第八話
「母さん、水は足りてるか」
「昨日の分で足りてるわ」
レインは外套の袖に腕を通しかけた手を止めて、水瓶の蓋を持ち上げた。中を覗いてから戻す。
昨日の夕方にこの子が二度汲んでいる。水瓶の中は凍らないが、桶に残した分は縁から薄く氷が張る。指で押せば割れる厚みだ。
竈の火はもう起こしてある。鍋の湯気が土間の低いところで一度止まって、それから上がっていく。
「今日は詰所」
「気をつけてね」
レインは外套に腕を通して出ていった。左の膝は曲がるところで一度止まる。止まってから先へ行くのもこの冬のあいだ変わっていない。
裏の薪はまだ半分ある。冬に入ってからは二日で一束と少し減る。買い足す話をするのはもう少し先でいい。
干した豆は次の乾いた分が一昨日の市場に出た。油は壺の肩まで。塩はまだ触っていない。どれも見に行かなくても分かる。量は覚えてあるので、覚えた日から減った分だけ引けばいい。
針は昨日から同じ一本を使っている。目の細い方だ。
繕い台に載っているのは三枚だ。ガルドの肌着と、レインの稽古着と、アシュの肌着。五日前まではここに隣の家の分が足してあった。ハンナが左の腕に布を巻いているあいだ、洗い物とほつれはミラが引き受けている。布は取れて、洗い物はもう返した。台の上は元の三枚に戻っている。
冬に入ってから繕う所は決まった場所ばかりになった。袖の内側と、肩の縫い目と、脇の下だ。厚着をして動く冬は同じ所ばかりが擦れる。
寝間の方からアシュが出てきて、卓の端に座った。左手で右の袖を上げてから右手を卓へ載せる。載せる順は、右手が動かなくなったあの夜から変わっていない。その夜からの日を、アシュは毎日数えている。
ガルドが土間で外套を掛け直しながら言った。
「握ってみろ」
アシュは指を曲げた。指の腹が手のひらに着く。着いたところで止まって、開かない。
開かないまま五つ数えて、それから自分で開いた。
「字は書けるか」
「まだです」
「そうか」
ミラは針を持つ手を止めない。止めずに横目で数える。五つで、自分で開いた。五日前は、字を書く指の形にしなければ開かなかった。
小さい。それでも開く方へ動いている。
「その外套、袖の内側がまた擦れてるわよ」
「薪を抱えると、そこに当たるんです」
「夜に脱いだら出しなさい。当てておくから」
「明日の朝も着ていきますけど、間に合いますか」
「間に合わせるわよ。だから今夜のうちに出すの」
アシュは袖を裏返して内側を見た。裏返すのは左で、押さえるのは右だ。押さえるだけなら右でもできる。
「今日は広場へ出る」
ガルドが言った。
「ネッケルが出るのよね」
「ああ。峠が雪で閉まってるから、南の町へ下りるそうだ。北の丘陵で並んで仕事をした相手だ。見送りくらいはする」
ネッケルは、冬の前にギルドがよそから呼んだ五人の組のリーダーだ。
ガルドはそれだけ言って、掛け棒の前で一度足を止めた。いちばん上にアシュの木剣、その下の受けに鉄剣が掛かっている。鞘は昨夜も拭いてある。拭いたのは左の手だ。
リアが卓の脚につかまって立ち上がった。立ってからガルドの方へ手を伸ばして指す。
「とと、いく?」
「行く」
ガルドは屈んでリアの手の届く高さで一度止まってから出ていった。
リアが「とと」と呼ぶようになってから、この人は一度も呼び直させていない。呼ばれるたびに、短く返事をする。
――――――――――――――――――――
広場の雪は井戸のまわりだけ均してある。
その外は踏まれた筋が何本か通っているだけだ。井戸の縁の石は上だけ黒い。水を汲む者の手が触れる所だけ雪が乗らないからだ。
ミラは籠をアシュに持たせて出た。左で持てる重さにしてある。
「塔へはいつ行くの」
「昼からです」
ハンナが釣瓶の縄を巻きながら振り向いた。
「ミラさん、洗い物ありがとうね」
「もういいのよ」
「上がるようになったのよ、これ」
ハンナは左の腕を肩の高さまで上げて、そこで止めた。止めた高さから先は上がらない。
「上がらない日が続いたら詰所へ来いって、バルトさんに言われたわ。布を取ってもらってからは行ってないけどね」
「行きなさいよ」
「跡は残るんだってさ。残ったって洗い物はできるんだから」
ハンナは自分の袖を引き下ろして腕を隠した。隠してから桶を持ち上げる。持ち上げるのは右だ。
井戸の向こうからライナが来た。ガルドと同じ組で前に出る人で、この家には断りなしに上がる。
「姉さん」
「早いのね」
「支部の前で荷をまとめてた。あっちのパーティ、今日出るよ」
「聞いたわ」
「ヒルデさんが荷を詰めてた。袋の物を一度出して、石板を先に入れてから入れ直してたよ」
「仕事は出てた?」
「見回りだけ。冬はこんなもんだよ」
ライナは井戸の縁へ手をかけて、市場通りの方を見ている。
「あんたも行くの、南へ」
「行かないよ。うちのパーティは、冬のあいだ町から出ないんだよ」
ハンナが桶を提げ直して横から言った。
「行かないでおくれよ」
「行かないってば」
その市場通りの側から人が出てきた。
四人だ。
先に立っているのが腰に片手剣を提げた男で、鞘の口に石が入っている。四十くらい。中装の留め具が左右で同じ高さに揃っている。次が黒い髪を短く切った女で、杖と、布に包んだ石板を同じ側へ持っている。三人目は痩せて手足の長い男だ。背に短弓、腰の前に筒の形をした魔道具。その上へ大盾を負っている。四人目は灰色がかった金の髪を布で包んだ女で、薬嚢を胸の前へ回して抱えている。
ガルドはいちばん後ろを歩いてきた。荷は持っていない。
「あんたの言ってた、壁を立てる人ってどれ」
ミラが聞くと、アシュは籠を持ち直した。
「あの黒い髪の人です。ヒルデさんです」
ミラは盾を見た。
人一人の胴が隠れる幅がある。負っている男の背より広い。背に回した革の留めが二か所とも結び直してあって、結び目の下に古い穴が一つずつ残っている。前に締めていた位置だ。穴と結び目のあいだは指二本ぶんほど空いている。
この男の背に合わせて詰めた分がそれだけあるということになる。
前にあの組が仕事へ出ていった朝、ミラは広場に出ていない。五人で行ったとはアシュから聞いている。
薬嚢の女が広場の端で足を止めて、袋の中から巻き布を出した。出した分を数えてから詰所の方から来たバルトへ渡す。ミラも数えた。六巻きある。
「この布は置いていきます」
「使わせてもらいます」
「これから使う人の所に置いていくことにしています」
バルトは受け取って、いちばん上の一巻きの端だけを見た。見てから懐へ入れる。
「あなたはこの町に残りますか」
「残ります」
女はそれで話を終えて、薬嚢の紐を締め直した。締め方は手が覚えているらしく、締めながら手元を見ていない。
黒い髪の女が井戸の手前で足を止めた。
止まった先にいるのはアシュだ。
「あなた」
アシュが顔を上げた。
「右の手はどうなりました」
「握れるようになりました」
「握ってください」
アシュは籠を雪の上へ置いて、右手を出した。指を曲げる。指の腹が手のひらに着いて、そこで止まる。開かない。
女は触らない。目だけを指の先から肘まで動かした。
「及第点です」
それだけ言って歩き出した。
礼を言う間もない。アシュは籠を持ち上げ直して、女の背中の方を見ている。
盾を負った男が井戸の脇を通るときに一度だけ足を止めた。止めて、盾の留めを肩の上で直す。直してからまた歩く。負った盾の上の縁は、井戸の縁より高い。
「ミラさん」
ライナが小さい声で言った。
「あれ、褒めたの」
「さあ」
「褒めたんだと思うけどね」
「うちの子の手に、あの人は値を付けたのよ。足りてるか、足りないか。それだけ言って行っちゃったでしょ」
値だけ言って何も買わずに出ていく客というのが店にはいる。あの言い方に近い。付けられた値に文句はない。今朝この家で同じ手を見ている。五つ数えるあいだ開かず、それから自分で開いた。
剣の男が広場の真ん中で止まった。ガルドがその横へ並ぶ。
「ヴァルド」
「ネッケル」
「本部から返事は来なかった」
「ああ」
「南へ下りる」
ネッケルはそれだけ言って、外套の前を合わせた。
「次に会うのは」
「また誰かに呼ばれた時だ」
ガルドは頷いた。頷いてから半歩下がって、道を空けた側に立つ。
「一つ聞く」
ネッケルが振り返らずに言った。
「あの子どもはあんたの家の者か」
「下の子だ」
「そうか。あの目は人に覚えられる。あんたの家なら大丈夫だろうが、気をつけろ」
「分かってる」
それで終わりだった。名前は出ていない。
ミラは袖口を引いた。引いたのは手が空いていると余計なことを言いそうだったからだ。
四人は広場を横切って、南の路地の方へ入っていった。ガルドがその後ろを、荷を持たずに付いていく。井戸のまわりの人は誰も声をかけない。かけないまま、四人が見えなくなるまで手を止めている。
雪の上に四人の跡が四筋。荷は四つ。盾は一つ。
あの盾の前の持ち主はブルーノという人だと、アシュから聞いている。来た時は五人で、出ていくのは四人だ。
「四人ですね」
アシュが言った。
「……そうね」
アシュはそれ以上言わない。籠を持ち直して、家の方へ体を向けた。
「籠を家に置いてきます。塔へはそれからです」
ミラは籠に手を出さなかった。左で持てる重さにしてあるのはこちらだ。持って帰るのはこの子の仕事にしてある。
――――――――――――――――――――
日の落ちるのが早い。
竈の横の光の付与石は、夕餉の支度に入る前から布を外してある。冬に入ってからは外す刻がだんだん早くなって、この頃は鍋を掛けるより先になった。
レインが詰所から戻って、水瓶へ二杯足した。足してから左の膝を一度曲げて、伸ばす。
「あの組、出てったんだって」
「見たわよ」
「ガイが言ってた。盾持ってた奴、副長より痩せてるって」
「そうね」
「あんなの背負って歩けんのかよ」
「広場を歩いていったわよ。盾を背に留める革を、指二本ぶん詰めて結び直してあったわ。前に締めてた所に、革の穴が残ってた」
レインは水瓶の蓋を戻す手を止めて、そこだけ聞き返した。
「詰めたって、前は誰が背負ってたんだよ」
「さあ。あたしが見たのは革の穴だけよ」
レインはそれ以上聞かなかった。聞かないまま竈の前へ回って、鍋の下の火を一度見ている。
ガルドが戸を開けて入ってきたのはそのあとだ。外套の肩に雪が乗っている。降り出したらしい。
「送ってきたの」
「路地の出口までだ」
ガルドは外套を掛けて、卓へついた。
「あの人たち、礼も何も言わなかったわね」
「向こうがこっちに礼を言う用はない」
「そう」
「こっちも言う用はない。仕事で来て、仕事で出ていっただけだ」
ミラは鍋から椀へ移す手を止めなかった。
貸し借りにならない払いというのが店にもある。取りに行けない分は帳面から落とす。落としたことは客に言わない。
「バルトさんに巻き布を六巻き渡してたわ」
「助かるな。ハンナの腕もまだ上がらんのか」
「肩の高さで止まるのよ。詰所へ行けって言われたのに行かないの」
「行かせろ」
「あたしが言って行く人なら、とっくに行ってるわよ」
アシュは筵を縁側へ敷いて、鉄剣を横へ置いた。布は左手だ。鞘を端から端まで一度だけ拭く。
「今日、爺さんは何て」
レインが聞いた。
「今日も薪だけです」
「変わんねえな」
「印を写す稽古は、右手が動くようになってからだそうです」
「それまで待たなくても、やらせりゃいいのにな」
「左手で覚えても、描くのは右手なので使わないそうです」
レインは肩をすくめただけでその先は言わなかった。塔でゼドルに習っている魔法の話を、レインは聞き返さない。
卓へ椀が四つ並んで、リアの分がその内側に一つ入る。ミラは五つ目に汁を少なく張った。熱いのを冷ますあいだ、この子は待たない。
「みら、あつい」
「冷めるまで待ちなさい」
「あつい」
「知ってるわ。だから待つのよ」
リアは椀の縁へ指を当てて、当てた指をすぐ引いた。引いてからもう一度当てる。二度目は引かない。
リアは自分の椀を押した。押してから、ガルドの方へ手を伸ばす。
「とと、もっと」
「まだあるぞ」
ガルドは自分の椀から豆を一匙すくって、リアの椀へ移した。リアはそれで満足して、匙を拳で握り直す。
「とと」と呼ぶようになって、今日で十七日になる。三つになった夜、新しい靴で土間に敷いた筵の上を三歩歩いて、ガルドの膝の前で出た音だ。去年の冬、ミラが屈んで「と、と」と二度言って見せた時は入らなかった。それから誰も教え直していない。
それからこの子は、一日に何度でも呼ぶ。呼ばれるたびに、この人は短く返す。十七日のあいだ、一度も笑っていない。
リアの足には、あの夜の靴が今も履いてある。筵の上でも外でも、寝間の板戸の前まで脱がない。爪先の指一本ぶんの余りは、十七日ではまだ埋まらない。
レインが自分の椀を空けて、二杯目を自分で張った。アシュは自分の椀を空けて、縁側の筵を巻いている。
ミラは卓の上を見た。
椀が並んでいる。四つと、その内側に小さいのが一つ。今朝、広場を横切っていった荷は四つだった。
この卓の椀は、今夜も五つある。
ミラは小さい椀に、汁を少しだけ足した。




