# 009. 朝になれば選べばいい
その夜、カイは何度か目を覚まして、窓の外に耳を澄ませた。
風の音。外灯の硝子が微かに鳴る音。それだけだった。軒下の足跡の主たちは、少なくとも昨夜は戻ってこなかったらしい。
夕食の時、リアには足跡のことを言わなかった。
言えば、あの娘は青ざめて、今夜のうちに出ていくと言い出しかねない。雨の夜に倒れた体で、だ。伝えるにしても、順番がある。カイはそう自分に説明したが、半分は、せっかく戻り始めた血色を曇らせたくないだけかもしれなかった。
朝は、晴れた。
カイが井戸から戻ると、厨房にはもう火が入っていた。
「あ、カイさん、おはようございます! お粥、あと少しでできます」
竈の前で、リアが振り返った。借り物の服の上から、どこで見つけたのか、古い前掛けを着けている。物置の奥にでも残っていたのだろう。色の褪せたその布を、リアは丁寧に洗って干していたらしく、朝の光の中で、妙にきちんとして見えた。
椀が二つ、もう長テーブルに並んでいた。
カイの席の椀のほうが、盛りが多かった。
二人で朝食を取り、皿が空になり、リアが立ち上がって片付けようとした時、カイは口を開いた。
「リア。座ってくれ。話がある」
リアの動きが、止まった。
椀を持ったまま、ゆっくりと椅子に座り直す。顔から、さっきまでの色が引いていくのが分かった。膝の上で、指がエプロン代わりの前掛けの端を探し当て、握り込む。
――ああ、と、カイは思った。
この娘は、この瞬間をずっと待っていたのだろう。「話がある」の先には「出ていってくれ」が続くと、決めてかかっている顔だった。
だから、カイは先に言った。
「追い出す話じゃない」
リアが、顔を上げた。
「この宿には、古い決まりがあるらしい。前の持ち主が残していった札に、彫ってあった」
カイは懐から、あの黒ずんだ木の札を出し、テーブルの上に置いた。リアは首を伸ばして、風化した文字を覗き込んだ。
「一夜の雨風。問わず。……選ばせよ」
カイは、三つ目の言葉を指で叩いた。
「最初に読んだ時は、意味が分からなかった。何を選ばせるのか、書いてない。だが、何日か考えて、たぶんこういうことだと思った。――夜のうちは、何も訊かず、雨風をしのがせる。だが朝になったら、行くか残るかは、本人に選ばせる。宿が決めるな。そういう意味だ」
リアは、札を見つめたまま、動かなかった。
「お前はここに三晩いた。体も、歩けるところまでは戻った。だから、今朝がその朝だ」
カイは、できるだけ平らな声で言った。
「行きたいところがあるなら、行けばいい。街道の東へ三日歩けば、新街道との合流点に町がある。そこまでの分の食い物は持たせる。……残りたいなら、残ればいい。どっちを選んでも、この宿はお前に何も請求しない」
「そんな……! だって、私、三日も、お世話に……」
「夜の雨風は、問わない決まりだそうだ」
カイは札を顎で示した。
「文句があるなら、これを彫った奴に言え。俺は決まりに従ってるだけだ」
我ながら、ずるい言い方だと思った。だが、三日分の借りを背負ったままでは、この娘は「残りたい」とは口が裂けても言えない。借りの勘定は、まず札に押しつけてやるに限る。
リアは、長いこと黙っていた。
札を見て、テーブルの木目を見て、厨房の竈を見て、それから、膝の上の自分の手を見た。
「……私が」
声は、小さかった。
「私が、選んで、いいんですか」
「そう彫ってある」
「私、その……選んだこと、なくて」
リアは、笑おうとしたらしかった。うまくいっていなかった。
「食堂にいた時も、その前も、ずっと……いていいか、いてはいけないかは、向こうが決めることで。私はただ、決まったことに、はいって言うだけで。だから、あの……選べって言われると、どうしたら……」
言葉が、ほどけて消えた。
カイは、急かさなかった。椀を重ね、札を懐に戻し、それから帳面を開いて、今日の予定を眺めるふりをした。視線を外しているほうが、この娘は考えられる。
食堂に、朝の光が斜めに入っていた。窓の外では、外灯が昨夜の役目を終えて、静かに立っている。
やがて、椅子の脚が床を擦る音がした。
リアが、立ち上がっていた。
「……行きます」
カイは、帳面から顔を上げた。
胸の奥で、何かが小さく沈んだ。それが何なのかを確かめる前に、カイは頷いて、立ち上がりかけた。食料を包む布は、厨房の棚の二段目にある。
「東の町に行って――それで、その」
リアは、扉のほうを向いた。
一歩、足が出た。
二歩目が、出なかった。
リアは扉の前で立ち止まったまま、動かなくなった。細い肩が、朝の光の中で強張っている。カイからは背中しか見えない。その背中が、ゆっくりと、萎むように小さくなった。
「……嘘です」
囁くような声だった。
「行きたいところなんて、ないんです。東の町にも、どこにも、誰も……待ってる人なんて、いなくて」
リアは、振り返った。
目の縁が赤かった。だが、泣いてはいなかった。泣く代わりに、両手で前掛けの端を、ちぎれそうなほど握っていた。
「ここに、いさせてください」
一息に、言った。
「お客さんとしてじゃ、なくて。働きます。お掃除も、お洗濯も、お料理も、覚えます。お給金なんていりません。屋根の下で寝かせていただけたら、それだけで……だから、あの、私を――」
「分かった」
カイは、リアの言葉が「使ってください」まで行き着く前に、遮った。
その言い方を最後まで言わせたら、この娘の中で、また「役に立つ間だけの居場所」が始まってしまう気がした。
「住み込みの手伝い。まずは仮で、だ。仕事は朝飯の支度と、掃除の手伝い。給金は――」
「い、いりませんっ」
「払う。少なくてもだ」
カイは帳面を開き、新しい頁に線を引いた。
「働かせて金を払わないのは、雇いじゃなくてただの都合のいい飼い殺しだ。俺はそういうのを、王都で嫌ってほど見た。うちではやらない」
書き付けながら、カイは自分の声が少し硬くなっているのに気づいた。リアはその剣幕に押されたのか、「はい」と小さく言った。
「それと、部屋と鍵はそのままお前のものだ。飯は俺と同じものを食う。休みの日は作る。……以上だ。何か質問は」
リアは、首を横に振った。
それから、思い出したように、深く、深く、頭を下げた。
「よろしく、お願いします……!」
下げた頭の下から落ちた声は、震えていたが、確かに明るかった。
カイは頷き、帳面を閉じ――閉じかけて、思い直した。
帳場へ歩き、台の上の古い宿帳を持って戻る。埃を払って戻しておいた、あの革表紙の帳面だった。テーブルに置き、行の途切れたあの頁を開く。最後の客の名前と、あの細い走り書きの、その下。升目だけが並んだ空白が、朝の光の中で待っていた。
カイはインク壺とペンを置き、宿帳をリアのほうへ、そっと回した。
「リア。名前は、書けるか」




