第十一話
「五本だ」
父が縁側の端から言った。座ったまま庭を向いていて、手は膝の上にある。
アシュは庭の真ん中に立った。木剣を右手で握って、左手を添えている。日は薪の台の高さまで落ちていて、庭は半分がまだ明るい。
右手が動かなくなったあの夜から数えて、七十九日目の夕方になる。
昼のうちに詰所の裏の庭へ行った。言われた通り木剣を持っていった。ガイがフェイの見ている前で鉄剣を十本振り終えてから、アシュも持ってきた木剣を振った。
四本振って、切れたのは三本だ。切れなかったのは三本目で、肘が下がっていた。数えたのはアシュで、ガイは数を聞かずに団の棒を上げている。庭の真ん中は、昨日はまだ踏んだ所に水が寄ってきた。今日はもう寄ってこない。
庭の土は上が乾いて、下がまだ湿っている。踏むと沈む深さが昨日より浅い。果樹の枝の先に、去年の秋には無かった膨らみが並んでいる。
肘をたたんでから上げて、上げた所で止まらずに振った。
風を切る音がする。
二本目、三本目と続けて音が出た。四本目で肘が少し下がる。
四本目を振り終えたところで、兄が団の棒を提げて庭へ下りてきた。詰所の若い衆が打ち合いに使う木の棒で、今日はそれを借りてきている。兄は左の膝を先に置いてから右を寄せて、団の棒を胸の高さで横にした。
「最後は俺が受ける。上がる所からでいい」
アシュは父を見た。
「それで今日は終いだ」
父は膝の上の手を動かさない。
五本目を上げる。昨日はここで右の腕が肩の高さで止まった。今日は肩を越えて、越えた所で重くなる。重いまま振り下ろした。
兄は受け止めない。棒の腹へ当てさせて、当たった所から先を横へ流す。流された分だけアシュの体が前へ出て、右の足が半歩多く進んだ。
当たった所で木剣の重さが横へ抜けて、手首は持っていかれない。持っていかれたのは体の方だ。
「足は戻すな。そのまま立ってろ」
アシュは前へ出た右の足を戻しかけて、止めた。
「今、どっちの足に重さがある」
アシュは自分の足元を見た。右の足が半歩前にある。土に付いた形は前が深くて、踵の側が浅い。
「右です。前が深いです」
「なら乗ってる。それでいい」
兄はそれだけで棒を下ろした。棒の先を土に着けて、立ったまま自分の左の膝を指の先で一度叩く。
右の手のひらのしびれは振り切った所から肘の手前までで止まっている。上へは来ない。冬のあいだ肘から先に来ていた、触ると左より遅れて分かる遠さとは別で、持った物の重さが手に残っているだけだ。
リアが縁側の内から出てきて、父の袖をつかんだ。
「とと、みた?」
「見た」
父は屈んで、リアの手の届く高さで一度止まった。
母が土間の戸口から庭を見ている。
「五本ね。明日からは、もう数を聞かないわ」
「はい」
母は夕餉の支度へ戻っていった。
――――――――――――――――――――
八十日目は薪を先に運んだ。坂の雪解けの水は、もう筋になって流れていない。
六本ずつ六度で、嵩は変わらない。写しは四つとも閉じて、三つ目にだけ震えが残る。
八十一日目は写しを先にした。三つ目の震えは前の日より短い。ゼドルは石板を上から順に見て、卓の端へ置く。棚へは戻さない。
八十二日目は裏手で薪の束を見た。残りは一束と半分だ。いちばん外の束も濡れていない。乾いた方から先に入れる決まりは今年もう使う場面がない。
三日とも、最後の一本は庭で兄が受けた。三本のうち、流されなかったのは一本だ。
三日とも右で拭いた。
三日とも塔で雷点の話は出ていない。右が戻るまで塔では出さない、と冬の初めに言われていた雷の魔法だ。
――――――――――――――――――――
八十三日目は写しを先にやった。
高窓から入る日の四角は床の中ほどにある。卓の足まではまだ来ていない。塔の中は日が入っているあいだだけ寒さが薄くて、竈の火は今日も小さい。
四つ写した。三つ目の震えは指の腹の幅より短くなっている。
「三つ目の震えは短くなっています」
ゼドルは石板を上から順に見た。
「なら写しだ」
ゼドルは石板を卓の端へ置く。
薪は写しのあとにした。六本ずつ六度だ。六度目を竈の脇へ置いてから卓の脇へ戻る。
ゼドルは薪を見ない。アシュの右の手を見ている。袖の内側に薪の皮の擦れた跡が付いていて、左と同じ濃さになった。
ゼドルは腰掛けから立った。外套は背に掛かったままだ。着ずに扉の方へ歩く。
「出てこい。多く出す方をやる」
アシュは卓の脇を離れて、後に続いた。
石塀の内は日が当たっている。雪はもうどこにも残っていない。土は上が乾いて、下は湿ったままだ。塀の際に去年の落ち葉が寄っていて、その上に細い草が伸び始めている。塀の外の坂の方で鳥が鳴いていて、冬のあいだこの高さで鳴く鳥はいなかった。
ゼドルは足元の平たい石を拾って、五歩ほど先の乾いた土の上へ置いた。
「水を出せ」
「どれくらい送りますか」
「いつものように削るな。まず出してみろ」
アシュは石を見た。石は手のひら二つぶんの大きさで上が平らだ。乾いていて、色が薄い。
「どこへ当てるか、先に言え。それから出せ」
「あの石へ当てます」
詠唱に手は要らない。右手は下ろしたままでいい。
「ヴァッサークア、フルーミア――ヴァクナ・リンド・ヘンドル」
水の線が閉じた。
閉じてから中が満ちるまでに間がある。毎日そこで送る量を直してきた。今日は直さない。
送る。削らずに送る。
線の外側が細かくほどけて、ほどけた分が横へ抜けていく。水になる前に消える分だ。毎日いちばん見ていた物が、今日は出したいだけ出ている。
水は石の上へ落ちた。落ちた分が石の面で跳ねて、跳ねた先が手前の土を濡らす。石の色が濃くなった。
アシュは濡れた土の形を見た。
石の手前に、指を広げたぶんの濡れが残っている。石の向こう側は乾いたままだ。届いた分は石の上に、跳ねて外れた分は手前の土の上にある。
ゼドルも石段の下から、濡れた石と手前の土を見ている。目は石から手前の濡れへ動いて、そこで止まった。
「散った分は」
「線の外側からほどけて、横へ抜けました。土には落ちていません。消えました」
この人に見えているのは濡れた石と濡れた土までだ。ほどけた分はこの人の目に入らない。散る分は見えん、と冬にこの塔で言われている。
削らずに出したのは、六つで椀から溢れさせた時と、一昨年の冬の宿場と、あの夜の三度だけだ。わざと多く送ったのは、十七日前に石段で水を先に太くした一度しかない。
アシュはもう一度唱えた。二度目は送る量を少しだけ足した。
石の上で跳ねる高さが上がって、手前の濡れが広がる。ほどけて消える分も増えた。
三度目は足した分を戻した。跳ねが低くなって、跳ねた水は石の縁より先へ飛ばない。
四度目で石の向こう側が濡れた。多く送りすぎて、当てた先を越えている。
四度送ったところで、指の先が重くなってきた。冬に石段で十五度唱えた日ほどではない。息もまだ浅くない。
「散った分は」
「越した時がいちばん多くほどけました。四度とも、土には落ちずに消えています」
「散った先が言えるなら、それでいい」
ゼドルは石段へ腰を下ろした。腰を下ろしてからも石は見ない。アシュの右の手を見ている。
「風でもやれ」
アシュは石の方へ向き直った。
「テンペシュトゥルム、ヴェンティラ――スケラ・エッグ・アイン」
風の線が閉じた。
水と違って、閉じたところにはもう中身が入っている。直す間がない。送った分は言い終える前に走っていく。
削らずに送った。
刃は石の面を横に払って、石の上の落ち葉を一枚だけ塀の方へ飛ばした。刃にならなかった分が線の外側からほどけて、ほどけた分が塀の際の草を撫でていく。草は倒れて、倒れたまま戻らない。
風を一度送っただけで、水を四度送った時よりも指の先が重くなった。
「散った分は」
「刃にならなかった分が、塀の際の草を倒しました。三株です」
ゼドルは塀の際へ目をやった。倒れた草はこの人にも見える。草を倒したのが何だったかは見えない。
ほどけた分の行き先が見えたのは今日が初めてだ。いつもは消えるところまでしか見ていない。行き先を決めて出したので、ほどけた分にも行き先が付いた。
「雷点もやりますか」
「やらん」
「いつですか」
「まだだ」
答えるあいだも、この人の目はアシュの右の手から動かない。
アシュは唱えるのをやめて、両手を下ろした。
「三年は、もう始まっていますか。あの夜、ゼドルさんが使うのを見ました」
「見た分は数に入らん」
ゼドルは石段の縁を左右とも掴んでいる。冬にこの塔で同じ掴み方をしたのを見ている。あの日に、この人が雷を教えて利き手が戻らなかった子の名前を聞いた。ホルスト・タウベだ。
「多く出す稽古は今日からだ。三年はそこから数える」
「はい」
始まる日を決めたのはこの人で、数えるのはアシュになる。
「冬に答えてもらえなかったことがあります。あの人みたいになる者とならない者は、何が違うんですか」
ゼドルは石段の縁から手を離さない。
「今日は言う」
日の高さが石塀の切れ目のあたりまで下りてきた。石の上の水はもう乾いていて、手前の土だけが色を残している。
「あの子とお前では、出る量が違った」
アシュは石の方から目を戻した。
「器ですか」
「そうだ。器の大きい者ほど、余って腕へ入る分も大きい。あの子の方が多く出た。だから戻らんかった。お前は少なかった。だから戻った」
風が塀の内へ入ってきて、落ち葉の上の草が一度だけ倒れた。
「そう思っとる。確かめたわけではない」
ゼドルはそう続けた。
アシュは自分の右の手を見た。七十八日で戻った手だ。少なかったから戻った、とこの人は言っている。
「出る量は、比べていないんですか」
「比べとらん」
自分の器のことは、六つの時に聞いている。風刃が二回で限界なら金目と同じくらいだ、とこの人は見ていた。
ホルスト・タウベのことは、人づてに一度聞いただけだとこの人は冬に言った。青い目がどこに当てはまるかは分からん、とも言っている。散る分は、そもそもこの人の目に入らない。
アシュは石の手前の濡れた土を見た。さっき自分が外した分だ。外した分も、そこへ行くまでにほどけた分も、今日は自分の目で見ている。
「あの人にも多く出す稽古はさせましたか」
「させた。目の前でだ」
「それでも腕へ入りましたか」
「入った。あの子は稽古の時から量が多かった。儂はそれを良い方に数えとった」
「僕とあの人が同じだと思ったのはなぜですか」
「才だ。あの子は覚えが早かった。教えた形はその場で写した。お前も早い。儂はそれだけを見とった」
「量が多いのを、危ないとは思わなかったんですか」
「思わんかった。よく出せる子だとしか見とらんかった」
ゼドルは石段の縁から手を離して、膝の上で一度握った。握った手はすぐに開く。
「僕にさせなかったのは、僕もあの人と同じになると思ったからですか」
「そうだ」
「今日やらせたのは」
「戻ったからだ。お前の手は戻る手だと分かった」
言い終えてから、ゼドルはアシュの右の手から目を離した。
ゼドルは石段から立ち上がった。立ち上がってから五歩先の石の方へ歩いていく。歩いて、石を拾い上げた。
「今日はここまでにする」
「はい」
「明日から、薪と写しのあとにこれをやれ。石は儂が置く」
「僕が置くのではないんですか」
「当てる所は自分で選ぶな。儂が決めた所へ当てろ。その方があの夜に近い」
あの夜の四匹目は兄とガイの前へ来た。来た所へ出した。先を選んではいない。
「はい」
ゼドルは石を持ったまま扉の方へ歩き出した。扉の手前で足を止めて、振り返らずに言う。
「儂が置いた先を外したら、外した分がどこへ行ったかを言え。濡れた土は儂にも見える。形にならずに散った分は見えん。そっちも見落とすな」
返事をする前に扉が閉まった。閉まった扉の内から、薪をくべる音が一度だけした。
アシュは石塀の内に残った。土の濡れた形は四度ぶんが重なって一つになっている。重なった端の方から先に乾いていく。
塀の際の草は倒れたままだ。倒れた三株の向こうに、さっき飛ばした落ち葉が一枚だけ土の上に乗っている。日が塀の切れ目の高さまで下りて、落ち葉の影が坂の方へ長く伸びていた。
明日はゼドルが石を置く。
右手を上げた。指を曲げる。曲げてから字を書くときの寄せ方にして、そのまま十まで数えた。開かない。
開かない手を下ろして、息を入れる。
「ほどけた分が当たったのは、塀際の草三株です」
誰も聞いていない。それでも声に出して言った。散った分も見落とすな、と言われたのは今日だ。
明日からは、言う相手が石段の上にいる。




