第九話 父と子
アシュが産まれた夜、ガルドは台所の隅に立っていた。
助産婦が来て、バルトが来て、ミラが横になって、それからしばらく経った。
声は、すぐには上がらなかった。
助産婦の手が速く動く気配があって、少し間があって、それから細い声がした。
生きているという音だった。
その音を聞いたとき、何かが緩んだ。
胸の内側のどこかが、ずっと張っていたのだと、そのとき初めて分かった。
ミラが呼んだ。
ガルドは近づいた。
腕の中に小さいものがいた。
目が青かった。
ガルドは一度、それから目を逸らした。
異血の者の目。
この町ではそう呼ぶ。
呪われた血、と言う者もいる。
自分の子がそれだとは思っていなかった。
思っていなかったというより、考えていなかった。
子が産まれる前に考えるようなことではないと、どこかで決めていた。
ミラが笑っていた。
疲れた顔で、でも笑っていた。
「アシュよ」とミラが言った。「もう決めてたの」
ガルドは何も言わなかった。
名前だけ聞いた。
アシュ。
ミラが考えた名前だった。
それでいいと思った。
自分には何も思いつかなかった。
ミラの方が先に全部考えている。
いつもそうだ。
もう一度だけ、青い目を見た。
子どもの顔だった。
ただ、そこにいた。
呪いでも何でもなく、ただ産まれてきたものがそこにいた。
それは分かった。
でも目を合わせ続けることが、できなかった。
何かを感じるからではなかった。
何も感じないようにしていたから、だったかもしれない。
その夜のことを、ガルドはあまり人に話さなかった。
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一歳になる頃には、アシュは泣かない子だと分かっていた。
腹が減れば泣く。
痛ければ泣く。
それは普通の赤ん坊と変わらなかった。
でもそれ以外では、ほとんど泣かなかった。
ガルドが帰ってきても、知らない顔に驚いても、大きな音がしても、泣かなかった。
目を見開いて、見ていた。
見ていた、というのが正確だった。
泣くかわりに、見る。
その目が、ガルドは少し苦手だった。
青い目で、じっと見る。
何かを測っているような目だった。
赤ん坊がそういう目をするものなのか、ガルドには分からなかった。
レインはもう少し感情が顔に出た。
笑ったり、むずかったり、眠そうにしたり。
アシュはそれが薄かった。
ミラは気にしていなかった。
「物分かりがいいのよ」と言った。
「レインもそうだったじゃない」
レインはそうではなかった、とガルドは思ったが言わなかった。
言葉が出始めたのは、一歳になってすぐの頃だった。
早かった。
ガルドが知っている子どもの中で一番早かった。
最初の一言から、次の言葉までが速かった。
覚えるのではなく、最初から知っているような速さだった。
それ自体はいい話だと思っていた。
賢い子だと思っていた。
ただ、一歳のある夜のことが、頭から離れなかった。
ガルドが遅く帰ってきた夜だった。
依頼で一週間ほど家を空けていた。
疲れていた。
台所で水を飲んでいたら、アシュが起きてきた。
廊下の入口に立って、こちらを見ていた。
ガルドは「起きたのか」と言った。
アシュは何も言わなかった。
少し考えるような間があって、それから「おかえり」と言った。
言葉の意味は分かる。
でもその言い方が、一歳の子どもの言い方ではなかった。
正確に言えば、どこか他人行儀だった。
家族に言う言葉を、正確に選んで言っている。
そういう言い方だった。
感情がないわけではない。
でも感情より先に、言葉の選択がある。
ガルドは「ああ」と言った。
それだけだった。
アシュはまた少し間を置いて、部屋に戻った。
追いかけなかった。
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オルトに話したのは、アシュが二歳になってしばらく経った頃だった。
依頼の合間に、何の気なしに言った。
うちの子が妙だ、と。
青い目の話ではなかった。
目を逸らすのは習慣で、自分でも分かっている。
そうではなく、様子が、と言いかけて、うまく続かなかった。
オルトは少し考えてから「子どもはそんなもんじゃないのか」と言った。
「賢い子は落ち着いてる」
ライナは「かわいいじゃないですか」と言った。
「レインくんも静かだったって言ってたし」
バルトは何も言わなかった。
でも否定もしなかった。
それで話は終わった。
気にすることはない、ということだった。
そうかもしれなかった。
自分が慣れていないだけかもしれなかった。
レインのときも、最初は戸惑った。
子どもというものに、ガルドはあまり慣れていない。
でも、レインのときとは違う、という感覚は消えなかった。
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アシュは、見ている。
それがガルドの中で言葉になったのは、二歳の終わり頃だった。
ガルドが何かをするとき、アシュはそれを見ている。
剣の手入れをしていても、鎧を確認していても、飯を食っていても。
見ている。
その目が青い。
青い目で、何かを記録するように見ている。
レインも口数が少なかった。
自分に似た、と思った。
アシュも口数が少ない。
それも似た。
でもレインが見るのは、ガルドが何をするかだった。
アシュが見るのは、もう少し別のものだった。
何をするかより、なぜそうするか。
そういうものを見ている気がした。
気のせいかもしれない。
二歳の子どもにそこまで考えられるはずがない。
でも、そう感じた。
心の中を覗かれているような、と思ったとき、自分でも少し可笑しかった。
相手は二歳だ。
それでも、その感覚は続いた。
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三歳になる頃には、アシュは言葉が達者になっていた。
ガルドが怪我をして帰った夜のことを、アシュはじっと見ていた。
バルトが治癒をして、オルトが説明して、ガルドは横になっていた。
部屋の外からアシュの気配がした。
覗いているのが分かった。
翌朝、素振りをしていた。
窓からアシュが見ていた。
いつからいたのかは分からなかった。
ガルドが気づいたときには、もう窓際にいた。
声をかけなかった。
素振りを続けた。
アシュはしばらく見て、それから部屋の奥に引っ込んだ。
窓の外から見ているのに、こちらに踏み込んでこない。
それが引っかかった。
三歳の子どもにしては、妙な判断をする。
近づいていいのかどうかを、測っているような。
ガルドは素振りを続けた。
アシュの目は青い。
見るたびに、一瞬だけ視線が滑る。
意図してやっているわけではなかった。
体が先に動く。
習慣になっていた。
この町で生まれ育てば誰でもそうなる。
異血の者の目は、じっと見るものではない。
そういう空気が染み付いている。
分かってはいる。
自分の子だということも分かっている。
でも体が先に動く。
それだけのことだ、とガルドは思った。
思うようにしていた。
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五歳になったアシュは、よく外に出るようになった。
広場でガイ・クラインと遊んでいると聞いた。
フェイの息子か、と思った。
あの男の子どもなら悪い話にはならないだろうと、それだけだった。
アシュが何かをしているとき、ガルドはあまり口を出さなかった。
出す必要がないと判断していた。
ある日、アシュが街外れの古い塔に出入りしているらしいと、ミラから聞いた。
ゼドルの塔だ。
ガルドは止めなかった。
ゼドルとは、アシュが産まれる前に何度か顔を合わせたことがある。
依頼で動いているときに関わった。
詳しいやり取りをしたわけではない。
バルトとオルトとも面識があるようだったが、親しい間柄ではなかった。
あの老人の目の印象は残っている。
品定めをする目だった。
こちらの何かを測っていた。
悪い人間ではないと思ったが、近づきたい種類の人間でもなかった。
アシュが行って、帰ってきた。
何も言わなかった。
顔を見れば大体のことは分かる。
うまくいったのだろうと思った。
失敗した顔ではなかった。
次に行く顔だった。
ガルドは何も聞かなかった。
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朝、庭でレインと稽古をしていると、窓からアシュが見ていた。
いつからいたのかは分からなかった。
気づいたときには窓際にいた。
外に出てきて、庭の端に座った。
声をかけなかった。
稽古の邪魔をしなかった。
ただ見ていた。
「お前もやるか」と聞いた。
「まだ見てたい」とアシュが言った。
ガルドはそれ以上聞かなかった。
稽古を続けた。
レインは八歳から稽古をつけている。
教えるというより、一緒に動いている感覚だ。
レインは口数が少ない。
自分に似た、と思っている。
アシュも口数が少ない。
それも似た。
でも似ている種類が違う。
レインは感情があって、それを言葉にしないだけだ。
アシュは、言葉より先に何かを考えている。
その順番が違う。
アシュは見ていた。
何を見ているのかは分からなかった。
でも、ただ眺めているのとは違う見方をしていた。
目が、どこかを追っていた。
何かを探している目だった。
一歳の頃から変わらない、あの目だった。
稽古が終わって、木剣を確認していたらアシュが隣に座った。
「強い」と言った。
「父さんが。でもレインも上手い」
レインは「全然だ」と言った。
ガルドは何も言わなかった。
言う必要がなかった。
夕方、アシュに「お前はそういうやつだな」と言った。
見てる、という意味で言った。
アシュは否定しなかった。
それが正確だったと思う。
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ミラの動きが変わったのは、アシュが五歳の後半に入った頃だった。
バルトに頼んで、週に一度来てもらうようにした。
ミラの体の負担を和らげるためだった。
バルトは何も言わずに来た。
来るたびに表情が柔らかかった。
悪くない、という顔だった。
ガルドはその顔を見るたびに少し息ができた。
依頼を減らした。
断るのは好きではなかった。
でも今は家にいる方がいいと判断した。
ミラは「大丈夫よ」と言った。
ガルドは聞かなかった。
ミラが大丈夫と言うときは、大丈夫ではないことも含まれている。
それくらいは分かっていた。
名前を考えた。
ミラが先に考えていた。
男ならカール、女ならリア。
どちらも悪くなかった。
自分には何も思いつかなかった。
アシュのときも同じだった。
ミラの方が先に全部考えている。
それでいいと思っていた。
いいというより、それがこの家の形だった。
産まれる日が近いと、バルトが言った。
その日の昼前、助産婦が来た。
バルトも来た。
ガルドは台所にいた。
レインとアシュが廊下にいた。
気配で分かった。
追い返さなかった。
ここにいていい、と思った。
言葉にはしなかったが、そう思った。
時間がどのくらい経ったか分からなかった。
細い声がした。
また、あの音だった。
五年前に聞いた音と同じ種類の音だった。
でも、同じではなかった。
あのときは何かが緩んだだけだった。
今回は、それより先のものが来た。
うまく言葉にならなかった。
ただ、目が熱くなった。
廊下に出た。
アシュとレインがいた。
何か言おうとして、言えなかった。
代わりにアシュの頭に手を置いた。
一度だけ。
それだけだった。
「女の子だ」
そう言ったら、アシュが「リアだ」というような顔をした。
声には出さなかったが、そういう顔だった。
この子はいつもそうだ。
言葉より先に、顔が動く。
台所に戻った。
ミラの顔を見た。
疲れていた。
でも笑っていた。
腕の中にリアがいた。
青くなかった。
金色だった。
ガルドと同じ色だった。
それを見て、何かが抜けた。
抜けたのが何なのか、自分でも分からなかった。
ずっとそこにあったものが、なくなった。
そういう感覚だった。
ミラが笑ったまま言った。
「泣いてるじゃない」
ガルドは何も言わなかった。
夜、縁側に出た。
アシュが来た。
「父さんが泣くのは知らなかった」と言った。
「でも知った」と言った。
ガルドは笑った。
笑うしかなかった。
「お前はそういうやつだな」
「何が」
「見てる」
アシュは否定しなかった。
そういうやつだと、自分でも分かっているらしかった。
リアが泣いた。
ミラがあやした。
声が聞こえた。
ガルドは縁側から家の中を見た。
この家に、今日から四人と一人になった。
一人、というのがアシュのことだとガルドは思っていた。
四人の中に入れてやれていないのかもしれない、と思っていた。
青い目を直視できないまま五年が経った。
それは今日も変わっていなかった。
でも、リアが産まれた日に泣いたのを、アシュは見ていた。
それだけは、確かだった。




