第三話
「団長。明日の当番だ」
副長のディルクが詰所の軒の下で帳面を開いた。開くのは左手だ。右腕は下げたままだ。あの夜に右の肩を傷めてから、帳面を開くのも字を書くのも左手でやっている。
フェイは横から覗いた。日は魔道具屋の板壁の向こうへ落ちかけていて、軒の下より広場の側がまだ明るい。左手で書いた字は歪んでいて読みにくい。数だけは読める。
「街道口に二人。市場通りの西の端に二人。暗くなってから東の通りへ一人回す」
「北の見回りは」
「支部の組が丘陵へ出とる。うちからは出さん」
「見回りに立てるのは何人だ」
「九人だ」
「寝とる三人は、まだか」
「まだだ」
あの夜に腿を傷めた一人は、まだ立てない。傷が骨まで届いていると言われた男で、寝床で体を起こせるようにはなったが、まだ歩けない。街道口で腕を傷めた一人は、詰所で寝かせたままだ。北で腿を撥ねられた一人も、まだ寝床から出ていない。三人とも九人には入っていない。
ディルクは帳面を閉じた。閉じてから軒を出て、井戸の方を見ている。
広場の雪は昼のうちに固まって、踏んでも音がしない。井戸のまわりだけは、水を汲みに来る者が一日じゅう踏むので、雪が土と混ざって黒い。
冬に入って日の落ちるのが早くなった。秋ならこの時刻、見回りの二人はまだ市場通りを歩いていた。今はもう暗くなるので戻ってくる。二人が戻ったあと夜の通りに見回りが一人もいなくならないように、暗くなってから一人を東の通りへ回す。
市場通りの台は日の傾く前に畳まれる。畳んだ台を担いだ者が、詰所の前を何人か通り過ぎていった。あの夜に通りへ倒れた台は町の者が片づけた。割れて使えなくなった台の店は、まだ出ていない。
峠は閉まっていて、北から荷は来ない。峠へ出られない荷方は、冬のあいだ毎日ギルド支部の前に立っている。
「今朝言った剣は」
「奥の棚に出してある。油は引いた。鞘は無い。元から無い」
「分かった」
「団長」
「なんだ」
「棚から出した分は、帳面へ書くのか」
「書け。棚の一本は俺が出した、と書け」
「誰に出したかは」
「書かんでいい」
「わかった」
ディルクは何に使うかを聞かない。聞かずに、当番表を書きに詰所の中へ入っていった。
入れ違いに若い衆のニコが街道口の方から歩いて戻ってきた。走っていないので、急ぎの知らせではない。
ニコは十八の若い衆で、細くて背だけ高い。町の子どもには気安く口をきくが、こちらの前では背筋が伸びる。
「街道口、変わりません。荷方が三人、畑の縁で大牙を焼いた跡をまだ見てます」
「見せておけ」
「はい」
「支部の依頼の板は」
「見回りの一枚と、横文字の一枚のままです。増えてません」
ニコは外套の前を直して、表から詰所の中へ入った。裏の庭へは回らない。裏の庭を使うのは倅とあの子で、若い衆が回るのは、ヴァルドんとこの上の子の稽古に付き合う日だけだ。今日はその日ではない。
フェイは板戸を押して中へ入った。
竈の前に古参のカスパルがいる。膝が悪いので今日も見回りには出ていない。腰掛けを動かさずに座って、手の届く所の薪だけを火へ足している。
「戻ったか」
「戻った」
「裏で振ってるぞ」
「聞こえとる」
壁に木剣が一本立ててある。あの夜、大牙に噛ませて二つに割れた木剣の、長い方だ。倅が二つとも拾って帰り、長い方を自分でここに立てた。以来、誰も動かしていない。柄の付いた短い方は、倅が持ち歩いている。
長い方の真ん中から先に、大牙の歯の跡が二列ある。割れた端の側には一つも付いていない。
倅に鉄剣を持たせず、木剣で稽古させてきたのはこちらだ。その木剣が割れて、ここに立っている。鉄剣なら割れなかった。割れない代わりに、刃が無くても振れば木剣よりずっと重く相手に当たる。
この木剣のことを、あの夜から半月、倅とは話していない。
奥の棚の筵の包みを取った。
開くと鉄剣が一本ある。団の予備の一本で、縁は落としてあって刃は付いていない。持ち上げると朝ディルクが引いた油の匂いがまだ立つ。
この一本は前に一度、家の外へ出している。ヴァルドんとこの下の子に貸して、春に返ってきた。返す日はこちらから言っていない。それでもあの子は返しに来た。
「それを出すのか」
カスパルが火から目を上げずに言った。
「出す」
「新しい木剣はどうする」
「買わん」
「そうか」
カスパルは薪を一本、火の奥へ寄せた。寄せてから手を膝へ戻す。膝は冬に入ってから外の寒さで固まって、朝のうちは腰掛けから立つのに間がかかる。
「刃は付けるのか」
「落としたままだ」
「そうか」
カスパルはそれきり聞かなかった。なぜ倅に持たせる気になったのかまでは、聞いてこない。先代の頃からこの詰所にいる男だ。
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裏の板戸を開けると、団の棒が風を切る音がした。
細く高く鳴ったのが一つ、低く濁ったのが一つ、そのあとにまた細く高く鳴ったのが一つ。
庭の雪は縁へ寄せてある。倅が寄せた雪の裾を団の棒の先でつついて毎日崩すので、雪の無い土の所が日ごとに広くなっている。
倅は庭の真ん中にいる。団の棒を両手で持って、肘をたたんでから上げる。上げてから振る。団の棒は若い衆が打ち合いに使う木の棒で、割れた木剣の代わりに借りて振っている。
庭の縁に子どもが一人立っている。ヴァルドんとこの下の子だ。外套の前を左手で合わせて、右は下ろしている。右の袖から手が出ていて、その指は開いたままだ。
振る音が止まるとその子が口を開く。
「三つ。切れたのは一つ目と三つ目で、二つ目が切れてない」
「どこだ」
「肩。二つ目だけ、肩が先に回ってる」
倅は自分の肩を見ない。見ないまま、次の一本では肩を先に回さずに振った。細く高く鳴る。
一本を振り終えると、止まらずにすぐ次の一本へ移る。切り替えが速い。踏み込みは浅いままだ。
フェイは板戸の所から動かなかった。
あの子は数と、振り方の悪かったところだけを言う。ほかは何も言わない。怪我をした自分の右手を見ることもない。下ろした右手はさっきから同じ高さにある。
あの子は毎日同じ所に立っているらしい。足の下だけ雪が踏まれて薄くなり、土の色が透けている。
板戸の所にいるフェイに先に気づいたのも、倅ではなくあの子の方だった。
「フェイさん」
「アシュ」
「はい」
「手はどうだ」
「肘から先は前より動きます。まだ物は持てません」
「そうか」
北へ出る朝に広場で同じことを聞いたときも、あの子は『肘から先』と答えた。
倅が団の棒を下ろしてこちらを見た。見たのは脇の筵の包みの方だ。
「なんだそれ」
「その前に聞く」
フェイは板戸の内の壁を顎で示した。
「あの木剣は、どう割れた」
「割れたんじゃねえよ」
「どうした」
「割った」
「どう割った」
倅は団の棒を足元へ置いた。置いてから息を吸う。
「噛ませた。下の牙の内側に木の腹を突っ込んだ。首を振っても抜けねえ」
「その次は」
「放した」
「放して、どうなった」
「割れた長い方があいつの口ん中に残った。俺は左の壁際へ跳んで、正面からどいた」
壁に立てた長い方の歯の跡と、今の話は合っている。
「今までお前に鉄を持たせなかったのは、背が伸びとる途中だからだけじゃない。持てば振るからだ」
倅の顔が上がった。
「お前はあの夜、木を噛ませて放した。振らなかった」
「振れねえよ、あんなもん」
「振らなかった、と言っとる」
フェイは筵を開いた。
「持て」
倅は右手を出した。片手で受けると、重さで手が下がった。肘を曲げて持ち上げ直し、それから両手で握った。
「重えな」
「鉄だ」
「刃、無えぞ」
「落としてある」
「なんで」
「団の稽古の物だ。刃を付けたら庭で使えん」
倅は縁を指でなぞった。なぞった指に油が付いたので、外套の裾で拭いた。
「振れるぞ、これ」
「振るな」
倅は鉄剣を胸の前まで上げて、そこで止めている。上げる速さは団の棒の時と変わらない。違うのは止めたあとの手首で、剣先の重さに引かれて手首が下へ折れる。
「下ろせ」
倅は下ろした。剣先が雪に着く手前で止めて、そのまま提げている。鉄剣を持った側の肩だけが下がる。
「今日から、振っていいのは俺が見とる時だけだ。庭でも街道口でも一人では振らん」
「受けるのはいいのか」
「受けは今までどおりでいい。受けは来たのを止めるだけだ。振るのは違う。お前が決めて出す」
「新しい木剣は」
「買わん。振るだけなら団の棒がある」
「うん」
フェイは倅が足元へ置いた団の棒を拾った。鉄剣より軽い。
「三つ受けろ」
倅は足を開いた。開き方が浅い。浅いのは前からだ。
一つ目を肩口へ落とした。
倅が鉄剣を上げて受けた。受けた重みが腕から踵まで抜けて、踵の下の雪が鳴った。木で受けていた時には無かった音だ。
二つ目は少し速くした。鉄剣は同じ所へ上がる。上がるが、受けたあと構えへ戻るのが遅い。
三つ目で、踏ん張っていた足が半歩ぶん後ろへ下がった。下がってから元の所へ戻る。
木剣で受けていた時は、足が後ろへ下がらなかった。下がる前に切り替えて横へ出ていた。鉄剣を持つと、切り替えるより先に足が下がる。
倅は息が上がっている。
「今のが鉄だ」
「重いだけじゃねえのか」
「重いだけだ。重いだけで、足が下がる」
「下がってた?」
「下がった」
庭の縁から声が来た。
「踵が半歩下がって、戻ってる」
倅はそちらを見た。見て、何も言い返さない。
「気づかなかった」
「気づかんうちに下がるから先に言っとる」
もう三つ落とした。
四つ目で足は下がらなかった。下がるまいと踏ん張ったので、今度は肩から上だけが後ろへ反る。五つ目では肩も反らなかった。その代わり鉄剣を構えへ戻すのが遅れて、六つ目でまた足が下がった。
庭の縁から、また声が来た。
「三本目と六本目で、踵が下がった」
「聞いたか」
「聞いた」
倅は息を整えている。整えながら鉄剣を下ろした。下ろした先が雪に着いて、着いた所の雪が割れる。
「これ、前に見た」
「そうだ」
「アシュが持ってたやつだろ。俺が木剣で打ってた」
「そうだ」
「返してたのか」
「返しに来た。返す日はこっちが言わんかった」
「なんで貸したんだよ」
「あの家には、あの子の鉄剣が無かった。今はある」
「壁のあれ、置いといていいか」
「長い方か」
「うん」
「置いとけ。誰も触っとらん」
「あれ、歯の跡が付いてんだよ」
「見た」
「柄の方には無えだろ」
「無い」
倅は庭の縁の方を見た。縁ではあの子が動かずに立っている。見てから何か言いかけて、そこで止めた。
「親父」
「知っとる」
「……何が」
「あの子が魔法を使うことだ」
鉄剣の先が雪から離れて、また着いた。
「いつから」
「あの子が攫われた夏からだ。取り返しに行った沢で、俺はあの子の風に助けられた。あれが無けりゃ死んどった」
「聞いてねえ」
「言っとらん」
「なんで言わねえんだよ」
「聞かれとらん」
倅は黙った。黙ってから鉄剣を持ち直す。両手が柄の上と下で離れている。
「……俺も、言わねえつもりだった」
「そうか」
「聞かれたら言うつもりだった」
「誰に言うかはヴァルドの家が決める。お前も俺も決めん」
「分かってる」
倅は分かっている顔をしていない。言い返しもしない。
大牙の体を畑の縁へ引き出していた日、倅はあの夜のことを、聞かれれば話すという顔をしていた。こちらは聞かなかった。あの日は縄を運ぶのに一人でも多く手が要る。
今日、聞いた。倅の話は壁の木剣の歯の跡と合っていて、大げさにもしていない。
庭の縁からあの子が寄ってきた。
「アシュ」
「はい」
倅が先に鉄剣を横へ出した。柄をあの子の方へ向けている。
「持ってみろよ」
「右では持てない」
「左でだよ」
「左でも持てない。持っても落とす」
あの子は左の手を外套の前から出さなかった。出さないまま断っている。
倅は鉄剣を戻した。戻してから柄の下の方を握り直す。
「今日は何本切れた」
「四本のうち三本」
「そうか」
あの子は頭を下げて、板戸の脇を抜けていった。外套の右の袖だけが歩く拍子に振れずに下がっている。
その後ろ姿を、倅は鉄剣を提げたまま見ていた。
――――――――――――――――――――
日が落ちた。庭の雪だけがまだ白い。板戸の内から竈の匂いが出てきている。
倅は鉄剣を右手に提げていた。左の脇には、割れた木剣の短い方を挟んでいる。
「両方持っていくのか」
「持ってく」
「そうか」
「これ、まだ捨てねえぞ」
北へ出る朝、広場で倅に、割れた木剣はまだ捨てとらんのか、と聞いた。倅は、うん、とだけ返した。あの時の倅の脇には何も無かった。今日は短い方の木剣が挟まっている。
「捨てろとは言っとらん」
「うん」
「鉄剣は庭に立てて帰るな。置く所を決めとけ」
「詰所じゃ駄目なのか」
「家だ。持って出て、持って帰れ」
「重えぞ」
「そうだ」
倅は鉄剣を提げ直した。提げた右の肩が下がる。木剣を挟んだ左の脇はそのままで、右と左の高さが揃わない。揃わないまま板戸の方へ体を向けた。
「なんで家なんだよ」
「ここに置けば団の剣だ。家に置けば、お前が預かっとる剣だ」
「返すのか、これ」
「返す日は言わん」
フェイはそう返してから、もう一つ足した。
「明日、明るいうちに来い」
「振っていいのか」
「俺が見とる。十本だけだ」




