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イテルニア黙示録 第一部 「終わりを知らない空の下で」  作者: 蝉
開く扉と、新しい風

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第五話

 伏せた桶の雪が厚い。


 塔の裏手だ。初雪の日にここへ出しておけと言われた桶で、伏せた底の上へ、それから降った分が平らに積もっている。厚みは指の幅二つぶんになった。伏せた縁のまわりだけ雪が薄い。風の当たる側だ。

 今日は扉を押す前に裏手へ回った。扉の脇の壁は坂を上りきった時に一度光ったので中で誰が来たかはもう知られている。石段の脇の筵(むしろ)は丸めて壁へ立ててある。夏はあそこへ広げて薬草を干す。今は広げる物がない。

 薪の束は雪をかぶっている。いちばん外の束は濡れていた分が凍っていて、内側は乾いている。去年ここで教わったとおり、乾いた方から先に入れる。

 左の腕へ三本載せた。載せてから右の手のひらを下から添える。

 四本目が乗った。乗ったまま石段を上がって、竈(かまど)の脇へ置くまで落ちない。

 三本ずつなら十二度、四本ずつなら九度になる。運ぶ薪の数はどちらも変わらない。回数は自分で決めろと言われている。


 塔の中は寒い。竈(かまど)の火は小さいままだ。足すのはこの人で、アシュは脇へ積むだけになっている。

 九度目を竈(かまど)の脇へ置いた。

 壁際の腰掛けから声が来る。


「何本持てた」


「四本です。右を下に添えると、四本目が載ります」


 ゼドルは薪を見ない。アシュの右の袖を見ている。

 十二日前は左の袖の内側にだけ薪の皮の擦れた跡が付いていた。今日は右にも付いている。


「ほかは」


「朝の柄杓(ひしゃく)は、二杯までなら持ち上がります。三杯目になると、まだ柄が指から抜けます」


 ゼドルは何も言わない。


 薪は右で一本持てる。二本にすると手のひらが開く。字を書くときの指の寄せ方にすると寄せきる前に開く。

 持てる物が一つ増えて、書ける物はまだ一つも増えていない。


 昼のうちに詰所の裏の庭へ行った。ガイは若い衆が打ち合いに使う団の棒を振って、そのあとで鉄剣を十本だけ振った。鉄の十本はフェイが板戸の内から見ていた。アシュが数えたのは団の棒の分だけだ。

 ガイは振り終わってからも柄を握っていた。帰りも鉄剣を提げていく。庭に立てて置いていかない。提げた側の肩が下がっていて、下がった分をガイは直さない。

 帰りに広場で女が二人話していた。ハンナの腕はまだ布を巻いていると片方が言った。市場通りに二匹出た日から五日になる。母は昨日の夕餉(ゆうげ)で、あの人の洗い物は代わりにやってきたと言った。

 右じゃなくてよかった、ともう片方が言った。洗い物は右でやるからだ。二人で言い合っていて、アシュの方は見ていない。

 塔にはその話が届かない。


 アシュは卓の脇へ立った。

 棚の石板は秋のまま並んでいる。写しかけの印はない。精霊の印を写す稽古は、手が戻ってからだと言われている。



――――――――――――――――――――



 十二日前は、聞くことがあるなら聞けと言われてから聞いた。

 今日は言われていない。


「この前、一つ聞かずに帰りました」


「なんだ」


「あの夜どれだけ多く出したのか、出した僕にも分かりません。ゼドルさんには分かりますか」


 ゼドルは腰掛けに座ったままだ。外套(がいとう)は膝になく、腰掛けの背に掛かっている。十二日前にそこへ掛けて、以来そのままらしい。


「儂《わし》では答えられん」


 答えは早くなかった。早くはないが、迷った間ではない。


「後ろを向いていたからですか」


「向いとらんでも同じだ。雷は光って消える。どれだけ出たかは、後に何も残らん」


 アシュは右手を卓の縁へ載せた。

 指を曲げる。曲がる。曲げたまま数えると十まで数えても開かない。十二日前は六つで開いた。


「先に聞く」


 ゼドルの声が来た。


「お前は毎日、桶の何を見て量を決めとった」


 桶のことだ。真ん中が指の幅一つ残ったまま終いになった桶のことを、この人は今日まで一度も蒸し返していない。


「散る分です」


「続けろ」


「水を送ると、行き先を外した分が出ます。溢れる分は水になるので誰にでも見えます。ならない分もあります。細かく散って、水になる前に消えます」


「消えるのが見えるのか」


「見えます。送る量を増やすと散る分も増えて、減らすと減ります。減らしていくと、散る分が一つも出なくなる所があります。そこで止めていました」


「風もか」


「風も同じです。刃にならなかった分が散ります」


「氷は」


「氷結(ひょうけつ)も同じです。厚みは送った量で決まります。散る分が出なくなる所まで削って張ると、端から凍って、真ん中で止まります」


「散る分は、出さずにやっとったのか」


「はい。出ないようにしていました」


 ゼドルは腰掛けの背から体を離した。


「毎日か」


「毎日です」


「いつからだ」


「桶より前からです。椀の時からやっています」


「散る分が出ん所まで削ったから、桶は端までしか届かんかったのか」


「はい。真ん中が残ったのはそれです」


 塔の中が静かになった。

 高窓の外の明るさが落ちてきて、床の色が扉の側から順に沈んでいく。


「儂《わし》には見えん」


 ゼドルが言った。


「儂《わし》の知っとる者も、一人も見えん」


 見えない者がどうするかは、六つの年に、この塔でこの人の口から聞いている。儂《わし》は感じるだけだ、太さも形も分からんまま多めに送る、余る分は覚悟の上で、と。


「分からないまま、多めに送るんですね」


「そうだ。多く送れば届く。散った分には気づかん。気づかんまま先へ行く」


「見える方が、遅いんですか」


「遅い。今のところはな」


「今のところ、というのは」


「先は知らん。知らん物は言わん」


 ゼドルは自分の手を膝の上で一度返した。


「削るのをやめれば、真ん中まで届きますか」


「届く」


「じゃあ、なぜ削るなと言わなかったんですか」


「削っとると知らんかったからだ」


「僕が先に言えばよかったですか」


「言えば早かった。早かっただけだ。言われても、儂《わし》に見えるようにはならん」


 氷だけが遅い、とこの人は雪が降る前に言った。悪いとは言っとらん、遅いと言っただけだ、とも言った。理由はあの日に言わなかった。


「あの時、理由を言いませんでした」


「言えんかった」


「今は言えますか」


「理由は今分かった。お前が削っとったからだ。だが、どこまで削れば足りるかは、儂《わし》には教えられん。お前が削っとる物を、儂《わし》は見とらん」


 教えられん、の一言だけが、いつもより短く切れた。


「あの夜も同じだ。毎日削る方ばかりやってきた手が、あの夜は多く出した。多く出す稽古を積んどらん者に、出した量は分からん。見とらん儂《わし》にも分からん」


「誰にも分からないんですか」


「分からん」


「どうすれば分かるようになりますか」


「多く出して、行き先を決めて、当たった先を見る。それを何度もやった者だけが、自分の量が分かる」


「僕は、それを何度もやったことはありません」


「やっとらん。やらせんかったのは儂《わし》だ」


「戻ったら、やらせてもらえますか」


「その話は今日はせん」


「はい」


 聞いてはいけない話ではない。今日の分ではない、とこの人は言っている。

 十二日前にアシュが一つ聞かずに帰った。同じことをこの人が今日している。


 アシュは卓の縁の右手を見た。

 毎日削っていた手だ。削る方は数えられる。増やした方は、六つの時に椀から溢れさせたのと、去年の冬の宿場と、あの夜との三度しかない。溢れた分は卓を濡らしたので見えた。宿場の分は積んだ薪を崩したので見えた。あの夜の分は腕へ入ったので見えていない。


「量が言えないまま、誰かに雷を教えたことはありますか」


 ゼドルの目が上がった。


「ある」


 雪が降る前に、雷を教えない理由がほかにもあるかと聞いている。ある、まだ言わん、と返ってきた。あの日はそこで終わった。


 ゼドルはすぐには答えなかった。膝の上で手を組まず、腰掛けの縁を左右とも掴んでいる。掴んだまましばらく黙って、それから口を開いた。


「儂《わし》が若い頃だ。才のある子に雷を教えた。目の前で教えた。それでも、その子の腕が動かんようになった」


 アシュの目が、卓の縁に載せた自分の右手へ落ちた。

 ゼドルの目も同じ所へ来た。


「肘から先だ。お前と同じ所だ」


 アシュは右手を卓から下ろさなかった。指を曲げる。曲がる。曲げたまま力を入れると、開いた。


「その人の手は」


 そこで止まった。続きは口に出さなかった。出さなくても、この人には通じている。


「戻らんかった」


 ゼドルはそこで一度口を閉じて、また開いた。


「同じことになって、戻った子もおる。お前に言った日数は、その子らのだ」


 塔の中の暗さが一段進んだ。

 棚の石板の列は、いちばん手前の一枚の縁だけがまだ見えている。


「あの子に散る分は見えとらんかった。見える者は、お前のほかに一人も知らん」


 ゼドルが言った。目は棚の方を向いている。


 腰掛けの縁を掴んでいた手が、一度掴み直した。

 散る分の話をしたのはアシュだ。この人はさっきそれを聞くまで、あの子の腕に何が入ったのかを、散る分から考えたことがなかった。


「その人の名前を、聞いてもいいですか」


 ゼドルはすぐには答えなかった。


「ホルスト・タウベ」


 アシュは声に出さずに、口の中で一度だけその名前をなぞった。


「メイズにおると聞いた。街道沿いの町で書記をしとる。反対の手で書けるようになったそうだ」


 メイズという町の名前は、アシュも聞いたことがある。乗合の馬車が街道を行く途中で止まる町の一つだと、広場で大人が話していた。グレンツより小さな町だという。行ったことはない。


 そこで一度切ってから、ゼドルは付け足した。


「人づてに一度聞いただけだ。確かめとらん」


 確かめとらん、とこの人は言う。

 去年、ヤンが都の問屋からいなくなったとアシュが伝えた時、この人は、儂《わし》は町へ降りん、と言った。町へ降りない者が名前を覚えていても、何も戻らない、と。

 あの時のヤンは、この人が会ったこともない町の子だった。ホルストは、この人が自分で雷を教えた子だ。それでもこの人は、メイズへ確かめに行っていない。


 ゼドルは腰掛けの縁から手を離した。


「戻らんかったら、もう片方で書けばいい」


 ゼドルが言った。


 十二日前、この人は左は要らんと言った。戻れば右で写す、左で覚えた物は使わん、とも言った。要らんと言えるのは、戻る方の手の話をしている時だ。

 今の一言は、戻らない方の手の話をしている。


「手を出せ」


 アシュは右手を卓から離して、腰掛けの方へ出した。

 ゼドルは触らない。指の先から肘まで目で追い、そのあと袖の内側を見ている。


「握れ」


 握った。指の腹が手のひらに着く。着いたところで力が抜けて、拳が開いた。


「五十日はまだだ」


「はい」


 アシュは開いた指をもう一度閉じた。閉じるのは閉じる。閉じたまま力を入れると開く。


「僕の手は戻りますか」


「知らん」


 あの夜が明けた朝、この人は四つの数を言った。四日で今より動く、二十日で軽い物が持てる、五十日、八十日。そうならん者もおる、と付け足している。

 四日は来た。二十日も来ている。あとの二つはまだ来ていない。

 五十日は握れる日で、八十日は振れる日だ。兄は日数ではなく、右で鉄剣を拭けるかどうかで決めると言った。


「四日も二十日も、言われたとおりに来ました」


「数えとるならそれでいい」


 ゼドルは腰掛けから立った。

 立って、天井へ手を上げる。

 光の付与石が白くなった。塔の中が一度に明るくなって、棚の石板の並びも、床へ落ちた薪の皮も、竈(かまど)の縁の煤も見える。

 昼のあいだこの石は落としてある。日が入らなくなってから灯すのがこの人のやり方だ。

 今日は日が入らなくなるまで座っていた。薪を運び終えてから、この人は腰掛けを動かしていない。アシュも卓の脇から動いていない。


「量が分からないまま雷を覚えたら、僕の手もホルストさんのようになるんですか」


「なった者もおる。ならん者もおる」


「その違いは何ですか」


 ゼドルは答えない。

 答えないまま、光の付与石の下で棚の方を向いた。棚の石板は、一枚だけ端が手前へ出ている。


 アシュは頭を下げた。

 今日はここまでだと分かる。分かるのは、この人が棚を向いたまま石板の端を指で押し始めたからだ。

 押して、端を揃えている。


「明日も薪だ。今日と同じだけ」


「四本ずつで運びます」


「回数はお前が決めろ」


 その先は言わなかった。積んだ嵩(かさ)しか見ん、と十二日前に聞いている。



――――――――――――――――――――



 扉を左で押した。

 右で押す癖はもう出ない。出さないのではなく、押す前に左が先に上がる。


 外は暗くなりかけている。石段は真ん中だけ雪が薄い。掃いた跡ではなく、人の通る幅だけ踏まれて減っている。通るのはこの人とアシュしかいない。

 石塀の切れ目を抜けて坂へ出た。下りるときは踵から入ると滑るので、爪先から入れて体の重さをあとからかける。

 風は今日も北から来て、坂を下って町の方へ抜けていく。坂の雪は上りの跡と下りの跡が今日も二筋で、二筋とも同じ靴の幅だ。

 坂の途中の跡は雪の下だ。十二日前は三匹を引きずり下ろした跡の土が広く出ていた。今はその上へ降った分が乗って、押しのけた縁のところだけが低い。

 右手を外套(がいとう)の外へ出したまま歩いた。指の先から寒さが上がってくる。左より遅れて届くのは前と変わらず、遅れる分だけが短くなっている。


 ホルストが反対の手で字を書けるようになるまでに何日かかったのかを、この人は言わなかった。

 人づてに一度聞いただけの話だから、数を持っていない。持っていない物は言えない。


 二十五日目が終わる。五十日まではあと二十五日ある。


 坂の途中で足を止めて振り返った。

 高窓が一つ明るい。塔の中の光が外へ出て、扉の前の雪の上に落ちている。落ちているのはそこまでだ。

 石塀の切れ目から先の雪は、上ってきた時と同じ白さのままだ。


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