第十二話
木剣の先が兄の棒の腹に当たって、横へ流れた。
流れた分だけ体が前へ出る。前へ出た右の足に重さが乗っているのを、アシュは足の裏で確かめた。春の半ばの昼過ぎで、庭は土が上まで乾いていて、踏み込んだ跡が浅い。
「乗ってるか」
「乗っています」
「なら、今日は終いだ」
兄は団の棒を胸の高さへ戻した。その胸の下あたりに、アシュの目がある。詰所の若い衆が打ち合いに使う木の棒で、兄はこの春のあいだ毎日それを借りてくる。返すのも毎日で、借りる時と返す時に詰所の誰かに一言ずつ頭を下げている。
右手が動かなくなったあの夜から、百日を過ぎた。庭で振る木剣は十本まで増えている。本数を言うのは父で、縁側の端から見ているのも父だ。十本のうち最後の一本だけを、兄が受ける。
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夏の盛りに、アシュは九つになった。
誕生日の晩は、母が焼き菓子を焼いた。リアは自分の分を半分かじって、残りをアシュの皿へ載せた。載せてから、皿の上の半分をしばらく見ている。
兄は何も渡さない。かわりに次の日から、庭で受けるのを最後の二本にした。
その月のうちに、木剣の二十本目が一本目と同じ長さの音で鳴った。肘は最後まで下がらない。振り終えて縁側の端を見ると、父は膝の上の手を持ち上げていた。
「鉄に戻せ」
「はい」
父が言ったのはそれだけだった。
翌日から、掛け棒の受けの鉄剣を右手で取る。最初の日は六本目で先が下がった。木剣で振れた二十本は、鉄では二十本にならない。下がった所から、また数え直しになった。
兄はその夏から、ガレア傭兵団の若い衆が朝に庭で打ち合う中へ、自分の番をもらうようになった。兄は庭の端で自分の番を待つ。昼に帰ってくると、袖と脛に詰所の庭の土が付いている。
「今日は何本打ちましたか」
「数えてねえよ」
「誰と打ったんですか」
「ニコ。あいつ、受けるのがうまくなりやがった」
数えないかわりに、兄は打たれた所を指で一つずつ押して見せる。肘の内側と、左の肩と、腰の横だ。押すたびに顔をしかめて、しかめた顔のまま母に見つかって、井戸の水で冷やせと言われる。
押して見せる所は、夏のあいだに一つずつ減っていった。
減っていくのと同じころから、兄の声が低くなった。土間の奥から母を呼ぶ声が、父の声と聞き分けにくい日がある。聞き分けにくいと言うと、兄は「知るか」と返して、その「知るか」がまた低い。
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秋に、父が館の依頼で家を空けた。
館の荷を南の町へ下ろす護衛で、十二日かかった。出ていく朝はまだ暗くて、父は竈の火が起きる前に外套を着た。リアは寝ている。母は戸口まで出て、戸口から先へは出なかった。
母はその日から、毎朝、窓の縁に豆を一粒ずつ並べた。父が出ていってからの日数だけ、豆が並ぶ。並べた数を、母は口には出さない。
父のいない日は、兄が縁側の端に座って見る。座り方が父と違う。父は両膝を揃えて手を載せる。兄は左の脚を前へ伸ばしたまま、曲げない。曲げれば、膝は曲がるところで一度止まる。
「そこまで」
本数を止めるのも兄の声になった。
夜には、兄が父の分の椀を卓から下げた。下げてから、自分の椀を父の腰掛けの前へ寄せる。
窓の縁の豆が十二粒になった日の夕方、父が門から入ってきた。迎えに出た兄と、門の内で並ぶ。兄の頭のてっぺんは、父の口元の高さまで来ている。春にはまだ顎の下にあった頭だ。
父はそれを見ても黙っていた。黙ったまま外套を脱いで、兄に渡す。渡された外套を、兄は掛け棒の横の釘に掛けた。釘は父の背の高さにあって、兄は踵を上げずに届いた。
母は窓の縁の豆を手のひらに集めて、その晩の鍋へ入れる。
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冬に峠が閉まった。
その冬のうちに、リアが四つになった。
三つの誕生日に父が贈った兎の毛の靴は、爪先の指一本ぶんの余りがもう無い。履くと踵の所が浮く。母は靴を布で包んで、棚のいちばん上の箱へしまった。しまうところを、リアは椅子の上に立って最後まで見ていた。
誕生日の晩、父は南の町で買ってきた靴を卓に置く。前のより一回り大きくて、爪先に指二本ぶんの余りがある。リアは履いて土間を一往復して、それから脱いで、靴を胸に抱えたまま寝た。雪の積もった日は、その靴で外へ出ない。
冬のあいだも、父は縁側の端から見る。吐く息が見える庭で、鉄剣は冬の終わりに十二本まで来た。十二本目まで、先は下がらない。
四つのリアは、よく聞く。
「あしゅ、なんでさか、のぼるの」
「塔で稽古があるから」
「なんで、けいこするの」
「できるようになりたいから」
「なにが、できるの」
三つ目には答えなかった。答える前に、リアはもう竈の火を指さして、次のことを聞いている。
リアは、母が薪を足すのを手伝いたがる。竈には近づかせてもらえないので、裏から土間まで一本ずつ運ぶ。一本ずつなのは両手で抱えるからで、抱えたまま戸口の段で一度止まって、足で段を確かめてから上がる。
朝、アシュが門を出ると、リアは門の内側までついてくる。そこから先へは出ない。出ないのは母に言われたからで、言われた場所に立ったまま、坂の三つ目の折れまでアシュを見ている。
同じ冬、塔の石段には雪が積もっていた。
石段の稽古は、あの春から一日も休んでいない。幅の言葉は、二語目まで届く日が増えていた。唱えるたびに落ちた所を見て、落ちた語を覚えて帰る。三語目に入ると、宙に保った水の線の、塀の側の端が下がる。下がりきる前に句を言い終えた日は、まだ一度も無い。
その日は風が止んでいた。吐いた息が、顔の前でまっすぐ上がっていく。
石段の下の雪に、落とす所を決める。水を出して、閉じた線を宙に保つ。保ったまま、風の句を言う。呼びかけのあいだ、水の線の端だけを見る。幅の言葉に入る。一語目、二語目。三語目で端が下がりかけて、下がりかけたまま止まった。指の先が重い。重いのは毎日と同じだ。
最後の一語を言い終えた。
水の線は満ちたまま、宙にある。
放した。水は石段の下の雪へ落ちて、風は塀の上の雪を一度だけ払った。
「二重詠唱です」
ゼドルは石段の上から、雪に開いた穴を見ていた。
「落ちた所は」
「決めた所より、塀の側へ指二本ぶんずれました」
「明日もやれ」
この人はそれしか言わない。言わないまま、石段の縁の雪を手のひらで払った。払った所に腰を下ろして、アシュがもう一度唱えるのを待っている。
二度目は、三語目で落ちた。三度目も落ちた。
坂を下りる途中で、指の先の重さが手首まで来る。来てから、二重詠唱と言ったのは自分の声だったと分かった。分かったところで足が止まって、止まった足の下で雪が鳴った。
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春に峠が開いた。
詰所の裏の庭で並んで振ると、ガイの剣の先は、アシュの木剣の先より手のひら一つぶん遠くを通る。背はアシュより頭半分高い。柄を握ると、ガイの手は柄頭のすぐ下まで来る。去年の今ごろは、ガイの剣の先が指二本ぶん先を通るだけだった。
「お前、縮んだか」
「縮んでない。ガイが伸びた」
「だよな」
ガイは笑って、次の一本を振った。振ったあとに右の肩を回す。去年の冬にはしなかった癖だ。
板戸の内からフェイの声がした。
「肩を回すのは、振り終わってからにしろ」
「終わってから回してるって」
「十本終わってからだ」
ガイは返事をしないで、残りを回さずに振った。十本目のあとで、肩を二度回した。
ガイはこの春から、振る前に足の幅を直すようになった。直す幅は毎日少しずつ違って、違ったままで切れる。踏み込みが浅くて、切り替えが速いのは前と同じだ。速いまま、遠くまで届くようになった。振り下ろした先で剣を止める所も、前より決まっている。止めた剣の先は、地面から指一本の高さで揺れない。
帰りに、ガイは坂の下までついてくる日がある。ついてきて、坂を見上げて、上らずに戻っていく。
「お前の爺さん、まだ下りてこねえの」
「下りてこない」
「だよな」
同じ返事を、ガイはさっきとは違う声でした。
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二度目の夏に、アシュは十になった。鉄剣は十六本まで来ている。
父がまた館に呼ばれて出た。今度は二十日かかって、それがいちばん長い留守になった。窓の縁の豆は、途中で一列に並びきらなくなって、母は二列目を作る。
留守のあいだに、兄は自分の鉄剣を持つようになった。詰所へも提げていくが、詰所の庭では今も団の棒を持つ。夜になると、兄は縁側でその鉄剣を自分で拭く。拭き終えると、アシュの鉄剣の拭き方も見て、黙って柱へ背を戻す。
ある晩、兄は釘に掛けたままの父の古い外套に袖を通した。冬に父が着なかった方の一枚だ。袖は兄の指の先を隠して、裾は膝の下まである。
「まだ長えな」
兄はそう言って脱いで、釘へ戻した。戻す時に、袖の折り目を父が掛けていた向きに揃えた。
二十日目に帰ってきた父と、兄は門の内で並んだ。兄の頭のてっぺんは、父の目の高さに近い。父は何も言わずに兄の肩を一度叩いて、それから土間へ入った。
リアは父の足に抱きついてから、父の外套の裾を引いた。
「とと、おそい」
「遅くなった」
「にじゅう、ねた」
二十という数を、リアはどこかで覚えてきていた。母は豆の数を口に出さない。
秋には、字を書くときの寄せ方で十まで数える日が終わった。指が開くかどうかを、もう確かめなくていい。
その寄せ方を、リアが真似るようになった。親指と人差し指と中指を寄せて、寄せたまま「いっぱい」と言う。十までは数えない。いっぱいの間だけ、指は開かない。
昼前に詰所の裏へ回ると、兄とニコの打ち合いがまだ終わっていない日がある。アシュが見た打ち合いでは、当てさせてから先を横へ流す形が、秋には三度に一度まで出るようになった。数えているのはアシュで、兄は数を聞かない。流せた日の兄は、昼に帰ってきても押して見せる所が無くて、昼のあとにアシュの最後の一本を受けながら、少しだけ口数が多い。
ある日、ニコの棒が真っ直ぐ来た。兄は受け止めない。棒の腹で当てさせて、当たった所から先を横へ流す。流されたニコが半歩よろけて、兄の左の足は前に置いたまま動かなかった。庭の端で、副長が腕を組んだまま一度うなずいた。
昼に帰ってきた兄に、アシュは言う。
「見ていました。副長が、うなずいていました」
「……見てねえよ、そんなの」
兄はそれだけ言って、左の膝を指の先で一度叩いた。叩いた膝は、曲がるところで一度止まる。止まるのは、あの夜から変わらない。
父は秋の終わりにもう一度館に呼ばれて、八日で帰ってきた。豆は一列で足りた。帰った晩、父は土間で兄の鉄剣を手に取って、刃の腹を竈の横の光の付与石にかざしてから、黙って兄へ返す。
ゼドルが水を当てさせる平たい石は、この秋から七歩先に置かれている。春は五歩だった。
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二度目の冬も、峠は閉まった。
「親父が、冬から二十本にするってさ」
詰所の裏の庭でガイが言った。板戸の内に立つフェイの前で振る鉄剣は、十本から二十本になった。二十本目まで、ガイの音は変わらない。
板戸の内から声がした。
「切れたか」
「二十本とも」
ガイは答える前に、こちらを見なかった。前はアシュが数えた「十」を聞いてから答えていた。今は自分の音で答えている。答えてから鉄剣を提げ直して、提げた側の肩を回した。
十一になったガイの背は、もう兄の肩を越えている。
兄がアシュの最後の二本を受けるのは、この冬でやめになった。今は縁側の柱に背を預けて見ている。板戸を開けて出てきたフェイと並ぶと、ガイの頭はフェイの胸に届く。フェイは届いた頭を見下ろして、板戸の内へ戻った。
母の頭のてっぺんは、兄の口元の高さにある。二年前は兄の眉のあたりにあった頭だ。母はその兄を見上げたまま、薪を割る数を言いつける。兄は聞き返さずに、言われた数だけ割る。
リアは五つになった。
並んで立つと、リアの頭はアシュの肩に届く。リアは届いた所を自分の手で確かめて、それから踵を上げる。
「あしゅ、まだ、そっちがたかい」
「まだね」
「らいねんは、こっち」
言い終えると、リアは返事を待たずに縁側へ上がっていった。上がって、裏から薪を二本抱えて戻ってくる。去年の冬は一本だった。聞いたあとに待たなくなったのは、この冬からだ。
家の薪は二束残った。前の冬は一束半だった。
雷点の話は、「まだだ」と言われた春から、塔で一度も出ていない。出さなかったのはゼドルで、聞かなかったのはアシュだ。
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峠が開いたと市で聞いたのは、坂の日陰から雪の残りが消えた朝だった。
果樹の枝の先が膨らんでいて、庭の土はもう踏んでも沈まない。母は戸口で繕い物の糸を歯で切って、切った糸の端を指に巻いている。
アシュは門を出て、坂の下で振り返った。
門の前にリアが立っている。門の内側ではない。母に言われた場所は、去年の秋から門の外の一歩先に変わった。手は振らない。振らないまま、坂の上の塔を指さしている。
その後ろで、詰所へ行く支度をした兄が、自分の鉄剣を提げてこちらを見ていた。




