第六話
針が革を抜けた。
抜けた糸を親方が引き締めると、小さな靴の踵が閉じる。これで左右の二つが揃った。大人の手のひらに一つずつ載る大きさだ。
ガルドは革屋の土間に立って、閉じたばかりの踵を見ていた。昼を回ったばかりで、表の戸の隙間から入る雪明かりが作業台の端まで届いている。
今日でリアが三つになる。生まれた日を数えているのはミラで、十日前に紐を一本寄越してきた。紐には結び目が二つある。一つ目から二つ目までがリアの足の長さだ。
測るところはガルドも見ている。ミラは寝ているリアの足の裏へ紐を当てて、踵の所と親指の先の所で一つずつ結び目を作った。作ってから紐を光の付与石にかざして、結び目のあいだを指で二度なぞった。字は読めないが、長さと数は一度で覚える。
親方は靴を裏返して、内側へ指を入れた。
「兎の毛を張った。雪の上を歩いても指は冷えん」
「それでいい。この頃は外へ出たがって仕方がない」
「三つなら、止めても出ていく。指が冷えなけりゃ、帰ってこねえぞ」
親方はミラの紐を作業台の上へ伸ばして、靴を一つ、底を上にして重ねた。踵を一つ目の結び目に揃える。靴底の爪先は二つ目の結び目を越えて、さらに指一本ぶん先まで出た。
リアの足より、指一本ぶん長い靴だ。
「足は育つ。その分だ。春までは持つ」
「そうか」
「底は二枚重ねてある。雪が解けて土が出ても、水は中まで来ん」
「春まで履けるなら、それでいい」
払いは十日前に済ませてある。
ガルドは靴を受け取って、左右を合わせて布でくるんだ。くるむ時に、左の脇が一度締まる。北の底で入ったひびは、もう息を止めるほどではない。それでも腕を体の前で合わせると、脇の方が先に鳴る。
「娘か」
「娘だ。今日で三つになる」
「なら、履かせる時は筵の上にしろ。新しい革の底はまだ固い。踏み固めた土間だと滑る。外は明日、明るいうちだ」
「分かった」
親方は針を作業台の端へ戻して、次の革を手元へ引き寄せた。
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広場の雪は昨日の分がまだ柔らかい。
井戸のまわりだけが踏まれて固く、その外は膝の下まで沈む所がある。ガルドは踏まれた筋の上を選んで歩いた。くるんだ靴は外套の内側へ入れてある。
井戸の脇でハンナが釣瓶の縄を巻いていた。隣の家の女で、子どもらを小さいうちから見てもらっている。左の腕にはまだ布が巻いてあって、その腕は胸の前へ寄せたまま、縄は右の手だけで巻いている。
「今日でしょ、リアちゃん」
「ああ」
「三つかい。早いもんだね。あの子があたしの膝で寝てたのなんて、ついこの間だよ」
ハンナはガルドの外套の胸のふくらみを見て、笑った。
「それ、靴だろ。ミラさんが結び目の付いた紐を持って歩いてたからね」
ガルドは答えなかった。ハンナは答えを待たずに、縄の続きを巻いた。
井戸の向こうで、子どもが二人、雪を丸めて投げ合っている。投げた雪玉が当たる前に崩れて、二人とも笑っている。リアもじき、ああして外を歩く。
支部の前を通ると、依頼の板の前に今日も荷方の男が立っていた。峠が閉まってから、この男は毎日ここにいる。
「見ていかねえのか」
「今日はいい」
「珍しいな」
男はガルドの外套の胸のふくらみへ目をやった。何か言いかけて、言わずに依頼の板の方へ顔を戻す。
詰所の前で、レインが若い衆と並んで軒の雪を落としていた。長い竿を両手で持って、軒の縁から雪を掻き落とす。落とすたびに左の膝が曲がるところで一度止まって、止まってからまた伸びる。
「今日は早く上がる」
レインの方から言った。竿を下ろさない。
「母さんに言われてる。日が落ちる前に戻れって」
「そうか」
「ガルド、それ」
レインの目がガルドの胸の辺りで止まった。ガルドは外套の前を合わせ直しただけで、何も言わなかった。
「……夜か」
「夜だ」
レインはそれだけ言って、また軒へ竿を上げた。
竿を上げるたびに、左の膝が同じ所で止まる。止まり方は秋から変わっていない。それでも竿を下ろす速さは、雪が降り始めた頃より速い。止まる膝の分を、肩と腕で先に取り返している。
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家の戸を開けると、甘い匂いが土間の低い所まで溜まっていた。
寝間の板戸が少し開いていて、掛け布の端が土間の方へはみ出している。リアは昼のあいだ寝ていたらしい。
竈の脇の鉄の皿に、丸い焼き菓子が五つ並んでいる。焼き上がったばかりで、表に細かい割れ目が走っている。
ミラは鍋の前にいた。振り向かずに言う。
「靴は」
「できた」
「見せて」
「夜だ」
ミラはそこで振り向いた。
「大きさは合ってた?」
「指一本ぶん大きい」
「それでいいのよ。すぐ育つんだから」
ミラは鍋をかき回しながら、もう一つ聞いた。
「高かったでしょ」
「三つは一度しか来ん」
「……答えになってないわよ」
それでもミラはそれ以上聞かずに、鍋の方へ向き直った。
卓ではアシュが蜜の壺を押さえていた。押さえているのは左で、右には匙を持っている。匙で蜜を掬って、焼き菓子の上へ運ぶ。
運ぶ途中で、匙が指のあいだから抜けた。卓の上で一度跳ねて止まる。
アシュは匙を拾い直した。拾うのも右だ。二度目も抜けた。三度目で蜜が菓子の上へ落ちて、割れ目に沿って広がった。
大牙が町へ入った夜から、今日で三十八日になる。今朝、卓でアシュがそう言っていた。この子は毎朝、自分の手の日数を言う。
「左でかければ早いのに」
「今日のは、右でかけたいんです」
ミラはアシュの右手を一度見た。見てから何も言わずに、菓子の皿をアシュの方へ少し寄せた。塩はひとつまみ入れてある、と小さく言う。誰に向けて言ったのでもない。毎年、この菓子を焼く日にミラは同じことを言う。
リアが寝間から出てきた。卓の脚につかまって、焼き菓子の匂いの方へ顔を上げる。
「みら、まだ?」
「まだよ。夕餉のあと」
「あしゅ、あまい」
「甘いです。まだ食べられません」
アシュが言うと、リアは卓の縁に顎を乗せて、蜜の広がった菓子を見上げた。見上げたまま動かない。
それからガルドの方を向いて、外套の裾をつかんだ。
「まんま」
「どうした」
「まんま」
つかんだ裾を一度引いて、リアはそれで満足したように手を離した。
「まんま」は、この子が父を呼ぶ時だけの音だ。飯をねだっているのではない。母も兄たちも名で呼ぶのに、父だけはまだその音のままで、今日で三つになった。
ガルドは外套を脱いで掛け棒へ掛けた。脱ぐ前に、内側の包みを卓の下へ入れる。リアは見ていない。アシュは見ていたが、匙を持ったまま何も言わなかった。目が合うと、アシュは匙を卓へ置いて、蜜の壺に蓋をする。蓋を押さえているのは左の手で、右は卓の上に置いたままだ。
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日が落ちる前に、レインが戻ってきた。左の膝を先に土間へ入れて、それから右を入れる。
手桶に一杯水を汲んで、水瓶へ空ける。空けてから焼き菓子の皿を覗いて、一つ目に手を伸ばしかけた。ミラが鍋の蓋で指の先を叩く。
「夕餉のあと」
「分かってるよ」
リアが卓の脚から手を離して、レインの方へ二歩寄った。
「れいん、おそい」
「遅くねえよ。日が落ちる前だろ」
「おそい」
「……悪かった」
レインはリアの頭に一度手を置いてから、ミラに言われる前に手を洗いに行った。
夕餉は豆と根の汁だった。竈の横の光の付与石は布を外してあって、土間の奥まで明るい。椀が五つ並んで、リアの分には汁が少なく張ってある。
リアは自分の匙を握っている。握り方はまだ拳で、汁を運ぶより卓へこぼす方が多い。こぼした分をミラが布で拭く。拭くと、リアがまた匙を入れる。
「三つね」
ミラが言った。椀を置く手は止めない。
「りあ、みっつ」
リアが自分で言った。指を三本立てようとして、四本立っている。アシュが手を伸ばして、一本を折り曲げた。
「これで三つです」
「みっつ」
夕餉が済むと、ミラが焼き菓子を一つずつ皿に載せた。蜜は竈の熱で少し柔らかくなっていて、皿の縁まで垂れている。リアは菓子を両手で持って、端から齧った。齧った所から蜜が指に移る。移った蜜を舐めて、また齧る。
レインは二口で食べ終えた。アシュは右の手で菓子を持とうとして、持ち上げる前に左へ替えた。
ガルドは卓の下へ手を入れた。
包みを出して、布を開く。小さい靴が二つ、卓の上に並んだ。
「靴だ。外で履け」
リアは菓子を持ったまま靴を見ている。見ているだけで手を出さない。
「お前のだ」
ミラが屈んで、リアの手から菓子を取った。取った菓子を皿へ戻して、リアの足を片方ずつ靴へ入れる。爪先を親指で押すと、指一本ぶん中が空いている。
「親方が、土間だと滑ると言っていた。履かせるなら筵の上だ」
「だから敷くのよ」
ミラは靴の紐を結び終えると、壁に立てかけてあった筵を一枚取って、卓からガルドの腰掛けの前まで土間へ広げた。
「この上だけよ。外へは明日」
リアは卓の脚から手を離した。
一歩出る。靴の底が筵を踏んで、裸足の時とは違う音がした。リアは自分の足を見下ろした。見下ろしたまま、つま先を一度上げて下ろす。もう一歩出る。また音がする。
レインが椀を置いて、体ごとこちらへ向き直った。アシュは菓子を持ったまま、リアの足元だけを見ている。
三歩目で、こちらへ向かってきた。
ガルドは腰掛けに座ったまま、リアが来るのを待った。立てば左の脇が鳴る。それに、立つとこの子の顔が遠くなる。
リアはガルドの膝の前で止まった。止まって、足元の靴を見せるように片方を上げる。上げて、下ろす。
それから顔を上げた。
「まんま」
「どうした」
リアは首を振った。それではない、という振り方だ。
小さな手がガルドの膝に乗る。乗せた手の、指の先だけがこちらを向いている。口が開く。
いつもなら、ここで同じ音が出る。
「とと」
卓の上で、レインの手が止まった。
ミラは皿を持ったまま動かない。去年の冬に屈んで「と、と」と教えた時、リアは母の口を見るだけで、父を指して「まんま」と言った。急がん、とあの時言ったのはガルドだ。それから誰も教え直していない。
アシュは菓子を左に持ったまま、こちらを見ている。
ガルドは笑わなかった。笑わないまま、リアの顔を見ている。
「なんだ」
リアは膝に乗せた手を離した。離してから、もう一度呼ぶ。
「とと」
「なんだ」
「とと、くつ」
「お前の靴だ。明日、外で履け」
リアは靴の片方を上げて、また下ろした。筵が音を立てる。その音を聞いて、もう一度踏む。踏んでから靴を見下ろして、一人で頷いている。
レインが何か言いかけて、言わずに椀を置いた。置いてから、残った菓子の端を口へ入れる。
「……一年かかったのかよ」
口の中でそれだけ言った。ミラが聞こえないふりをして、皿を重ねた。
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アシュは寝間へ入る前に、掛け棒の下で鉄剣を拭いていた。
拭くのは左で、右は鞘を押さえるだけだ。押さえる指が鞘の上で一度滑って、また掛かる。大牙の夜から、この子は毎晩これをやっている。始めた頃は右の指が鞘に掛からなかった。
拭き終えて鉄剣を受けへ戻してから、アシュはこちらを向いた。
「父さん」
「なんだ」
アシュは板戸の前の小さい靴を見て、それからこちらを見た。何か言う前に、言うことを一度組み直している顔だ。
「……よかったですね」
「ああ」
アシュは頭を下げて寝間へ入った。板戸の前に並べてある小さい靴を、跨がずに脇から回っていく。
ミラは竈の前で椀を拭いていた。拭いた椀を一つずつ棚へ伏せる。伏せる音が五つ続いて、止まった。
「……去年の、覚えてたのね」
「そうらしい」
ミラは椀を拭く手を止めなかった。止めないまま、拭く速さだけが少し遅くなる。竈の火がはぜて、伏せた椀の縁が赤く光った。
ミラは最後の椀を棚へ伏せて、布を竈の縁に掛けた。掛けてから、もう一度だけ寝間の板戸の方を見た。
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夜が更けて、竈の火が低くなった。
光の付与石には布を掛けてある。土間に残る明かりは、火の赤だけだ。
板戸の向こうから、レインの寝息と、アシュの寝返りの音が聞こえる。リアの音はしない。眠ると朝まで動かない子だ。
寝間の板戸の前に、小さい靴が二つ揃えて置いてある。
寝る前に脱がせようとしたミラの手を、リアが二度払った。三度目で脱いで、自分で板戸の前へ運んで、自分で並べた。並べる時に左右を一度取り違えて、取り違えたまま置いてある。
ガルドは腰掛けから立った。
靴の前まで行って、屈む。左右を入れ替えて、爪先を揃える。
明日、明るいうちに外へ出す。庭の雪は縁へ寄せてあって、真ん中は踏まれて固い。歩かせるならそこだ。転んでも雪の上なら泣かない子だ。
屈んでも、左の脇は鳴らなかった。




