第九話
雫が石段の端から落ちた。
落ちた先は下の段だ。濡れた所だけが黒くなって、黒いまま広がらずに止まっている。塔の扉の前の石段は三段ある。いちばん上の段に乗った雪が、昼のあいだだけ端から溶けて下の段へ落ちる。日が石塀の切れ目より低くなると落ちるのをやめて、やめたあとは濡れた所が凍る。
濡れて凍るのを毎日繰り返している段は、縁の角が丸い。雪が降り始めた頃、この段は昼も凍ったままだった。
右手が動かなくなったあの夜から、今日で六十五日目になる。
坂も変わっている。
上ってくるあいだ、爪先を雪へ食い込ませる歩き方が要らなかった。踏んだ所が昼のうちに緩んで、緩んだ面が靴の底の形に沈む。沈んだまま夜に凍って、朝はその形が硬い。初雪の日に三度で覚えた歩き方は、上りではもう使わない。
坂の途中で町の方も見た。街道口まで見える。
日はまだ石塀の切れ目の高さにある。雪が降り始めた頃は、この刻限で坂の半分から下が影になっていた。今日は坂の半分より下まで日が届いて、下り口の手前で止まっている。
裏手へ回った。
薪の束にかぶった雪は、いちばん上だけが硬い。一度溶けてから凍った分だ。濡れた外の束を避けて、内側の乾いた方から抜く。
左の腕へ四本載せた。載せてから右で二本を掴む。
六本になる。
右で二本持てたのは今日が初めてだ。四十日前は一本で、二本にすると手のひらが開いた。
六本ずつなら六度で終わる。右手が利かなくなる前と同じ数になる。
塔の中は寒い。竈の火は小さいままで、足すのはゼドルだ。アシュは脇へ積むだけになっている。
六度目を竈の脇へ置いた。
「何本持てた」
「六本です。右で二本持てました」
ゼドルは薪を見ない。アシュの右の手を見ている。
「怪我をする前と同じ六度で済みました」
六度には返事が無かった。目はまだ右の手にある。
「柄杓は持てたか」
「朝は三杯とも上がりました。字はまだです」
ゼドルは腰掛けから立った。外套は背に掛けたまま、扉の方へ歩く。
「写しは手が戻ってからだ。手の要らん方をやる」
扉を押して外へ出た。アシュも続いた。
石段の端から、また雫が落ちる。落ちた先は真下の段だ。上の段で溶けた分は、どれも真っすぐ下へ落ちて、真下の段だけを黒くしている。
ゼドルは石段を下りて、切れ目から外れた塀の方を向いた。扉と塀のあいだの平らな所は、真ん中だけ雪が薄い。低い塀の上にも、雪が細く乗っている。
アシュは石段のいちばん下に立った。
ゼドルは塀の上の雪を見て、石段の脇を見て、それから自分の一歩前の宙を一度だけ見上げた。
「ヴァッサークア、フルーミア――ヴァクナ・リンド・ヘンドル」
水の線が閉じた。ゼドルの一歩前、塀から二歩手前の、ゼドルの頭より少し高い所だ。
閉じてから中が満ちていく。満ちきれば水になって落ちる。落ちる先は、その真下の雪の薄い所になる。
満ちきっても、水は落ちなかった。
線は閉じたまま宙にあって、中は満ちたまま止まっている。縁から散る分は、糸ほどしか無い。
「テンペシュトゥルム、ヴェンティラ――」
二つ目の句が続く。幅を広げる方の言葉だ。
この人の口はもう風の句を言っている。それでも宙の水の線は、閉じた時の太さのまま動かない。
風の線が閉じた。
閉じたのは水の下ではない。アシュのすぐ脇、石段の端の、塀の上の雪より手のひら一つ高い所だ。広がった側が塀の方を向いている。水の落ちる筋とのあいだは三歩ほど空いていて、風はまだどこへも吹いていない。
水は宙に、風は石段の脇に、二つとも閉じたまま止まっている。
ゼドルは宙の水を見上げなかった。見ているのは塀の上の雪だ。
水が落ちた。
椀に二杯ほどの水が、ひとまとまりのまま真下へ落ちていく。アシュの目は、落ちる先の雪へ先に行った。
脇で風が放たれた。頬の横を、冷たい物が塀の方へ抜けていく。
水はまだ風の通る高さより上にあった。
風が三歩を渡っていくあいだに、水が落ちてくる。風が水の落ちる筋へ着いたのと、水が風の通る高さへ来たのが同じだった。
真下へ落ちていた水が、そこで真横へ折れる。折れた水は塀へ向かって飛び、塀の上の雪に触れずに越えて、向こう側へ抜けた。
塀の向こうで、雪を打つ音が一度した。
アシュは塀まで歩いた。
上の雪は乱れていない。向こう側には、塀から三歩ほど先に横長の窪みが一つだけある。窪みと塀のあいだには、何の跡もない。
戻って、真下の雪を見た。
雪の薄い所は濡れていない。落ちるはずだった所に、一滴の跡もない。
風が放たれたのは、水がまだ風の通る高さより上にある時だった。風が三歩を渡る分だけ、先に放っている。早ければ、水がまだ上にあるうちに風が筋を通り過ぎる。遅ければ、水は風の通る高さより下へ落ちてしまう。
そのあいだ、この人の目はずっと落ちる水にあった。石段の脇の風の線の方は、一度も見ていない。この人には見えないからだ。
「水が、曲がりました」
「曲げた」
ゼドルの息は少しも上がっていない。
「宿場で、オルトさんの火も飛んでいきました」
「あれは火の術が飛ばしとる。飛ぶところまでで一つの術だ」
「水刃も飛びます」
「あれも、水の術の中に向きが入っとる。今の水には、ここに出ろとしか言うとらん」
ここに出ろと言われた水は、出た所から真下へ落ちる。石段の雫と同じだ。
「今の水は、風で曲がりました」
「そうだ。水を出す場所と、風を当てる場所を別に決めた」
「曲げる高さは、どうやって決めたんですか」
「塀の上の雪より、手のひら一つ上だ。そこで折れば、塀を越える」
「風の線は、ずっと石段の脇にありました。ゼドルさんは水しか見ていませんでした」
「風は見えん。置いた所を覚えとる。水は落ちれば、誰にでも見える」
見えない風を、覚えた所に置いたまま待たせていた。見える水の落ち方を目で追って、風が三歩を渡る分だけ先に放した。
アシュには二つとも見えていた。見えていても、あの拍子で放せるとは思えない。
自分の水は、満ちたら出すしかない。満ちるまでのあいだに送る量を直すことはあっても、満ちたものを出さずに置いておいたことは一度もない。
「風の句を言っているあいだも、水は落ちずに残っていました」
「保っとった。保っとるあいだも呼び水は減る。二つ目に気が行けば、一つ目は崩れる」
「どれだけ保てますか」
「呼び水が尽きるまでだ。だが、今のお前は二つ目を唱え終えるまで保てればいい」
六つの時に攫われて、連れていかれた先の沢で、この人の二重詠唱を一度見ている。あの時、相手の男の一人が「声が一つしかなかった」と言った。聞こえたのは水の句だけで、それなのに風まで動いていた。
風の句は、木立の中で先に唱えてあったのだと思う。唱えて、出さずに保ったまま歩いてきた。
「やってみてもいいですか」
「今日はやるな」
理由は言われなかった。言われなくても、去年の冬にこの人から聞いている。手本を見た日にやってみると、手本の真似になる。真似た物は自分から出ていないので、要る時に出てこない。
あの夜、大牙へ打った雷は要る時に出ている。出たのはこの人が先に打った雷を真似た物で、先は合っていた。多く出た分の行き先だけが無かった。
行き先の無い余りは、いちばん近くへ来る。近くにいたのは自分だった。
「明日だ。石塀の内でやれ。扉は開けとけ」
「はい」
ゼドルは塀の外の雪をもう一度見てから、扉の方へ戻った。戻る足は、来た時と同じ速さだった。
――――――――――――――――――――
翌日は薪を先に運んだ。
六本ずつ六度。数はゼドルに言った。言ってから外へ出た。
石段の雫は今日も真下へ落ちている。塀の外の雪には、昨日の窪みがまだ一つ残っていた。夜のあいだに凍って、窪みの縁だけが硬い。
石段のいちばん下に立った。
詠唱に手は要らない。右手は下ろしたままでいい。
曲げるのは、保てるようになってからだ。今日は水を保ったまま、風の句を最後まで言う。言い終えるまで水が落ちなければいい。風は塀の方へ吹かせるだけで、水には当てない。
水を出す所は、昨日この人が出した所に決めた。塀から二歩手前の、ゼドルの頭より少し高い所だ。
昨日この人は、唱える前に三つの所を見た。塀の上の雪と、石段の脇と、水を置く宙だ。アシュは水を置く所だけを見た。今日使うのは、そのうちの一つになる。
「ヴァッサークア、フルーミア――ヴァクナ・リンド・ヘンドル」
水の線が閉じた。
閉じてから中が満ちるまでに間がある。いつもはその間に椀の縁を見て送る量を直し、満ちたら出す。
今日は出さない。満ちたところで保つ。
保っていると、線の中へ寄ってくる分がまだ止まらない。止めないと太くなる。太くならない所で送るのをやめた。やめても線は消えない。消えないまま、保っている分だけ呼び水が細く減っていく。
減るのはそれだけではなかった。満ちた線の縁から、細かい分が外へ散っている。止めたつもりの分が止まりきらずに、行き先の無いまま縁を越えて、水になる前に消えていく。昨日のこの人の線から散っていたのは糸ほどで、自分の線はその何倍も散っている。
一度目から、指の先が少し重い。
「テンペシュトゥルム、ヴェン――」
水が落ちた。
句の途中で、満ちた線がほどけて水になる。真下の雪の薄い所へ落ちて、そこだけが黒くなった。
言いかけた風の句は、そこで止めた。
二度目は「ヴェンティラ」まで言えた。そこで落ちた。
三度目は幅の言葉に入ってから落ちた。
落ちるのはいつも、口が風の句の先へ進んだ時だ。一語ぶん進むたびに、保っていたはずの所がどこかで緩む。
開けたままの扉から、ゼドルが出てきた。
石段の上に立っている。外套は今日も着ていない。
雪の薄い所には、黒い跡が三つ並んでいる。三つとも、昨日この人の水が落ちるはずだった所だ。
「何度落とした」
「三度です。三度とも、風の句の途中で落ちました」
「一つ目を見ろ」
ゼドルはそれだけ言って、黒い跡の方へ顎を向けた。
「儂に見えるのは落ちた水だけだ。落ちる前に何が起きとるかは、お前の目にしか見えん」
四度目は、風の句を言いながら水の線を見た。
見てから、今まで見ていなかったと分かった。三度とも風の線ばかり見ていた。後から唱える風を見て、先に唱えた水を見ていない。
「テンペシュトゥルム」と言ったところで、満ちた水の線の塀の側の端がわずかに下がった。「ヴェンティラ」で、下がった端がもう一段下がる。一語言うたびに線は傾いていって、傾ききった所でほどける。
四度目も落ちた。落ちる前に傾くのが、今度は見えていた。
五度目は、風の句のあいだ水の線だけを見た。
水は傾かない。傾かない代わりに、風の線が閉じきらないまま途中でほどけた。ほどけた分は細かく散って、風になる前に消える。
六度目は両方を見ようとした。見ようとしたところで、水の線の端がまた下がる。
七度目は風の句をゆっくり言った。一語ずつ確かめられる代わりに保っている時間が延びて、指の先が早く重くなる。傾き方は前と同じだった。
八度目で、指の先の重さが手首まで上がってくる。
九度目は速く言った。速く言えば、保つ時間は短くて済む。それでも幅の言葉に入ったところで水の線が傾いて、風の線が閉じる前に水は落ちた。急いだ分だけ幅の言葉も崩れて、遅れて閉じた風の線は細い。
十度目と十一度目は、水の線の端が下がり始めた所で風の句を止めた。止めれば水は傾いたまま保てる。保てても、句を言い終えなければ二重詠唱にはならない。
十二度目からは、言い始める前に水の線へ目を置いた。置いてから口を動かすと、「テンペシュトゥルム、ヴェンティラ」のあいだは傾かない。
十五度目で止めた。
十二度目のあたりから息が浅い。十五度目を言い終えた時には、視界の端の色がわずかに薄くなっていた。保っとるあいだも減る、と昨日この人が言ったとおりだ。そのうえ自分の線は、保っているあいだも縁から散っている。散った分だけ、この人より早く減る。
十二度目から先は、「テンペシュトゥルム、ヴェンティラ」までなら水は落ちない。幅の言葉に入ると傾いて、句を言い終える前にほどける。最後まで保てたのは、十五度のうち一度も無い。
「どこまで保てた」
ゼドルは石段の上から聞いた。
風の句は二つに分かれている。前の半分の「テンペシュトゥルム、ヴェンティラ」は、風の精霊を呼ぶ呼びかけだ。後ろの半分で、どれだけの幅で吹かせるかを言う。水が落ちずにいたのは、前の半分を言い終えるところまでだった。
「呼びかけまでです。幅の言葉に入ると、一つ目が傾いて落ちます」
「呼びかけまでか」
「はい」
「なら明日は、その先の一語だ」
幅の言葉の最初の一語を言い終えるまで、水を落とさずに保つ。明日やるのはそれだけになる。
「一語ずつですか」
「一語ずつだ。句の終わりまで保てたら、そこで初めて二重詠唱と言え」
風の句を最後まで言い終えて、それでも水が満ちたまま止まっている。そこまで来て、やっと二つを一緒に扱えたことになる。句の途中で水が落ちれば、水を出してから風を出したのと変わらない。
アシュは石段の下から見上げた。
昨日、この人は風の句を言うあいだ、宙の水を一度も見上げなかった。見上げたところで、この人には線が見えない。見えないまま、水を最後まで傾けずに保っていた。石段の脇に置いた風の線も、目で確かめずに覚えていた。四十年かけて、見なくても保てるようになっている。
自分には線が見える。見えるのに、最初の三度は風の線ばかり見て、傾いていく水の線を見ていなかった。
「僕は見えるのに、見ていませんでした」
「そうだろうな」
ゼドルは扉の枠へ手をかけた。
「後に唱える方には、誰でも気が行く。先に唱えた方から気を離さんのが稽古だ」
ゼドルは扉を押して中へ入った。
アシュは石段の下に残った。
指の先の重さは、まだ手首に残っている。息はもう浅くない。視界の端の色も戻っている。重さの方は、坂を下りきるまで残りそうだった。
塀の外の雪には、昨日の窪みが一つある。内側の雪の薄い所には、十五度ぶんの跡が重なって、一つの染みになっている。
石段の端から雫が落ちた。
落ちた先は、真下の段だ。




