第七話
レインは板戸を肩で押して詰所の裏の庭へ入った。
昼を回ったばかりだ。日はもう魔道具屋の屋根の高さにある。雪が降る前なら、この刻限の日は屋根より上にあった。
庭の雪は縁へ寄せてある。寄せた雪の裾はもう崩れない。冬に入った頃は木剣の先が当たるだけで崩れて、崩れた下から黒い土が出た。今は蹴っても土が出てこない。下まで凍っている。
大牙が町へ入ったあの夜から、今日で五十日になる。数えているのは弟だ。毎朝、卓で今日が何日目かを言うので、こちらまで覚えてしまった。
夏の終わりに稽古へ混ぜてもらってからここへは通い続けている。木の棒しか使わせてもらえないのは初日から変わらない。今日も団の若い衆に付き合ってもらう日だ。
庭の真ん中にガイがいる。鉄剣を胸の高さまで上げて、そこから振り下ろした。十本目だ。
風を切る音が一つ。刃の向きのまま振り下ろせた時の、細く高い音だ。
板戸の内側にフェイが立っている。中から見ているだけで動かない。鉄を振っていいのはこの人が見ている時だけだという決まりになっている。
「十」
庭の縁で弟が言った。外套の前を左手で合わせて、右は下ろしている。
「十本とも切れてる」
ガイは剣を下ろした。剣先を雪に着けずに提げている。提げた側の肩が下がる。
板戸が閉まった。今日の十本はこれで終いだ。ガイは剣を提げたまま、閉まった板戸をしばらく見ている。
「レイン」
「おう」
「今日、ニコいるぞ」
ニコは庭の隅の井戸の側で団の棒を二本抱えていた。団の若い衆が打ち合いに使う木の棒で、鉄剣より軽い。細くて背だけ高いのは夏と変わらない。変わったのは手で、外套の袖から出ている所が赤くひび割れている。詰所のまわりの雪を掻くのは若い衆で、冬に入ってからニコの手はずっとこうだ。
「三日ぶりだな」
棒を抱えたままニコの方から言った。
「膝は治ってねえよ」
「聞いてねえよ、まだ」
ニコは笑って棒を一本投げてよこした。受け取ると握るところが冷たい。ニコが抱えていたのは先の方で、握りまでは温まっていない。
レインは左の膝を一度曲げた。曲がるところで一度止まる。止まってから先へ行く。大牙が町へ入ったあの夜、牙に裂かれた所はふさがってからずっとこれだ。
板戸がもう一度開いて副長が出てきた。
帳面は左手だ。右腕はあの夜に肩を痛めてから、下げたまま上がっていない。
「ニコ」
「はい」
「棒を持って、そこに立て」
「立つだけですか」
「立つだけだ。出るな」
ニコは残った一本を持ち直して、庭の真ん中から二歩外れた所に立った。棒の先を下げて、そのまま動かなくなる。
副長は帳面を板戸の内へ置いた。置いてから庭の縁へ寄る。
「来るまで待て。何をされても待て」
「当てられてもですか」
「当てられたなら遅いのはお前だ」
ニコは口の端だけ動かして黙った。
レインは棒を持ち直した。
夏の終わりに同じことをやられている。あの時は副長が間合いの外に立っていて、こちらはしばらく待って、待ちきれずに先に出た。出た先で棒が待っていた。
先に出す。出したくない物を先に出すんだ。
言われた言葉はそのまま覚えている。覚えているだけで体の方は一度もやっていない。
足を運んだ。半歩寄ってもニコは動かない。重心はそのままで、棒の先も下がったままだ。
寄った分だけ間合いが縮む。縮めたのはこちらで、ニコは一歩も動いていない。
待ちきれずに踏み込んで、棒を振り下ろした。
振り下ろす途中で、下がっていたニコの棒が跳ね上がる。こちらの手首の内側を打った。指が開いて、握っていた棒が雪の上へ落ちる。
「もう一度」
拾った。落ちた棒は雪を噛んでいて握るところだけ濡れている。
二度目も同じだった。
真っ直ぐ来る相手なら受けなくていい。待つ相手にはこちらから行くしかない。行けば行った先で待たれている。街道口でも路地でも来る物しか流していない。
流すのは、来た物にしか使えない。
三度目は棒の先だけを前へ出してみた。
振る動きにはしていない。振る前の高さで止めて、そこから半分だけ入れる。
ニコは動かない。目はこちらの棒を見ていて、足は雪の上に置いたままだ。
出したのは棒で、体はどこにも出していない。当たっても何も減らない物を出しても向こうは動かない。
「レイン」
副長が言った。
「棒だけ出しても、ニコは動かんぞ。左を前に置け」
左。
曲がるところで一度止まる方だ。
「……この膝を、ですか」
止まる方を前へ置けば、そこへ来る。来ると分かっている所へ悪い方を置くのは、来た物を引いて流す自分の型の反対だ。
出したくない物を先に出す。夏の終わりに言われたのは、いちばん打たれたくない所をわざと相手に見せろ、ということだったのかもしれない。
「怖いならやめとけ。やるなら、打ちに来たところで引くな」
返事をする前に、ニコの方が口を開いた。
「副長、悪い方を狙っていいんですか」
「もう待たんでいい。打てると思ったら打て。レインも、それを承知で立っとる」
ニコはこちらの膝を一度見た。見てから棒を握り直す。
「痛くても知らねえぞ」
「来いよ」
悪い方の膝を前に出して、構えた。
この膝は、一度止まってから、ぐっと前へ出る。ニコはそれを知っている。目がその膝に吸いついている。
レインは、踏み込むふりをした。
体だけを前へ傾ける。足は動かさない。
ニコが打ってきた。踏み込んでくるはずの膝を狙って、少し先を低く払う。
思わず引きかけた足を、こらえた。
膝はそこへ行かない。棒は膝の前の、何もない所を通り過ぎた。
空振りしたニコの肩が、がら空きになる。
レインはその肩へ棒を落として、当たる寸前で止めた。
狙わせるために出した膝だ。引かなかったのに、棒は当たらなかった。
「……踏み込んだと思った」
「肩だけな」
ニコは雪に残った足の跡を見た。一歩も動いていない。
庭の縁から声が来た。
「兄さん。足、動いてません」
「……ガイのを数えてたんじゃねえのか」
「数えてました」
弟は右を下ろしたまま立っていて、それ以上は言わない。
雪の上に足の跡が二つ残っている。右も左も、立った時の跡のままだ。横へは動いていない。
あの夜、路地でも同じ跡が残った。あの時も跡を見て、広場の日を思い出した。思い出しただけで、誰の歩き方かは声に出していない。
去年の秋、広場で同じ道を二度歩いて、二度目は先に肩を引いた。それでも謝ったのはこちらだ。
あの男は肩を引かなかった。歩幅も変わらない。ぶつかるはずの所に、あの男の肩は来なかった。
今のがそれだ。
ロートス。名前は詰まらずに出てくる。去年の秋に町へ来て、広場で子どもに飴を配っていた男だ。
自分で覚えようとしてきたことを、いちばん嫌いな男が先にやっていた。
言わなかった。言う相手もいない。
あの男の歩き方なら、去年からずっと覚えている。
「もう一度」
副長が言った。
もう一度やった。
踏み込むふりをする。ニコの棒がさっきと同じ低さで来る。さっきより近く見えた。今度こそ当たる、と思った時には、膝を引いていた。
棒はまた空を切る。だが引いた分だけ体が後ろに残って、こちらの棒が遅れた。そのあいだにニコが棒を返してくる。肩を打たれた。当たった所が熱を持つ。
「引いたな」
「引きました」
「引かんかった方を覚えとけ」
副長は板戸の内から帳面を取って、開かずに脇へ挟んだ。
「今日はそれでいい」
副長は庭の縁の雪を靴の先で一度つついた。凍った裾は崩れない。
言い方は夏の終わりと同じだ。同じなのに中身が入れ替わっている。あの日は、できないと分かったのが今日の分だと言われた。
「副長」
「なんだ」
「今の誘い、人にしか使えませんか」
「獣は待たん」
「はい」
「獣に誘いは要らん。誘うのは、待っとる相手の時だけだ」
「はい」
「市場通りの西の端の当番は、増やさないんですか」
「今は二人だ」
「増やすかどうかを聞いてます」
「それは団長が決める」
それだけ言って副長は中へ入っていった。増やすとも増やさないとも言っていない。市場通りへ二匹が入った日から、雪が二度降っている。あの日に立っていたニコは、見えませんでしたと自分から言った。言った相手は団長で、その先は子どもが聞く話ではない。
ニコが棒を拾い集めながら言った。
「なあ。さっきの踏み込むふり、俺にもできるか」
「分からん」
「言い方まで副長に似てきたな、お前」
ニコは笑って、棒を脇に抱え直した。
ガイが井戸の縁に腰を下ろしてこちらを見ていた。鉄剣は膝の上で横にしてある。
「レイン。今の、悪い方の膝を前に出してたろ。痛えだろ」
「痛え」
「なんでわざわざ痛え方を前に出すんだよ」
「そっちを狙わせるためだ。出さねえと、ニコは打ってこねえ」
ガイは自分の右の肘を見て、それから剣の柄を握り直した。
「うちの親父も似たようなこと言ってた」
「なんて」
「受けは来たのを止めるだけだ、って。振るのは自分で決めて出す、って」
ガイはそこで切って剣を提げて立った。
「俺は、まだ受ける方だ」
「受けはできてんだろ」
「できてねえよ。鉄だと受けた時に足が後ろへ下がる」
弟が庭の縁から動かずに言った。
「振った時は、今日は十本とも下がってない」
「振る時はな。受けると下がるんだよ」
ガイは笑わずに息だけ吐いて、井戸の縁に立てかけてあった木剣を取った。
短い方の木剣を左の脇へ挟んで、鉄剣は右に提げた。右と左の高さが揃わないまま板戸の方へ歩いていく。
――――――――――――――――――――
母の使いで市場通りへ回った。
台は三つしか出ていない。青菜はもう無い。並んでいるのはかぶと、干した豆だ。ヨナスの台の前だけ雪が均してあって、その先は踏まれた凸凹のままだ。
あの夜に割れた台の分だけ、列は短いままだ。
「豆は今日の分で終いだよ」
ヨナスが籠の底を叩いて言った。手の甲が赤い。
「明日は出るのか」
「明日は出ねえ。次の乾いた分は三日後だ」
量って藁で括るあいだ、ヨナスは通りの西の端の方を一度見た。当番の二人が立っている所だ。二人とも通りの側を向いている。
「あそこ、まだ二人だな」
「今は二人だって。副長が言ってた」
「そうかい」
ヨナスは束をこちらへ寄こした。寄こしてから通りの方を顎で示す。子どもが一人もいない。
「子どもが来ねえんだ、この台。去年は飴目当てで寄ってたんだがな」
「飴」
「去年の秋は飴が来てたんだよ。今年は来ねえ」
ヨナスは束の藁を締め直した。
「あれ、誰が持ってきてたんだったかな」
こちらを見ずに言っている。答えを待っている言い方でもない。
隣の台の男が何か言いかけて、言わずに手を戻した。
「まあ、来ねえもんはいいや」
ヨナスは次の客の方を向いた。
名前なら言える。
出さなかった。
名前を言ったところでどこの人かの答えにはならない。それは去年から分かっている。
ただ、今日は覚え方が違う。昼の庭で、あの男と同じ抜け方を自分の体で一度やっている。
あの男がどう歩いていたかを覚えているのは、この町ではもう自分だけだ。あの道を二度歩いて、二度とも人に肩をぶつけたから覚えている。
レインは束を担いで通りを出た。
人は少ない。少ないので端を歩く用も今日は無い。
――――――――――――――――――――
家に着く頃には日が落ちきっていた。
竈の横の光の付与石はもう布を外してある。土間の奥まで明るい。
「豆はあった?」
「今日の分で終いだった。次は三日後だってさ」
「そう。じゃあ明日は根の方ね」
母は柄杓で鍋へ水を足した。足してから鍋の縁を見ている。
「隣のハンナさん、洗い物は自分でやってるわ」
「腕の布は取れたのか」
「取れたわよ。跡は残るって」
「誰が言ったんだ」
「バルトさん。詰所で見てもらったのよ」
「ガルドは」
「支部。戻りは遅いって」
ガルドの椀だけが伏せたままになっている。
妹が寝間から出てきて卓の脚につかまった。
「れいん、さむい」
「母さんのそば行ってろ。あったけえぞ」
「さむい」
リアは言うだけ言って母の脚の方へ戻っていった。
弟は縁側で筵を敷いていた。鉄剣を横へ置いて布を左手に持っている。
拭くのが弟の役になってから毎晩これを見ている。
「今日で五十日です。握れるか、見ててください」
アシュが言った。
「おう」
弟の右手が動かなくなったあの夜から数えて、五十日で握れる、八十日で剣が振れる、とじいさんは言っていた。
弟は布を筵の上へ置いた。置いてから右手を膝の上へ出す。
指を曲げる。曲がる。指の腹が手のひらに着く。
着いたところで、そのまま止まった。
開かない。
この前までは着いたところで力が抜けて拳が開いていた。それを毎晩見ている。
「開かねえな」
「開きません」
アシュはもう一度握った。握ってから字を書く時の指の寄せ方にしていく。
そこで開いた。
「字は書けそうか」
「まだです」
「そうか」
「右で鉄剣を拭けるようになったら、振るのを見てもらえますか」
「拭けたらな。見てやる」
弟は開いた手を膝へ戻して左で布を取り直した。鉄剣の鞘を端から端まで一度だけ拭く。
「痛えのか」
「痛くありません」
返事は早い。
「お前、返事が早い時は本当のこと言ってる」
アシュは布を止めた。止めてからまた動かす。
「昼の、ニコの棒」
「なんだよ」
「膝の前を通りました。兄さんは膝を動かしていないのに」
「……よく見てんな」
「あれは、どこで覚えたんですか」
答えようとして、言葉を組み直した。
覚えた場所なら言える。去年の秋の広場だ。言えば、その先に誰の歩き方かが続く。
あの男の歩き方へ自分が追いついたことは、この家の誰にも言わない。
「今日の庭だ」
「今日ですか」
「体でやったのは今日が初めてだ。だから今日覚えた」
嘘ではない。言っていない分があるだけだ。
弟は自分の右手を見た。見ただけで、それ以上は聞かなかった。
アシュは布を鞘の端まで戻した。
レインは縁側の柱に背を預けた。
肩に当たった所がまだ熱い。棒が前を抜けた膝には、当たった感じがどこにも残っていない。
レインは左の膝に手のひらを当てて、しばらくそのままにしていた。




