第一話
水が水瓶の縁を越えて、土間の土へ落ちた。
五つ上の兄が手桶を傾けすぎたのだ。傾けた手を戻さずに、手桶が空になるまでそのまま注ぐ。落ちた分は土に吸われて色だけが残った。
朝の水汲みは兄が汲むと言った日から数えて今日で四度目になる。アシュは卓の脇に立ったまま見ている。
「レイン、こぼれてるわよ」
竈の前から母が言った。
「乾く。もう一往復だ」
兄は手桶を提げて戸を出た。左の膝が曲がるところで一度止まる。大牙が町へ入ったあの夜に牙で裂かれた膝だ。止まってから外へ出る。
竈の前で母が薪を足した。足してから柄杓を取って、水瓶から鍋へ二杯移す。二杯目のときに一度こちらを見て、何も言わずに柄杓を縁へ掛けた。
アシュは右手を出した。
柄杓の柄に指を掛ける。掛かる。七日目には触れるだけだった指が、今朝は柄を回って裏まで届く。届いたところで持ち上げた。持ち上がりかけて、柄が指のあいだを抜けて縁へ戻る。音は小さい。
十日目だ。二十日はまだ来ない。
塔に住む師のゼドルの許可なしで大牙に打った雷の魔法の余った分が、右手に入った。それから肘から先に力が入らない。二十日で軽い物が持てる、とゼドルは言っていた。
「あしゅ」
妹のリアが卓の下から出てきた。右の袖を引いてから袖の先の手を見る。
「て、いたい?」
「痛くない」
「なんで?」
「痛くないから」
リアはそれで納得して、左の手の方へ回った。そちらを掴んで母の方へ歩いていく。
父は朝のうちに出た。父は冒険者のパーティを率いている。行き先は聞いていない。
昨夜、父は依頼の板の話をした。支部の依頼の板に新しい紙が貼ってあって、横文字が一つ書いてある。何が書いてあるのかと聞いたら明日自分で見てこいと言われた。お前は字が読めるだろう、と父は言った。
「昼前に行きなさい。昼を過ぎると風が出るから」
母が言った。
兄が戻ってきて、二杯目を水瓶へ空けた。今度はこぼれない。
「詰所へ行く」
「膝は」
「歩ける」
兄はそれだけ言って手桶を伏せた。伏せてから掛け棒の下を一度見た。いちばん上に木剣。その下の受けに鉄剣。春に買ってもらったアシュの分だ。鞘は昨夜も兄が拭いた。あの夜から毎晩、兄が拭いている。
兄は掛け棒から目を外して出ていった。
――――――――――――――――――――
広場の雪は昨日より固い。
踏まれた跡の上にまた踏まれた跡が重なって、朝の日が当たっても表が光らない。
広場の端に土の山が一つある。壁を崩した跡だ。山の上と脇の雪が三つぶん、人の長さに凹んでいる。凹ませた物はもう無い。
井戸の脇を通って北へ抜けた。
支部は広場と市場通りのあいだにある。入口の脇の壁が依頼の板で、紙は一枚ずつ貼る。右の端の一枠は街道の賊の依頼が二年貼りっぱなしだった場所で、日に焼けずに今も明るい。
貼ってあるのは二枚だった。見回りの一枚と、その隣の新しい一枚。
依頼の板の前に男が一人いた。
荷方の男だ。冬のあいだ峠へ出られないのでこの頃は毎日ここにいると父が言っていた。
「お前、字が読めるのか」
「はい」
「なら読んでみろ」
アシュは依頼の板へ寄った。
新しい一枚は、端がまだ日に焼けていない。
「北の丘陵の、集落は片づいた。丘陵に散っている分の見回りは続ける。見た者は支部へ出せ」
「そこは昨日聞いた。飛ばした所を読め」
「集落」の前に、この町の言葉ではない字が一つ挟まっている。
字は読める。一つずつ音にすれば口の中に出る。出た音を並べてもこの町の言葉にならない。
声に出した。
「ファングオーク」
「それだ。なんだそりゃ」
「分かりません」
「お前んとこの親父は牙人だって言ったぞ」
「それは聞きました」
「同じもんか」
「分かりません。紙にはこっちの名前で書いてあるだけです」
「上の支部が読む紙だとよ。お前の親父がそう言った」
男は鼻を鳴らした。
「読めんのに毎日見に来て、読めるやつに読ませて、それでも分からん。依頼の板ってのはそういうもんだな」
男は依頼の板から離れて市場通りの方へ行った。
アシュはもう一度、横文字の方を見た。
この町の言葉で書かないのは読む先がこの町ではないからだ。右の端の明るい一枠の隣に、この町の字ではない名が一つ出ている。
――――――――――――――――――――
「読めたか」
振り向くとガイが立っていた。傭兵団の団長フェイの息子で、アシュより一つ上の幼馴染だ。
脇に木剣を一本挟んでいる。あの夜に割れた短い方だ。柄の付いた側だけを持ってきている。
「うん」
「なんて書いてある」
「ファングオーク」
「なんだそれ」
「牙人のこと。紙の上ではそう書くらしい」
「牙人でいいだろ」
「上の支部が読む紙だからって」
「ふうん」
ガイは依頼の板を見上げた。見上げただけで読もうとはしない。
「レインが来た。昨日の夜。親父が歩いて帰ってきたって」
「聞いた」
兄は昨夜、北から戻った父にそれを聞いて、ガイの家へ出ていった。
「親父はもう詰所だ。今朝は起きたら誰もいなかった」
ガイは歩き出した。行く先は詰所の方だ。アシュはついていった。
詰所は広場の東の縁にある。裏へ回ると庭で、雪は掻いてある。掻いた雪が庭の縁に低く積んであって、その内側の土だけが黒い。
庭には誰もいなかった。息を吐くと口の前で曇って、曇った分が上へ抜けて消える。朝より風が冷たい。
ガイは脇の木剣を出して、一度振った。
柄から手のひら二つぶん先で終わっている木剣だ。振るといつもの音はしない。
「短えな」
「うん」
「これで噛ませたんだよな、あの夜」
「見てない」
「見てねえのか」
「十字路で会った時にはもう二本だった」
「そうか。噛ませて、放した。放したらこうなった」
ガイはもう一度振った。今度は途中で止めて、止めた先を見ている。
「なあ」
「うん」
「あの夜のさ。今の、お前かって聞いたろ」
「うん」
「返事しなかったろ」
「うん」
「今なら答えるか」
「僕がやった」
返事は早かった。答えは十日前から決まっていて、もう一度聞く人が今日まで来なかっただけだ。
ガイは木剣を下ろした。
「知ってた」
「見たから?」
「見る前からだよ。お前、前から変だったし」
ガイは庭の縁に寄せた雪を木剣の先でつついた。つついた所が崩れて、崩れた分が黒い土の上へ落ちる。
「毎日あの塔に行ってるやつが、なんもしてねえわけねえだろ。爺さんだって、なんもしてねえ爺さんじゃねえし」
「うん」
塔へは、父たちが北へ出た朝にその人数を言いに上ったきりだ。来いとも来るなとも言われていない。
「だから知ってた。何やってんのかは知らなかったけど」
「ガイは、今も知らない」
「光ってた。あれで全部だろ」
「全部じゃない」
「ほかにもあんのか」
「水と風。雷はあの夜が初めてだった」
「初めてであれかよ」
ガイは頷いた。頷き方が、稽古で一本終わったあとと同じだった。
「その右、痛えのか」
「痛くない」
「じゃあ何だ」
「遠い」
「遠い?」
「触ると左より遅れて分かる。動かそうとすると、指まで行く前に力が切れる」
ガイはまだ右手を見ている。
「変なの」
「うん」
「治んのか」
「治るって、ゼドルさんは言った。剣が振れるまで八十日。今日で十日目」
「数えてんのか」
「数えてる」
「お前らしいな」
ガイは木剣を脇へ戻した。
「親父には言わねえ」
「うん」
「聞かれたら言う。聞かれてねえから言わねえ」
フェイは沢の日から知っている。連れていかれた先の沢でアシュが撃つところを見ている。アシュはそれを言わなかった。言うならフェイの側からだ。ガイの側から出た話ではない。
「言うつもりだったのか」
ガイが言った。
「うん」
「いつ」
「決めていなかった」
言う日は自分で決めるつもりでいた。決める前に見られて、決めないまま今日になった。
ガイはしばらく黙っている。それから木剣の先で、寄せた雪の裾をもう一度つつく。
「じゃあ、今日でいいだろ」
「うん」
「決めてなかったんなら、今日言ったってことでいい」
ガイは庭の縁から戻ってきて、アシュの隣に並んだ。
詰所の板戸の向こうで誰かが椅子を引く音がした。ガイはそちらを見ない。
「明日も来いよ」
「何をしに」
「見てろ。俺が振るから、お前が数えろ」
「うん」
「右が戻るまでだ」
ガイはそう言って板戸の方へ歩いていった。板戸を開けて、開けた所で一度振り向く。
「アシュ」
「うん」
「あの夜、レインの足の手前で一匹止まったろ。俺の木剣じゃ止まらなかった」
板戸が閉まった。
アシュは庭に残って、寄せた雪の崩れた所を見た。崩したのはガイだ。崩した分だけ、黒い土が広くなっている。
――――――――――――――――――――
家へ戻ったのは昼を過ぎてからになった。母の言ったとおり風が出ていた。北から来て、路地を抜けて南へ行く。
土間へ入ると母が繕い物をしていた。リアは膝の脇で寝ている。
「読めた?」
「読めました」
「なんて書いてあったの」
「ファングオーク」
「何それ」
「牙人のことです。紙の上の名前です」
「あら」
母は針を止めなかった。
「うちの店でもそうだったわ。客が何て呼ぼうと、帳面に書く名前は一つだけ」
「どっちを書くんですか」
「払う人が読める方」
母はそれきり針を動かした。
払う人が読める方。あの紙を読むのは上の支部だ。
アシュは卓についた。右手を卓へ載せる。載せた手を左で押さえなくても今日は落ちない。
十日目の手は、そこまで来た。
――――――――――――――――――――
日が落ちる前に兄が戻った。
左の膝を先に土間へ入れて、それから右を入れる。膝の布は昨夜替えた物のままだ。外まで赤くはなっていない。
兄は外套を掛けてから、掛け棒の下へ行った。
いちばん上の木剣を通り越して、その下の受けから鉄剣を取る。片手で届く高さに掛け直したのはアシュだ。あの夜から、そこへ手を伸ばすのは兄になっている。
兄は縁側へ出た。
アシュはついていった。
縁側は冷えている。日はもう薪の台の向こうへ落ちかけていて、夕餉の支度の匂いが土間から縁側まで来ている。
庭は昨日のままで雪の上に足跡は無い。薪の台の上だけが端まで平らに積もっている。
兄は鉄剣を膝へ寝かせて、拭き布を出した。
拭き布で鞘を拭く。鞘から抜いて、刃の腹を根元から先へ一度なでる。裏も同じにする。ここまでを毎晩、アシュは土間から見ていた。
今夜は違った。
兄は拭き布を畳んでアシュの左手へ押しつけた。
「左でやれ」
兄は柄を持った。持って、刃をアシュの方へ寝かせる。
アシュは左手で拭き布を持った。拭き布は持てる。持てるが、なでる手が動きだしてから止まるまでが右より長い。根元から先へ一度なでる。拭き布の端が刃の縁に引っかかって、兄が柄を回して外した。
「裏」
兄が刃を返す。
アシュは裏をなでた。今度は引っかからない。
「それでいい」
兄は鞘へ戻して、鉄剣を膝へ置いた。置いたまま庭を見ている。
「塔で習ってたのはあれか」
「はい」
「いつからだ」
「塔へ行き始めた時からです」
「そうか」
兄は庭から目を離さない。
「ガルドは知ってんのか」
「はい」
「母さんは」
「はい」
「爺さんは」
「教えてくれた人です」
「そうだよな」
兄はそこで一度息を吐いた。吐いた息が縁側の先で薄くなって消える。
「知らなかったのは俺だけか」
「はい」
兄は何も言わなかった。
言わないまま、鉄剣の柄を膝の上で一度握って、開いた。握った手の方をアシュは見ていた。
「言うつもりでした」
「聞いてねえ」
「兄さんにいつか言うつもりでした」
「だから聞いてねえって言ってんだろ」
兄は鉄剣を持って立った。左の膝が伸びきるところで止まって、それから伸びる。
「あの夜、この目で見た。聞かなくても分かる」
兄は土間へ戻って、鉄剣を受けへ掛けた。片手で届く高さだ。掛けてから、掛け棒の下に立ったまま動かない。
「明日から、拭くのはお前だ」
「はい」
「左でだ。右が戻るまで」
「はい」
「戻ったら右で拭け。右で拭けるまでは振らせねえ」
兄は膝の布を替えに奥へ行った。
――――――――――――――――――――
夜、夕餉のあとで父が戻った。
腰掛けに座る時、左の脇を右の手で押さえた。押さえてから、押さえていない顔になる。上着は昨日の物ではない。裂けた方は母の繕い台に載っている。
母が今日の紙の話をした。父は聞いて、一度だけこちらを見た。
「読めたか」
「読めました」
「何と読んだ」
「ファングオーク」
「そうか」
父はそれ以上聞かなかった。
兄はもう奥にいる。
寝間へ行く前に、アシュは掛け棒の下に立った。
鉄剣は片手で届く高さにある。今夜は兄が拭いた。明日からはアシュが拭く。
左手を伸ばして、鞘の腹まで指を回した。そこで止める。
右手を体の前へ出した。
指を全部曲げる。曲がる。曲げたまま数える。三つ数えたところで力が抜けて、指が開いた。
昨日は二つだった。
寝間の板戸を開けると兄はもう横になっていた。
膝を伸ばして、こちらへ背を向けている。起きているのは息の間で分かる。
アシュは自分の寝床へ入った。右手を掛け布の外へ出しておく。出した指の先から、寒さが左より遅れて上がってくる。
遅れて、届く。




