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第八話 産声、もう一度


 ある朝、ミラの動きが変わった。


 台所に立つ時間が減った。

 椅子に座る時間が増えた。

 ガルドがいるときは何かを運ぼうとするとすぐ止める。

 ミラはそのたびに「大丈夫よ」と言うが、ガルドは聞かない。

 ガルドが出かけているときはレインが代わりに止める。

 レインも何も言わなかったが、ミラが何かを持とうとすると先に取りに行っていた。


 アシュはそれを見ていた。


 バルトが週に一度来るようになった。

 来るたびに台所でミラと話して、帰っていく。

 何を話しているかまでは聞こえない。

 バルトは長くはいないが、来るたびに少し表情が柔らかい。

 悪い状態ではないときの顔だ。


 もうすぐ産まれる、とアシュはそのあたりで理解した。


 誰も直接教えてはいない。

 でも全部が一つの方向を向いている。

 ガルドが帰る頻度が上がる。

 レインが稽古の後に台所を覗くようになる。

 バルトが来る。

 ミラの腹が丸くなっている。

 情報を集めれば分かることだった。


 名前の話は、夜にガルドとミラが話しているのが部屋の外まで届いたことがあった。

 男の子ならカール、女の子ならリア、という声が聞き取れた。

 まだどちらか決まっていない。

 産まれてみるまで分からないということは、アシュにもなんとなく分かっていた。

 どちらになるのか、自分でもよく考えている。

 どちらでも構わないとは思うが、なぜか少し気になった。


 その日の昼前、知らない女が来た。


 玄関先でミラと話していた。

 年配だ。

 大きな布の袋を持っている。

 アシュは廊下から見ていた。

 ミラが女を中に通した。

 ガルドはすでに家にいる。

 普段の時間なら依頼に出ているはずだが、今日は朝から家を出ていない。


 何かが始まる気配があった。


 台所の前でレインが立っていた。

 廊下の壁に背中を預けて、腕を組んでいる。

 アシュが来たことに気づいて、少し横にずれた。

 アシュはその隣に並んだ。

 二人とも何も言わない。

 台所の中からミラの声がした。

 痛みをこらえているような声だ。

 でも泣いてはいない。

 笑っているわけでもない。

 その中間のどこかにある、アシュには正確に分類できない声だった。


 ガルドの声がした。

 何と言ったかは聞こえない。


 年配の女が何かを言った。

 落ち着いた声だ。

 慌てていない。


 しばらくしてバルトも来た。

 玄関を開ける音と、廊下を歩いてくる足音。

 バルトはアシュとレインを見て、頷いて、台所に入った。

 それだけで、何も聞かない。


 レインが壁から背中を離した。

 廊下の一点を見ている。

 アシュは隣でその横顔を見た。

 レインは何も言わない。

 表情もほとんど動かない。

 でも腕の組み方が少し違う。

 いつもより少し力が入っていた。


 それだけだった。


 時間がどのくらい経ったか、正確には分からない。


 日が少し傾いていた。

 廊下は静かだ。

 ガルドが台所から出てきた。

 アシュとレインを見て、何かを言おうとして、言わなかった。

 それから顔を上げる。

 目が赤い。

 泣いたのかもしれない。

 ガルドが泣くのを見たのは初めてだった。


 それでも何も言わない。

 代わりに片手をアシュの頭に置いた。

 軽く、一度だけ。


 台所の中から、細い声がした。


 赤ん坊の声だった。


 アシュはその声を聞いていた。


 前世では聞いたことのある種類の音だ。

 病院のドラマでも、親戚の子が産まれたときの話でも。

 聞いたことはある。

 でも直接、同じ空間で聞くのはこれが初めてだった。

 転生してきた直後も自分は泣いただろうが、そのときのことは覚えていない。


 細くて、力がある。

 ちゃんと生きているという音だった。


 カールかリアか、とアシュは思った。

 独り言のつもりだった。


 ガルドが下を見た。

 アシュの顔を見る。

 それから少し笑った。

 泣いた後の顔のまま笑っている。


「女の子だ」


 アシュはそれを聞いていた。


 リアだ、とアシュは思った。

 言葉にはしない。

 でも頭の中ではっきりと、名前が決まった気がした。


 中に入っていいかどうかは、まだ聞かなかった。


 少し経ってから、年配の女が台所から出てきた。


「入っていいよ」女が言った。「お母さんが呼んでる」


 ガルドが先に入った。

 レインが続く。

 アシュは一番最後に入った。


 台所は夕方の光が差している。

 ミラが横になっていた。

 疲れた顔だ。

 でも目は開いている。

 腕の中に何かがいた。

 小さい。

 ぐるぐると布に包まれている。


 ミラがアシュを見た。


「アシュ」とミラが言った。「来て」


 アシュはミラの横に座った。

 ミラの腕の中を見る。

 赤ん坊の顔があった。

 目を閉じている。

 まだ何も分かっていない顔だ。

 眠っているのか起きているのか、その中間のどこかにいるような顔だった。

 転生してきた直後の自分もこういう顔をしていたはずだ。

 もっとも自分のその顔は見ていない。


「リアよ」とミラが言った。


 アシュは黙っていた。


 小さい。

 こんなに小さいものが人間になるのだと、分かってはいたが改めて思った。

 これが育って、歩いて、喋るようになる。

 そうなるまでに何年かかるか、自分が経験したことでもあるのに、外から見るとずいぶん遠い話に思えた。


「触ってみる?」ミラが言った。


 アシュは少し考えた。

 触っていいのかどうかが分からない。

 壊れるとは思わない。

 でも何かを失敗するかもしれない。

 正確に言えば、何を失敗するのかが分からない。

 だからそこで止まっていた。


「大丈夫よ」ミラが言った。


 アシュはそっと指を伸ばした。

 リアの手の甲に触れた。

 柔らかい。

 温かい。

 ちゃんとそこにいる、という感触だった。


 リアが少し動いた。

 目を細める。

 泣きはしない。

 また静かになった。


 アシュは指を引いた。


 何かが変わった。

 家族が増えた、というだけではない何かだ。

 これがここにいるという事実が、実感として降りてくるのに少し時間がかかっていた。

 考えるより先に、体の方が感じているものがある。

 それがあると気づくまで、少し間があった。


 温かかった、とアシュは思った。

 それで十分だった。


「かわいいと思う」とアシュは言った。


 ミラが少し笑った。

 疲れた顔のまま笑った。


「そう言ってくれると嬉しいわ」


 ガルドが後ろに立っていた。

 腕を組んで、二人を見ている。

 レインはガルドの隣にいる。

 どちらも何も言わない。

 でも台所の空気はさっきとは違う。

 さっきは何かを待っていた。

 今はもう、待っていない。


 アシュはリアの顔をもう一度見た。


 目は閉じている。

 また眠っていた。


 こんなに小さいのに、と思った。

 これからどんな顔になるのか。

 どんな声になるのか。

 どんな人間になるのか。

 全部まだ決まっていない。

 これから決まっていく。

 自分がここに来たとき、家族たちは同じものを見ていたのかもしれない。

 こんなに小さいのに、と。


 アシュはこの家に来てよかったと思った。

 三歳のときも思ったことがあったが、今日また思った。

 少し違う種類の気持ちだ。

 あのときは自分の話だった。

 今日はそうではない。

 それがどう違うのか、うまく説明はできない。

 でも違うことは分かった。


 ミラが目を細めていた。


「眠そう」アシュは言った。


「そうね」ミラが言った。「少し眠らせて」


「うん」


 アシュは立ち上がった。

 台所を出る前に、もう一度リアを見た。


 まだ眠っている。


 温かかった。

 それだけで十分だった。


 夜、縁側に出るとガルドがいた。


 一人で座っている。

 杯を持っている。

 いつもより静かだ。

 アシュが来たことに気づいたが、何も言わない。

 アシュも何も言わずに隣に座った。


 庭が暗い。

 虫の音がする。

 遠くで何かが動く音がした。


「名前はどうやって決めたの」アシュは少し経ってから言った。


「リアか」ガルドが杯を置いた。「ミラが決めた。カールでもリアでも、どっちもミラが考えた」


「父さんは」


「どちらでもよかった。ミラが決めるなら全部いい」


 アシュはそれを聞いていた。

 ガルドが笑う。

 照れているような、でも誤魔化してもいないような笑い方だった。


「お前が産まれたときもそうだった。アシュにするってミラが言った。俺は頷いた」


「反対はしなかったの」


「何も思いつかなかった。ミラの方が先に全部考えてたから」


 アシュは少し考えた。

 ミラがそういう人だということは、五年一緒に暮らして分かっている。

 先に考えて、先に動いて、後から「これでよかった」になっている。

 それがミラだ。

 ガルドはその隣でそれを受け取っている。

 その二人の組み合わせが、この家だった。


「今日」とアシュは言った。「泣いてた」


 ガルドが少し止まった。


「見てたのか」


「廊下に出たとき」


 ガルドが杯を見た。

 黙る。

 それからゆっくり言った。


「泣くだろ。そういうことに」


「父さんが泣くのは知らなかった」


「知らなくていい」


「でも知った」


 ガルドが少し笑った。

 笑ったまま杯を持って、一口飲む。

 それからアシュを見た。


「お前はそういうやつだな」


「何が」


「見てる」


 アシュは何も言わなかった。

 違うとは思わない。

 否定する必要もない。


 虫の音が続いている。

 遠くで犬が吠えた。

 ガルドが庭を見た。

 アシュも庭を見る。

 暗くて何も見えなかったが、朝の稽古の跡がどこかにある。

 踏み固められた土が、明日の朝もそこにあるだろう。


「リア」とアシュは言った。「元気に育つといいな」


「そうだな」ガルドが言った。


 それだけだった。


 縁側から見える空は暗くて、星がいくつか見える。

 ガルドが杯をまた傾けた。

 アシュは膝を抱えて、空を見ていた。


 家の中から、細い声がした。

 リアが泣いている。

 すぐにミラの声がした。

 あやす声だ。

 何を言っているかは聞こえない。

 でも声の調子で分かる。

 大丈夫だという声だ。

 ここにいるという声だった。


 リアの声が少しずつ静かになった。


 ガルドが立ち上がった。


「俺も戻る」


「うん」


 ガルドが台所の方へ向かった。

 アシュは縁側に残った。

 もう少し、外の空気を吸っていたかった。


 虫の音が続いている。

 遠くで何かが動いた。

 星がいくつか見えている。


 この家に、今日から四人と一人になった。


 アシュはそれをしばらく考えていた。

 一拍遅れてから、悪くないと思った。


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