第四話
水が柄杓から鍋へ落ちた。
落ちきらないうちに手首が下がって、柄杓の底が鍋の縁へ当たる。当たった音で豆の皮が一枚跳ねた。
持っているのはアシュの右手だ。
朝の土間は竈の前だけ暖かい。妻のミラは鍋の脇に立ったまま手を出さない。出さないで見ている。
「二十日目なので、右でやってみました」
「そうか」
腰掛けに座ったまま、ガルドはそう返した。
右手は大牙が町へ入った夜から利かない。二十日で軽い物が持てる、とゼドルが言ったと聞いている。
アシュは柄杓を左へ持ち替えてから水瓶へ戻した。二杯目はやらない。
「もう一杯やらんのか」
「落としそうです」
水の落ちた分だけ鍋の中が上がっている。ミラはそこへ豆を落とした。落としてから蓋を寄せる。
「今日は落とさずに済んだわね」
ミラがアシュの手元を見た。昨日までは、水を空ける前に柄が指のあいだから抜けていた。
アシュは答えずに卓の端へ戻った。右手を卓へ載せて、指を一本ずつ曲げている。曲げ終わってからまた一本ずつ開く。
表の戸が開いてレインが入ってきた。手桶を提げている。提げているのは右で、左の膝が曲がるところで一度止まる。止まってから土間へ下りた。
「もう一杯汲んでくる」
「水瓶の分で足りている」
ガルドが言うと、レインは鍋の方を見た。
「豆を煮るんだろ」
「煮るわ。じゃあもう一杯」
ミラが蓋を押さえたまま言った。
レインは手桶の水を水瓶へ空けて、卓の端のアシュの手を見た。
「柄杓は持てたか」
「持ち上がりました」
「そうか」
それだけ言ってレインは空の手桶を提げ、また表へ出ていった。戸を閉める音が路地の側で一度鳴る。
ミラは蓋の縁の湯気を手の甲で払った。
「豆はあと三日ぶんよ。市場のは明日出るって」
「明日出るか、確かめてくる」
ガルドは腰掛けから立った。
板戸の隙間から入っている光が、土間の床の真ん中まで届いている。冬に入って日の出は遅くなったが、上がったあとの雪の照り返しは秋より強い。
「今日はどこへ行くの」
ミラが蓋を押さえながら言った。
「支部だ。依頼の板を見てくる」
「お昼は」
「戻る」
掛け棒から剣を取って腰へ回した。いちばん上にアシュの木剣、その下の受けに鉄剣が掛かっている。鉄剣の鞘は昨夜も拭いてあった。拭いたのは左の手だ。
「アシュ」
「はい」
「右で持てる物だけ右で持て。あとは左だ」
「はい」
外へ出ると息が白い。路地の雪は朝のうちに踏まれて固くなっていて、爪先を入れなくても滑らない。
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支部の土間は竈の火で暖かい。
帳場の娘はこちらを見ずに手を動かしている。
依頼の板は入口の脇の壁だ。貼ってあるのは二枚しかない。見回りの一枚と、横文字の一枚。十日ほど前から増えていない。
右の端は賊の紙が二年貼りっぱなしだった所で、そこだけ日に焼けずに明るい。今も何も貼っていない。
依頼の板の前に荷方の男が立っていた。峠が閉まっているあいだ、この男は毎日ここにいる。
「増えてねえな」
ガルドも二枚の紙を見た。
見回りの紙は、丘陵に散った分の見回りを続けるという文のままだ。
男は依頼の板から離れない。離れないまま、明るい一枠の方を見ている。
「こっちの空いた所に護衛の紙が出るのは、峠が開いてからか」
「そうだろうな」
「そりゃそうか」
男は鼻を鳴らした。鳴らしてから土間の壁へ背を付ける。腰掛けはこの土間に置いていない。
「お前の馬はどうしてる」
「繋いだままだ。食う分だけ減ってく」
それきり男は喋らなかった。帳場の娘のペンの音だけが続いている。
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支部を出て市場通りへ折れた。
台は出ている。通りの雪は台の前だけ平らにしてあって、その先は踏まれた凸凹のままだ。青菜の台の脇で、市場通りに台を出しているヨナスが空の籠を重ねている。
台の列はあの夜の前より短い。割れた台の分だけ間が空いていて、空いた所は誰も使っていない。
通りは東西に延びている。西へ行くと家並みが切れて、いちばん西の二軒の脇から北の畑へ抜けられる。
昼の少し手前だ。日は南の家並みの上にある。この刻限を過ぎると台は早く畳まれる。
「今日は青菜だけだ」
ヨナスがこちらを見ずに言った。
「豆は」
「明日だ。うちの分はまだ乾いてねえ」
通りの西の方で桶が転がった。
音のした方へ台の女が振り返る。振り返った顔がそのまま止まった。
通りの西から二匹出てきた。
肩が台の高さにある。胸と首が太くて、腰から後ろが急に細い。毛は灰と茶が混じって、背筋の一本だけ色が濃い。
声は出さない。出ているのは鼻の音だけだ。短く吹く音が、雪を踏む足の音より先に届いてくる。
下の牙が、閉じた唇の外へ出たままになっている。
ハンナが台の列の外にいた。うちの隣の女で、子どもらを小さいうちから見てもらっている。籠を提げて、二匹の方を向いたきり足が動いていない。
「離れろ」
ガルドの声で通りの何人かが下がった。ハンナは下がらない。下がる先を探して首だけが動いている。
先の一匹が真っ直ぐ来た。
ハンナは横へ倒れた。倒れた拍子に籠が飛んで、青菜が雪の上へ散る。下の牙が左の腕を掠めて、袖が肘の先まで裂けた。
獣はそのまま前へ出た。ハンナを越えた先で向きを変えようとして、後ろが遅れる。
ガルドは走った。走りながら鞘を払う。
手前の空の台を横へ倒して、足で家の壁の方へ寄せた。倒した台と壁のあいだに、人一人ぶんの隙間しか残らない。二匹目はその隙間で詰まった。詰まったまま前へ押してくる。
台の脚が壁を打った。二匹目が押している。長くは持たない。
先の一匹がこちらへ首を回す。牙の正面へ入る前に、前脚の付け根へ切っ先を送った。
ガルドが走り込んだ勢いで、刃が奥へ入った。踏み込んだ足の下で地面が鳴る。鳴った時に左の脇が一度締まって、息が止まった。北の底で入ったひびは、まだ塞がっていない。止めるだけなら片手で足りる。
前脚が二度土を掻いて、掻いた足が止まった。
剣を引こうとして、左の脇にまた痛みが走った。
息を吸い切れない。先ほどと同じように走り込めば、踏み込むところで止まる。
台の向こうの一匹は倒した台へ鼻を掛けて前へ出ようとしている。鼻で押した所が軋んで台の脚が雪から浮いた。ハンナはまだ、その先の雪の上にいる。
通りの西から二人走ってくる。団の若い衆だ。昼のあいだ、畑へ抜ける二軒の脇には二人立つ当番になっている。先に来たのがニコで、後ろの一人は名前を知らない。
「前へ出るな。台の脇を挟め」
「はい」
二人が左右へ割れた。ニコは通りの側、もう一人は家の壁の側だ。獣の面が壁の側へ向いた。向いた先へしか体は行かない。
ガルドは浅く息を吐いて、一匹目から剣を引き抜いた。壁と反対の側へ回る。獣の目はこちらを追わず、壁際の若い衆を追った。
若い衆が一歩退く。獣がそちらへ首を伸ばした。台の脚が雪を削る。
開いた前脚の付け根へ、横から剣を入れた。今度は走らない。獣が前へ出る重さを刃で受け、柄を両手で支えた。
脇が痛む。息を止めたまま、脚が崩れるまで待った。
二匹目が横へ落ちた。落ちた先で後ろ足だけがしばらく雪を蹴っている。
ニコは剣を下ろさずに立っていた。手のひらを一度開いて、握り直してから下ろす。
「団長に言え。市場通りで二匹だ。西から入った」
「はい」
「詰所にバルトがいたら、先にこっちへ寄越せ。怪我人がいる」
「はい」
もう一人が走った。ニコは残って、通りの西の方を向いている。
「どこから入った」
「畑の方からです。いちばん西の二軒の脇を抜けてきました」
「見たのはいつだ」
「抜けたあとです。二人で挟む前に通りへ入られました」
ニコは言い終わってから雪の上の跡を目で追った。追った先は自分の立っていた場所だ。
「あそこに立っていたのに、見えませんでした」
「見えなかったことも団長に言え」
「はい」
通りの人は戸口の内へ入っていない。少し離れた所から見ている。
ガルドはハンナの脇へ膝をついた。
裂けた袖から先が赤い。赤いのは袖の内側で、雪の上へ落ちている分は多くない。ハンナは自分の左腕を右手で押さえていた。押さえる場所が合っている。
「腕を見せろ」
「見せたって治せないでしょう」
「治さん。押さえる所を見る」
ハンナは手をどけた。傷は肘の下から手首まで続いているが、途中に一か所、皮が裂けずに残っている所がある。指は五本とも動いた。
ガルドはハンナの前掛けの端を裂いて、手首の側から巻いた。強くは締めない。
「立てるか」
「立てるわよ。立てるけど、あんた、あれは何なのさ」
「大牙だ」
「名前は知ってるわよ。あの夜から何度も聞いてんだから」
ハンナは言いながら、倒れている二匹の方を見なかった。見ないまま軒の下まで歩いた。歩き方は変わっていない。
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バルトが来た。うちのパーティの治癒師で、あの夜は詰所の前で朝まで手を離さなかった男だ。
軒の下でハンナの腕を取る。
「見せてください」
「来るのが見えなかったのよ。見えてたら逃げてるわよ」
「腕はそのままにしてください。上げないでください」
バルトは裂けた袖を肘の上まで裂き足した。裂いてから傷の縁を指で二度なぞる。なぞってから手を止めた。
「裂けた所は長いです。深くはありません」
「骨は折れていないか」
「折れていません」
バルトは腰の袋から巻く布を出して、濡らした方の布で傷の外から先に拭いた。使った分は畳まずに雪の上へ置く。
拭き終えると、裂けた所の上へ手のひらをかざした。かざしたまま動かさない。傷の縁から滲んでいた赤が、少しずつ出てこなくなった。
「血は止めました。あとは布を巻きます」
「止めるだけなの。治してはくれないの」
「この傷は浅いので、巻いておけばふさがります」
ハンナは自分の腕を見下ろした。赤が出てこなくなった所を、しばらく見ている。
「ふさがるまで、水に入れないでください」
「洗い物があるのよ」
「しばらく、どなたかに頼んでください」
「頼めって言ったって」
「ミラに言っておく」
ガルドが言うと、ハンナは何か言いかけて、口を閉じた。
「悪いわね」
バルトは布を巻き終えて、端を内側へ折り込んだ。折り込んでから立つ。
「腕が上がらない日が続くようなら詰所へ来てください。私は町にいます」
ハンナは巻かれた腕を胸の前へ置いた。置いてからこちらを見上げる。
「あたしね、秋に言ったのよ」
「何を」
「毎年一度はあるんだって。肉屋の台の前で言ったの。北の猟師が下りてこないってだけの時さ」
ハンナは巻いた腕の端を反対の指で押さえた。
「今年のは、毎年のじゃなかったのね」
「そうだ」
ハンナは巻いた腕をもう一度胸へ寄せた。巻いた布に、まだ血はにじんできていない。
台の女が二人、離れた所から見ていた。片方がもう片方へ言う。
「見回りが二人いたから、これで済んだんだよ」
「死人が出てないんだから、それでいいのさ」
言った先はこちらではない。互いに言っている。
ガルドは拭き布で剣の血を拭った。
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牙を外して雪の上へ並べた。皮は町の者が取る。残りは街道口の脇の畑の縁へ引いて焼く。
「四人で一匹だ。前を厚く持て」
男が四人出てきた。二人が後ろへ回ろうとして、ガルドは前へ戻した。首から前が重い。後ろだけが軽い。
持ち上げるまでに三度やり直した。持ち上がってからは早い。街道口までは通りを真っ直ぐ抜ける。
「焼くのは今日か」
前を持った男が言った。額から湯気が出ている。
「今日だ。日のあるうちに火を入れろ」
「煙が二日消えねえんだよ、あれ」
「知っている。それでも焼け」
男は言い返さずに担ぎ直した。あの夜のあと、畑の縁で同じ物を焼いた男たちだ。手つきはその頃より速い。
引き出した跡が通りの雪に二本残った。ヨナスは散った青菜を拾い集めて、籠へ入れずに台の隅へ寄せている。売る物にはならない。
ハンナの籠は台の脚の下から出てきた。ヨナスがそれを拾って、拾った手で雪を払ってから軒の下へ持っていった。
ガルドはハンナの倒れていた所の雪を見た。踏まれて崩れて、下の土が黒く出ている。
あの夜から六日目の朝、畑の縁へ下りた。窪みの底の蹄は、見た分は全部外を向いていた。あの朝に自分の目で見ている。
終わった、とフェイが広場で言ったのを、その晩に町の者から聞いた。聞いただけだ。その場にはいない。
見た跡が外を向いていたのは本当だ。
今日の二匹は、あの時に外へ出たものが戻ってきたのかもしれない。
外へ出た物が何日で戻るかを、この町の誰も知らない。北の丘陵に散っている分がまだいる。
ガルドは拭き布を外套の裾へ挟んだ。
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日の傾く前に市場通りを西へ歩いた。
いちばん西の二軒の脇から北の畑へ抜ける。大牙が入った日の昼に大工が戸枠を削って、閂が落ちるようにした二軒だ。今日は両方とも戸を開けていて、片方の軒の下に筵が丸めて立ててある。
畑の縁の窪みは東西に通っている。夏は水が流れる。今は空のまま雪をかぶっていて、底だけが風で薄い。
ガルドは底へ下りた。
跡はある。
二つ割れの蹄に、その後ろへ小さいのが二つ。四つで一組だ。沈んでいるのは前の二つで、後ろは表を撫でただけになっている。
向きは南だ。町の方を向いている。
東へ歩くと同じ組がもう一つあった。向きは同じだ。歩幅も揃っていて、途中で止まった跡は無い。
西へも同じだけ折り返した。こちらには何も無い。降ったあとの雪が平らなままだ。
二つの組をたどって北へ出た。
窪みを越えると刈り終わった畑が続く。雪の下は起こしたままの土だ。跡は畑の畝を横切って、その先の雑木の下で消えている。
そこまで歩いて、しゃがんだ。
枝の下は雪が薄い。薄い所が二か所、体の幅で押されて窪んでいる。押された底へ、そのあと降った分が薄く乗っていた。
北へ続く跡は無い。丘陵の方から今日下りてきたのではない。
この二匹は町の外にいた。外にいて、それから町の方を向いた。
ガルドは立って北を見た。
雲は丘陵の腹の高さで止まっている。その上は見えない。散っている分がどこにいるかはここからでは分からない。
畑を戻って窪みの縁まで来た。
縁には下りた時の自分の足跡が残っている。同じ所を踏んで上がる。
ガルドは手についた雪を外套の裾で落として、町の方へ歩いた。




