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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
開く扉と、新しい風

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第十話

 屋根の雪が滑る音がした。


 滑った先は庭だ。落ちた分が土の上で崩れて、崩れた縁から黒い土が出る。庭に残っている雪は薪の台の脇のひと固まりだけになった。果樹の根のまわりはもう土で、去年の落ち葉が濡れて張りついている。

 右手が動かなくなったあの夜から、今日で七十八日になる。


 アシュは縁側から土間へ回った。

 竈(かまど)の火はもう起きている。鍋の湯気は土間の低い所で止まらずに上がっていく。冬のあいだは低い所で一度止まってから上がっていた。

 水瓶の脇の桶には昨日汲んだ分が残っている。縁に氷は無い。指で押して割る用が無くなったのは五日前からだ。

 右手で柄杓(ひしゃく)の柄を掴む。指が柄を回って裏まで届いて、掴んだまま持ち上がる。水瓶から鍋へ三杯移した。

 三杯とも右手で上がるようになったのは十五日前だ。今朝は四杯目も上がる。


 母は繕い台の前から動かない。動かないまま横目でこちらを見た。


「何杯まで数えるの」


「今日で終いにします」


「そう」


 母は針を止めない。裏の薪はまだ一束と半分ある。冬に入った頃は二日で一束と少し減っていた。この頃は三日で一束に届かない。竈(かまど)へ足す回数がその分だけ減っている。


「今年は買い足さずに済むわね」


 母は糸を歯で切ってから、卓の方を顎で示した。

 父が卓についていた。


「右手を見せろ」


 アシュは右手を卓へ載せた。

 指を曲げる。曲げてから字を書くときの指の寄せ方にしていく。親指と人差し指と中指が一つの所へ寄る。寄ったところで止まって、開かない。

 十まで数えても開かない。父はそのあいだ指から目を離さない。


「そうか」


 父は椀を置いた。


「夕方に振ってみろ」


「はい」


 アシュは寄せていた指をほどいて、右手を卓から下ろした。

 秋にもらった許しは三つある。庭で振ること、父が見ている時だけ振ること、人にも獣にも向けないこと。あの夜のあと、この三つは言い直されていない。振れる右の手が無かっただけだ。


 表の戸が開いて兄が入ってきた。手桶を提げている。左の膝は曲がるところで一度止まって、止まってから土間へ下りた。


「今日、振ります」


「拭いてからだぞ」


 右で拭けるまでは振らせない、と冬の初めに兄は言った。


「はい。帰ったら拭きます。見てもらえますか」


「昼で上がる。詰所に言っとく」


「膝はどうですか」


「変わんねえよ」


 あの夜に牙が入った傷は、もうふさがっている。残ったのは跡の突っ張りで、膝は曲がるところで一度止まる。その止まり方が、ふさがった日から変わらない。止まる間が長くなってもいないし、短くもなっていない。

 膝も右手もあの夜から同じ日数が経っている。戻ったのは右手だけだ。


 兄は手桶の分を水瓶(みずがめ)へ空けた。空けてから掛け棒の下を一度見る。いちばん上に木剣、その下の受けに鉄剣が掛かっている。昨夜もアシュが左で拭いた。


 リアが寝間の方から出てきて、卓の脚につかまった。つかまってから父の方へ手を伸ばす。


「とと、いく?」


「行く」


 父は屈んで、リアの手の届く高さで一度止まってから出ていった。



――――――――――――――――――――



 路地の雪はほとんど残っていない。


 残っているのは家と家のあいだの日の当たらない所だ。そこも下が水になっている。踏むと靴の底が沈んで、抜くときに音が出る。冬のあいだは踏んだ形が固いまま次の日まで残った。今は踏んだ形の底へ水が寄ってくる。

 広場は井戸のまわりから土が出ている。均(なら)した所とその外の区別が付かない。井戸の縁の石は上も横も黒い。釣瓶(つるべ)の縄は濡れていて、巻いた分が下へ垂れている。

 十字路の側も見た。坂から引きずり下ろした跡は雪といっしょに無くなって、代わりに水の通った筋が上から下へ何本か走っている。筋の底には去年の落ち葉と小石が残っていた。


 詰所の裏へ回った。

 庭の縁に寄せてあった雪は低くなって、裾の方から順に土へ変わっている。真ん中はぬかるんでいて、足を置くと沈んだ所へ水が寄る。ガイの立つ場所だけ土が押されて平らだ。


 ガイが鉄剣を胸の高さまで上げた。上げてから振り下ろす。十本目だ。

 風を切る音が一つ。剣の向きのまま真っ直ぐ振り下ろせた時に立つ、細く高い音だ。

 板戸の内側にフェイが立っている。中から見ているだけで動かない。


「十」


 アシュが数えると、板戸の内から声がした。


「切れたか」


 ガイが板戸の方へ答えた。


「十本とも切れてる」


 板戸が閉まった。今日の十本はこれで終いだ。ガイは剣を下ろして、剣先を土に着けた。


「夕方に振る」


 ガイは振り向いた。


「八十日って言ってなかったか」


「今日で七十八日。手はもう大丈夫」


「早えじゃねえか」


 ガイは鉄剣を横へ出した。柄をアシュの方へ向けている。


「持ってみろよ」


 冬の初めに同じことを言われている。あの時は左手でも持てないと断った。落とすと言った。

 今日は雪が退いて、庭の土が出ている。落とせば剣の先が土を噛む。


 それでも、アシュは右手を出した。

 柄を掴む。掴んだところで剣の先の重さが来て、手首が下がる。下がった分を肘で戻して、それから左手を添えた。


「重い。左を添えないと下がる」


「鉄だからな」


 ガイは受け取って提げ直した。提げた側の肩が下がる。


「俺の最初の日は十本だったぞ」


「本数は父さんが決める」


 ガイは井戸の縁に立てかけてあった短い方の木剣を取って、左の脇へ挟んだ。


「明日からはお前も振れよ。もう数えなくていい」


「木剣を持ってくる」


 アシュの木剣は家の掛け棒のいちばん上に掛かっている。


「忘れんなよ」


 ガイは木剣を脇に挟んだまま板戸の方へ歩いていって、中へ入った。板戸が閉まった。

 アシュは庭の縁に残った。庭の真ん中は踏まれて水が浮いていて、その脇に自分の靴の形が二つある。冬のあいだ立っていた所だ。二つとも縁が崩れて、形の中まで土が入ってきている。

 数える側は今日で終わった。



――――――――――――――――――――



 坂は上りきるまでに二度足が沈んだ。


 雪の下にあった土が出て、出た所が水を含んでいる。爪先を入れると靴の先から沈む。踵から置いて、乾いている所を選んで上る。上り方を変えたのは三日前からだ。

 坂の途中で町を見た。屋根の雪はどれも落ちている。街道口まで見えて、その先の畑の縁が黒い。あの夜の大牙(おおきば)を焼いた跡はもう見分けが付かない。畑の低い所に水が溜まっていて、日の当たる側だけが光っている。

 冬のあいだ、この刻限で坂の下り口まで日が届く日は無かった。今日は塀の切れ目から下り口まで日が途切れずに乗っている。

 石塀の切れ目の手前で、扉の脇の壁が薄く光った。人が来ると一度だけ光る来訪者術式だ。


 裏手へ回った。

 薪の束に雪は乗っていない。いちばん外の束は上だけ濡れていて、内側は乾いている。乾いた方から先に入れる。

 裏手の隅の桶はまだ伏せたままだ。伏せた底に乗っていた雪はもう無い。夏はこれを起こして水を張り、薬草を洗う。洗う物が出るまではこのままだ。

 石段の脇の筵(むしろ)はまだ丸めて壁へ立ててある。薬草を干すのに広げるのは夏で、干す物も今は無い。

 左の腕へ四本載せた。載せてから右手で二本を掴む。

 六本になる。六度で終わる。


 塔の中は外より寒い。竈(かまど)の火はまだ小さい。この人が足す火で、アシュの薪はその脇に積まれていくだけだ。

 六度目を竈(かまど)の脇へ置いた。


「何本持てた」


「六本です」


 ゼドルは薪を見ない。アシュの右の手を見ている。


「今日で七十八日です」


 ゼドルは腰掛けから立った。立って棚の方へ歩いて、いちばん手前の石板を取る。

 秋に印を写していた一枚だ。あの日に四つとも閉じて、閉じたまま置いてあった。


「写せ」


 石板は卓の上へ置かれた。

 アシュは右手を石板の上へ回した。

 線を引く。引き始めた所から先へ、指が止まらずに動く。冬のあいだ、この手は柄杓(ひしゃく)の柄を回って落とすところまでしか行かなかった。

 一つ目を閉じた。二つ目も閉じる。三つ目は途中で線が震えた。指の先が細かく揺れて、線が真っ直ぐ進まない。それでも線を始まりまで戻して閉じた。四つ目も閉じる。


「三つ目だけ、線が震えました」


 ゼドルは石板を上から順に見ていった。三つ目のところで目が一度止まる。


「閉じとる。なら写しだ」


 ゼドルは石板を卓の端へ置いて、棚へは戻さない。


 四日で動く。二十日で持てる。五十日で握れる。剣は八十。あの朝、この人はそう言っている。四日は来た。二十日は柄杓(ひしゃく)の一杯で来た。五十日は握った手が開かなくなった日だ。剣の八十日にはまだ二日ある。夕方には、振れるかどうか分かる。


「父さんに、夕方振ってみろと言われました」


「そうか」


 そうならん者もおる、とこの人はあの朝に言った。その一言は数のあとに聞いている。今日はそれを言わない。


「明日から写しだ。薪の前でも後でもいい」


「はい」


「今日は写しまでにしとけ」


 言われた通りにする。今日は石段で水を保つ稽古も無い。

 呼びかけまでです、と答えた日から十二日になる。そのあいだ稽古は毎日あった。今は幅の言葉の一語目までなら、水を落とさずに保てる。二語目まで届いた日はそのうちの一日しかない。句の終わりまでは、まだ一度も届いていない。

 右が戻るまでこの塔で雷は出さない、とこの人は冬の初めに言った。その右は、写しができるところまで今日戻った。この人はそれを知っていて、今日はここまでだと言っている。

 アシュは石板の三つ目の、震えた線を見た。震えた線は自分の手から出ている。真似ではない。


「帰ります」


「ああ」


 扉を右手で押した。押しきれる。



――――――――――――――――――――



 日はまだ薪の台の上にある。


 冬のあいだは夕餉(ゆうげ)の支度に入る前にもう落ちかけていた。今日は庭の半分にまだ日が当たっている。土の乾いた所と濡れた所が、日の当たる側と当たらない側で分かれて見える。


 アシュは筵(むしろ)を縁側へ敷いた。

 掛け棒の受けから鉄剣を取る。取ったのは右手だ。片手で届く高さに掛け直したのは秋のうちで、冬のあいだは左手で取っていた。

 筵(むしろ)の上へ横に置いて、布を右手に持つ。

 鞘を端から端まで一度だけ拭く。手が動きだしてから止まるまでが、左手でやっていた時より短い。運びは冬のあいだ左手でやってきたのと同じで、途中で一度だけ速さが変わった。

 抜いて、刃の腹を根元から先へ一度なでる。裏も同じにする。布の端は縁に引っかからない。

 冬の初めの夜は、兄が柄を持って刃を返した。布を動かしたのはアシュの左手で、柄は兄の手にあった。

 今日は左手で柄を持ち、右手で布を動かす。兄に刃を返してもらう必要はない。


 兄は縁側の柱に背を預けて見ていた。


「拭けたな」


「はい。振るのも、見てもらえますか」


「見てるよ。行ってこい」


 兄はそれ以上足さない。足さないまま柱から背を離して、庭の方へ顎をやった。


 父は縁側の端に座っている。座ったまま庭を向いていて、手は膝の上だ。


 アシュは鞘へ戻して、鉄剣を提げて縁側を下りかけた。


「木剣にしろ」


 父が庭を向いたまま言った。


「はい」


 鉄剣を受けへ掛け直して、いちばん上の木剣を右手で取って、庭へ下りた。

 土は上がぬかるんでいて、下は固い。踏んだ所が沈んで、沈んだ分だけ足の裏が止まる。滑る所は無い。

 足を開いた。右手で柄を握って、左手を添える。


 上げた。

 肘をたたんでから上げて、上げた所で止まらずに振る。


 風を切る音がした。


 音は庭の端まで行かずに消えた。右の手のひらがしびれている。しびれは肘の手前で止まって、そこから上へは来ない。あの夜から肘の先にあった、触ると左より遅れて分かる遠さとは別の物だ。持った物の重さが手に残っているだけになる。


 二本目も音が出た。三本目も出る。四本目は音が短くて、振り切った先で肘が下がった。

 五本目を上げようとして、右の腕が肩の高さで止まった。肩から先へ力を送っても、そこより上へ行かない。木剣を上へ引いているのは左手だけになる。

 冬のあいだ、右の腕は柄杓(ひしゃく)と薪より重い物を上げていない。上げるための力が、腕にまだ戻っていない。


「そこまでだ」


 父が言った。

 アシュは木剣を下ろした。下ろす途中で右の腕が細かく震える。


「しばらくは木剣だ。前と同じに振れたら鉄に戻す」


「はい」


 剣は八十日と言われていた。木剣でも、振れたのは七十八日目だ。二日早い。


 兄は縁側から下りてこなかった。下りてこないまま、庭の土に付いた足の跡を見ている。


「……振れたな」


「五本目で腕が上がりませんでした」


「見てた」


 兄は笑わない。笑わないまま、指の先で自分の左の膝を一度叩いた。


「明日は俺が受けてやる」


「はい」


 兄は土間へ入っていった。入る前に掛け棒の下を見ない。冬のあいだは毎晩そこで足が止まっていた。


 母が土間から出てきた。


「何本振れたの」


「四本です。五本目は肩から上へ行きませんでした」


「今日はそこまでね」


「はい」


 母は掛け棒の鉄剣を一度見て、土間へ戻っていった。

 リアは縁側の内で筵(むしろ)の端を引っぱっている。引っぱった分は動かない。動かないので二度目は引かない。


 アシュは筵(むしろ)の上の布を右手で取って、畳んだ。

 木剣を掛け棒のいちばん上へ戻す。右の腕は肩の高さで一度止まって、そこから先は左手で押し上げた。掛けてから手を下ろした。

 日は薪の台の向こうへ落ちて、庭の土から冷えが上がってきている。

 右の指の先に来た。

 左と同じ時に来る。


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