第二話
団の棒が風を切る音が、五つ目で止まった。
止めたのはガイだ。振り切る手前で肘をたたんで、団の棒の先を雪の上に置く。団の棒は詰所の若い衆が打ち合いに使う木の棒で、ガイはこれを借りて振っている。詰所の裏の庭は今日も掻いてあって、置いた先の土だけが黒い。
アシュは庭の縁に立って数えている。数えるのは音だ。真っ直ぐ振り下ろせた一本は、細く高い音を一つ立てる。それが切れた音だ。振る途中で団の棒の先が少しでもぶれると、音が低く濁る。それが切れていない音だ。振った数を数えて、濁った一本を覚えておく。
「いくつだ」
「五つ。四つ目が切れてない」
「四つ目、何で切れなかった?」
「肘。三つ目で肘が下がって、四つ目はそのまま振ってる」
ガイは自分の右の肘を見た。見てから団の棒をもう一度上げる。
右手が動かなくなったあの夜から数えて十一日目、ガイに「俺が振るから、お前が数えろ」と言われた次の日から、アシュは毎日ここへ来ている。ガイが振って、アシュが数える。
素振りは朝のうちに済ませてある。ここで振るのは、切れるかどうかを見る分だけだ。
十一日目は八つ振って三つ切れなかった。十二日目は十振って二つ。今日は十三日目で、五つのうち一つ。切れない数は減っている。減っているのを数えているのはアシュだけで、ガイは数を聞いても覚えない。覚えないが、切れなかった次の一本は必ず肘を先に上げる。聞いて、肘を見て、また振る。
右手は今朝、柄杓の柄を回って持ち上げかけた。持ち上がったのは指一本ぶんの高さで、そこで柄が抜けた。十日目と同じ落ち方だ。落ちる高さだけが上がっている。
二十日はまだ来ない。
ガイが振った。切れた。次も切れた。
「二つ」
「今日はもう終わりだ。親父が戻る」
ガイは団の棒を板戸の脇に立てかけて、代わりに割れた木剣を脇へ挟んだ。あの夜、大牙に噛ませて二つに割れた木剣の、柄の付いた短い方だ。短すぎて振っても風を切る音はしないが、ガイは持ち歩いている。長い方は詰所の中の壁に立ててあると聞いた。
「お前、爺さんとこへは行ってんのか」
「行ってない」
「親父が出た日に行ったろ。爺さんが降りてきた」
「あれから行ってない」
「なんで」
「来いとも来るなとも言われてない」
ガイは割れた木剣の先で庭の縁の雪を一度つついた。つついた分が崩れる。
「言われなきゃ行かねえのか。毎日行ってたんだろ」
「冬の仕事は印を写すのと薪を運ぶのだった。写すのは右手」
「薪は」
薪は左でも抱えられる。抱えられる数は半分になる。半分なら回数を倍にすれば同じになる。
言われた分は、印を写すのと薪を運ぶのと二つだった。二つのうち一つは今もできる。できる方をやっていない。
「薪は左で運べる」
「じゃあ行けよ」
ガイはそれだけ言って、板戸の方へ歩いていった。板戸の手前で足を止めない。今日は振り向かずに入って、板戸が閉まった。
アシュは庭に残って、崩れた雪の裾を見た。昨日崩した分と今日崩した分で、黒い土がまた広くなっている。
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坂の雪は広場の雪より白い。
踏む人が少ないからだ。広場は踏まれた跡の上にまた踏まれて固くなっていたが、この坂は跡が何筋か重なっているだけで、いちばん上に載っているのは上っていく一筋だ。
昼を過ぎて風が出ている。北から来て、坂を下って町の方へ抜ける。母の言ったとおりの風だ。
坂の途中に跡がもう一つあった。
雪を横に押しのけて、押しのけた先で土が広く出ている。人の長さの跡が三つ。あの夜に倒れた三匹を、誰かが引きずって下ろした跡だ。引きずった跡は坂の下の十字路の方へ続いて、そこで途切れている。
三匹の倒れた場所を、アシュは覚えている。一匹目は石塀の切れた先、二匹目は坂の中ほど、三匹目は下り口の脇だ。あの夜、ゼドルが三度唱えた場所を、今は雪が三つとも同じ白さにしている。
爪先から雪へ入れて、それから体の重さをかける。
初雪の日に三度で覚えた歩き方だ。上るときはこれで滑らない。あの夜、走って上って滑ったのはこの歩き方を忘れたからで、この人は同じ場所で滑らなかった。
坂を上りきると石塀の切れ目が見える。切れ目の手前で、扉の脇の壁が薄く光った。
来訪者術式だ。路地の風が乱れると一度だけ光る。この塔の式のうちで、アシュの目にいちばん薄く見える式だ。今日も薄い。この人は今、中で誰が来たかを知った。
扉を押した。
右で押す癖が先に出て、押しきれない。左に替えて押す。開くと苦い匂いが先に出てくる。薬草の匂いだ。六日前と変わっていない。
中は暗い。天井の光の付与石は落としてあって、高窓から入る光は床の中ほどに四角く落ちている。昼を回っているので四角は扉の方へ寄り始めていた。
壁際の腰掛けにゼドルが座っている。膝に外套を掛けていて、着てはいない。
この人が外套を着て歩くのを、アシュはあの夜にも見ている。今日は着ずに掛けている。
「薪を運びます」
「ああ」
それだけだった。六日のことは聞かれない。手のことも聞かれない。
アシュは裏手へ回った。
裏手の隅に伏せた桶が一つある。初雪の日に裏へ出しておけと言われた桶だ。出したのはその翌日で、それからの雪が伏せた底の上に平らに積もっている。
薪の束は雪をかぶっている。いちばん外の束は濡れていて、内側は乾いている。去年ここで教わったとおり、乾いた方から先に入れる。
左の腕に三本載せた。右で押さえられないので、三本より上は載せない。載せて、段を上がる。段が狭いのは夏も冬も同じで、靴の底が濡れている分だけ滑る。
竈の脇へ置いて、また裏手へ戻る。竈の火は小さい。足すのはこの人で、アシュは脇へ積むだけだ。
三本ずつ十二度運んだ。右手が使えた頃なら六度で済んだ数だ。回数だけが倍で、運んだ薪の数は変わらない。
十二度目を置いたとき、腰掛けから声が来た。
「何本持てた」
「三本です。右で押さえられないので、それより上は載せていません」
「うむ」
ゼドルは薪を見ない。アシュの左の腕を見ている。左の袖の内側に薪の皮が擦れた跡が付いている。右の袖は白いままだ。
アシュは卓の脇に立った。
棚には石板が並んでいる。いちばん手前の一枚が、秋に精霊の印を写していた石板だ。写しかけの印はない。初雪の日に四つとも線が始まりへ戻って閉じて、閉じたまま置いてある。
「印の写しはどうしますか」
「手が戻ってからだ」
「左で写すのはどうですか」
「左は要らん。戻れば右で写す。左で覚えても使わん。お前が書くのは右だ」
石板の四つ目の印を、この人はあの日に指で止めた。止めただけで何も言わなかった。今日も言わない。
アシュは石板から目を離した。
兄は左で拭けと言った。拭くのは振るのと違う、とも言っている。この人は左で写すなと言う。戻れば右で写すからだ。写すのは拭くのと違う。どちらも本当で、どちらも右が戻る日の話をしている。
高窓の四角が、卓の足の所まで来ている。
ゼドルは動かない。動かないまま、腰掛けの上で膝の外套の端を一度直した。
「聞くことがあるなら聞け。今日は手が空いとる」
アシュは右手を体の前へ出した。
指を全部曲げる。曲がる。曲げたまま数える。六つまで数えたところで力が抜けて、指が開いた。
この人はそれを見ている。
「あの夜の雷は、どこで止めればよかったんですか」
聞いた。
聞いてから聞き方を間違えたと思った。この人には去年の冬に言われている。教えた形は持っていける、どこで止めるかは持っていけん、と。向こうに儂はおらん、止めるのはお前だ、と。
あの夜、向こうにこの人はいた。半歩の所にいた。それでも止めたのはアシュで、止める場所を知らないまま止めている。
ゼドルはすぐには答えない。
「儂は椀一つぶんで止めとる。だが、どこまで送れば椀一つぶんになるのかは、口では言えん。儂にも見えとらん。手がそう覚えとるだけだ」
水なら見える。水は線が閉じてから中が満ちるまでに間があって、その間に椀の縁を見て、縁に合わせて送る量を直す。毎日そこで直している。
あの夜の雷は、線が閉じるのと光が落ちるのが一つだった。間が無い。何かを見る前にもう落ちていた。
「僕にも見えませんでした」
「見えん物は口では教えられん。手が覚えるまで待たせるしかない。三年だ」
三年、とこの人は去年の夏に言った。師匠に三年待たされた、と。理由はあの日に言わなかった。
「待たせた理由を、師匠は言いましたか」
「言わんかった。儂の方から尋ねた」
ゼドルは高窓の方を見ない。扉の方も見ない。膝の外套の上に置いた自分の手を見ている。
「儂より先に習っとった者が一人おった。儂が習い始めた年にはもうおらんかった」
「雷ですか」
「雷だ。当たり所が悪かった。心の臓だ」
雷は当たり所によっては心の臓を止める、とあの日にこの人は言った。子供が扱っていい代物ではない、と。
あの言い方は、誰かの話をしている言い方ではなかった。今日の言い方は違う。
「師匠はその者に、三年待たせんかった。待たせる前に見せた。見せたから、その者は真似た」
手本を見た日に手を動かすと手本の真似になる、と去年の冬に言われている。真似た物は自分の手から出ていない、と。出ていない物は要る時に出てこない、と。
あの夜、出た。
要る時に、真似た物が出ている。出た先の行き先だけが無い。
「儂は三年待った。待ってから習った。習ってからも椀一つぶんの他には言えん。師匠も言えんかった」
「僕には待たせませんでした」
「待たせるつもりだった」
ゼドルは自分の手から目を上げた。
「三年だ。十一になるまで待たせるつもりで、去年の夏の一度の他は見せんでおった。あの夜、儂が先に使った。使えばお前が見る。見れば真似る。分かっとって使った。使わんと坂の下の二人が死んどった」
坂の下の二人。兄とガイだ。
この人はあの夜、二人の名前を呼んでいない。今も呼ばない。二人、とだけ言う。
「あの夜の一言で済んだと思っとった」
見せたのは儂だ、とあの夜この人は言った。言ったのはそれと、教えとらん、の二つだけだった。
「済んどらん。待たせる前に見せたのは師匠と同じだ。儂の方が一つ多い。儂は知っとって見せた」
言い切って、ゼドルは膝の外套を取って腰掛けの背へ掛けた。掛ける手は、あの夜に前を留め直した手と同じ速さだ。
アシュは右手を見た。
曲げたまま六つ数えるのがやっとだった指が、今は開いたまま卓の脇に下がっている。
この人が待たせるつもりだった三年は、始まる前に終わった。終わったあとに残ったのが、この手だ。
「もう一度、見せてもらえますか」
「見せん」
早かった。
「右が戻るまでこの塔で雷は出さん。出せばお前は見る。見た物を、お前は次の日に手で写す。写す手が無いうちは写せんだろうが、戻った日に写す」
「見ないで、覚える方法はありますか」
「無い。儂は見て覚えた。師匠も見て覚えた。見ん者に渡した例を儂は知らん」
高窓の四角が卓の足を離れて、扉の方へ寄っていく。床の色が、四角の通った跡だけ明るい。
ゼドルは腰掛けに戻って座った。
「聞くことはまだあるか」
「あります」
「言え」
「三年待って、椀一つぶんの他に手が覚えたことは何ですか」
ゼドルは黙った。
黙っているあいだ、高窓の四角は扉の方へ指一本ぶん寄った。
「当てる先と、出す量を一つにすることだ」
「一つに、ですか」
「先だけ決めても、出しすぎれば余る。出す分だけ減らしても、先を外せば余る。余った分は近くの物へ行く。あの夜は、お前がいちばん近くにおった」
あの夜、当たった。四匹目は兄の足の手前で止まった。先は合っていた。
「先は合っていました」
「なら量だ」
「どれだけ多かったんですか」
「儂は後ろを向いとった。見とらん。お前の腕に入った分だけ多かった」
アシュは桶を思った。
裏に伏せてある、氷を張る稽古の桶だ。真ん中が指の幅一つぶん凍らずに残ったまま終いになった。あの桶は毎日、送る量を削って縁に合わせていた。削る方は毎日やっている。増やす方をやったのは、六つの時に椀から溢れさせた一度と、去年の冬の宿場と、あの夜だけだ。
毎日削っている手が、あの夜は多く出した。どれだけ多かったのかを、出した本人が知らない。
聞こうとして、やめた。
聞けば答えが来る。来る答えはたぶん今日の分ではない。
「帰ります」
「ああ」
扉を左で押した。
押しきる手前で、腰掛けから声が来た。
「明日も薪だ。今日と同じだけ」
「今日と同じに、三本ずつ運びます」
「回数はお前が決めろ。儂は積んだ嵩しか見ん」
頭を下げて、扉を出た。
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坂を下りる。
爪先を雪へ食い込ませてから体の重さをかける。上りと同じ歩き方で、下りは踵から入ると滑る。三度目でその歩き方になったのは初雪の日で、今日は一度目からそうなっている。
坂の途中で町を見た。
煙の上がっている家と上がっていない家が、屋根の上で分かれて見える。初雪の日と同じ分かれ方だ。あの日と違うのは、街道口の方角に雲が下りていないことで、今日は街道口まで見える。
見えるところに転がっている物は無い。
あの夜から十三日で、街道口はそこまで戻った。
坂の下の十字路に、雪を横に押しのけた跡が三つ集まっている。上から引きずってきた三つの跡が、ここで一つになって町の方へ続いている。
四匹目はここで止まった。兄の足の手前で止まった、とガイは言った。俺の木剣では止まらなかった、と。
四匹目の跡はもう無い。三匹の跡が集まって一つになった所に、上から重なって消えている。
アシュは左手を外套の内へ入れた。
右手は外に出したままで下ろしている。外に出しておくと指の先から寒さが左より遅れて上がってくる。遅れて届く。届くまでの間は、十日目より短い。
風は北から来て、坂を下って町へ抜けていく。
アシュは十字路を真っ直ぐに抜けた。抜けた先の路地は朝に踏まれた跡がもう固くて、爪先を食い込ませなくても滑らない。
屋根の上の煙は、どれもまだ途切れていない。家の煙がどれかはここからでは分からない。




