚ずつ確認している。

 アシュが入ってきたのを横目で見たが、手を止めなかった。

 アシュも何も言わなかった。

 かまどが鳴っている。

 部屋の匂いは前と同じだ。

 薬草に近い、少し苦い種類の匂い。

 天井の付与石が白く、均一に部屋を照らしている。


 しばらくして、ゼドルが石板を棚に戻した。

 椅子に座り、アシュを見る。


「また来たか」


「はい」


「いつ来るかと思っていた」


 アシュは少し止まった。

 待っていた、ということだ。

 追い返す気がないだけではなく、来ることを前提にしていた。

 それが少し意外だった。

 でも顔には出さなかった。


「リアが産まれました。妹です」


「そうか」


「少し家が忙しかった」


「赤ん坊というのはそういうものだ」


 ゼドルが短く言って、それ以上は聞かなかった。

 アシュも続けない。

 ゼドルが顎で向かいの椅子を示した。

 アシュは座った。

 卓を挟んで向かい合う。

 前回と同じ配置だった。


「浄水石の残り半分を教えてもらいに来ました」


 ゼドルがアシュを見た。

 前回とは少し違う目だ。

 値踏みではなく、確認する目。


「教えてやる義理は今のところないと言った」


「今はありますか」


「……なぜそう思う」


「前に、石板を全部読んだ。密度が見えると言ったとき、声が変わった。あれから何か変わった気がした」


 ゼドルがしばらく黙った。

 否定しなかった。

 それから棚の石板を一枚取り出し、卓に置く。

 今度は前回とは別のものだった。


「流れを見ろ。今日は流れの中を見る」


「流れの中」


「前回お前は流れの本数と方向と密度を読んだ。それは外側だ。もう一層、内側がある」


 アシュは石板を見た。


 光っている。

 流れが二本。

 どちらも同じ方向に向かう。

 外から内、収束型だ。

 中央の一点に向かって絞り込まれている。

 密度は中央に近づくほど濃い。


 流れの中を見た。


 光の中に、形があった。


 小さい。

 流れそのものより細くて、でも確かにそこにあった。

 流れの一部に刻まれている、という見え方だ。

 形は複雑ではない。

 いくつかの線が組み合わさっている。

 記号のようなものだ。


「流れの中に、形がある」


「見えるか」


「はい。小さい。でも確かにある」


「それが、残り半分だ」


 ゼドルが静かに言った。

 アシュはもう一度、形を確認した。

 線の組み合わせ。

 どういう意味を持つのかはまだ分からない。

 でも、形があること自体は分かった。


「この形が、何を集めるかを決めるんですか」


「そうだ。精霊の印だ。流れの中に刻まれていて、どの精霊の加護を呼ぶかを指定している。浄水石なら、水の精霊の印が入っている。水の精霊が集まりやすい場所に流れを向けることで、浄化の効果が生まれる」


「だから収束型だけでは浄水とは言えない」


「そういうことだ」


 アシュは前回の自分の答えを思い返した。

 流れの向きが同じだから水に関係すると言った。

 半分だった。

 収束しているのは確かだが、それだけでは何を集めるのか決まらない。

 今日初めて、その「何を」の部分が見えた。


 前回から、一歩進んだ。


 ゼドルが石板を指先で軽く叩いた。


「この石板に刻まれているのはエルデラの印だ。土の精霊の印だ。土は大地に精霊が集まりやすい。だから地を扱う術式にはエルデラの加護が乗りやすい」


「何のための石板ですか」


「地盤を固める術式だ。建物の基礎の下に設置する。長い時間をかけてゆっくり効く」


 アシュは石板を改めて見た。

 地盤を固める。

 地面の下で、土の精霊が集まり続けている。

 派手ではない。

 誰も見ていない場所で、静かに働き続けている。

 設置したら、もう表からは見えない。

 それでも動いている。


「建物の下に設置したら、もう魔法式は見られない」


「そうだ」


「見られなくても、ちゃんと動いている」


「術式というのはそういうものだ」


 ゼドルが短く言った。

 それから少し間を置いて、続けた。


「お前の父に、何度か頼んだことがある」


「父さんに」


「この塔の補修だ。石工を雇う気もなかった。ガルド・ヴァルドがこの辺りで仕事をしているのを知っていた。あいつに頼んだ。何度か来た」


「依頼として」


「そうだ。余計なことを何も言わずにやった。それだけの話だ」


 アシュはそれを聞いていた。

 ガルドとゼドルが関わったことがある。

 「あいつにもう一人息子がいたとは知らなかった」と前回言っていた。

 ガルドを知っているのは確かだ。

 でも具体的にどういう経緯かまでは見えてこない。

 依頼。

 補修。

 何度か来ていた。

 この塔のどこかに、ガルドが手を入れた場所があるかもしれない。


「父さんはゼドルさんのことを覚えていますか」


「さあな。向こうに聞け」


「ゼドルさんは父さんのことを覚えていますか」


「……仕事の丁寧な人間は覚えている」


 それだけだった。

 ゼドルがそれ以上続けなかったのでアシュも続けなかった。


 竈の音がしている。

 ゼドルが立ち上がって、鍋をかき混ぜた。

 背中を向けたまま言った。


「アニマのことを聞きたいか」


「はい」


「何を知りたい」


「全部です」


「全部は今日では無理だ」


「今日分かる分だけで」


 ゼドルが少し息を吐いた。

 笑いはしない。

 ただ、空気が一段ゆるんだ。

 鍋から離れて、再び椅子に座った。


「世界には流れがある。目には見えない。でも確かに流れている。大気にも、大地にも、海にも、全部その流れが通っている。生き物も同じだ。お前が今ここにいるのも、その流れの一部を借りているからだ」


「借りている」


「死ねば還る。世界に戻っていく。それがアニマだ」


 アシュは聞きながら考えていた。

 循環している。

 生き物は使っている間だけ借りて、死んだら返す。

 精霊の印が、その流れの中で何を集めるかを指定する。

 今日見た土の印も、水の印も、全部そういう仕組みだ。

 一本の線でつながった気がした。


「魔法式は、その流れを誘導するものですか」


「そう思う根拠は」


「収束型は外から内に向かう。流れを一点に集めている。流れを作っているんじゃなくて、もとからある流れを曲げている気がした」


 ゼドルがしばらく何も言わなかった。

 アシュを見ていた。

 最初の日は何者かを測る目だった。

 今日は少し違う。

 何かを確認している目に近い。


「悪くない」


 褒めているわけではない。

 でも否定でもない。

 方向は合っている、ということだとアシュは思った。


「どこが足りないですか」


「それは次に来たときに話す」


 次、という言葉が出た。

 「また来たとき」ではなく「次に来たとき」だった。

 前提が少し固くなった気がした。


 ゼドルが石板を手に取った。

 確認するように眺めながら、視線を落としたまま言った。


「前回、お前の青い目について聞いた」


「変わった力を持つ者が多いと聞いた、と言いました」


「それだけか、と聞いた」


「それだけだと答えました」


「……今もそれだけか」


「今もそれだけです。でも……声が変わるのが、一回じゃなかった。密度が見えると言ったときも。印が見えると言ったときも。何か、普通じゃないんだと思う」


 ゼドルが石板を置いた。

 アシュを見た。


「そうだ。お前のような目は、これまで見たことがない」


 それだけだった。

 説明はない。

 アシュも続けなかった。

 なぜ見えるのかは、今日話す内容ではないと分かった。

 でも、普通ではないという確認は取れた。

 それで十分だ。


 ゼドルが立ち上がった。

 話が終わった、という動きだ。


「また来ていいですか」


「好きにしろ」


 前と同じ言葉だった。

 でも最初の日とは重さが違う。

 最初は追い返さなかっただけ。

 今日は、次に来たときに話すことがある、と言った。

 「好きにしろ」の意味が変わってきている。


 アシュは立ち上がった。


「ありがとうございました」


「ああ」


 今日は返事があった。

 背中を向けたまま終わった最初の日とは、それだけ違った。


 扉をくぐる前に、もう一度来訪者術式の石壁を見た。

 かすかに光っている。

 今日教わったことを思い出した。

 流れの中に形がある。

 目を凝らした。


 あった。


 小さい。

 塔の中で見た石板の印より、ずっと薄い。

 でも確かに形がある。

 今日初めて、扉の横の術式の中に印があると気づいた。


 何の精霊の印かはまだ分からなかった。

 でも、見えた。


 アシュは路地に出た。


――――――――――――――――――――


 夕方の光が石畳を斜めに照らしていた。


 来たときより時間が経っている。

 どのくらい経ったか、正確には分からなかった。

 塔の中にいると時間の感覚が薄れる。

 静かで、竈の音しかない部屋にいると、外の時間との感覚がずれていく。


 歩きながら、今日のことを整理した。


 流れの中に印がある。

 その印が何を集めるかを決める。

 それが残り半分だ。

 前回から一つ進んだ。

 帰り際に来訪者術式の中にも印があると気づいた。

 何の精霊かはまだ分からない。

 次に聞く。


 アニマのことも分かった。

 世界を流れているもの。

 生き物が借りているもの。

 死ねば返すもの。

 魔法はその流れを誘導する行為だ。

 印が精霊への指示になる。

 土には土の精霊が集まりやすいからエルデラの加護が乗りやすい。

 水には水の精霊。

 それぞれの場所に、それぞれの精霊がいる。

 一本でつながった。


 ゼドルがガルドに塔の補修を頼んだことがある。

 余計なことを言わずにやった、と言った。

 仕事の丁寧な人間は覚えている、とも言った。

 それがゼドルの中でのガルドなのだろう。


 自分の目が普通ではないと確認できた。

 これまで見たことがない、と言った。

 なぜ見えるのかは今日は教えてもらえていない。

 次に持ち越し。


 まだ分からないことがある。

 「悪くない」と言われた考えのどこが足りなかったか。

 なぜ青い目でも見える人と見えない人がいるのか。

 印の意味をどうやって知るのか。


 全部、次に持ち越した。


 石畳の継ぎ目を避けながら歩いた。

 いつからかの癖だった。


 家に帰ればリアがいる。

 ミラがいる。

 たぶんガルドも今日は帰っている。

 夕飯の時間には間に合うだろう。

 ガルドにゼドルから依頼の話を聞いたと言うべきかどうか、少し考えた。

 言わなくていい。

 言う必要が出たときに言えばいい。


 また来よう、とアシュは思った。


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