# 008. 鍵のかかる部屋
皿を拭きたいと言った客に、カイは結局、布巾を渡した。
追い返すより早かったし、何より、リアは皿を拭いている間だけ、呼吸が楽になるように見えた。手が動いていれば、ここにいる言い訳が立つ。そういう息のつき方を、この娘はしていた。
椀二つと小鍋を拭き終えるのに、リアは職人のような時間をかけた。拭き上がった椀は、カイが洗った時より明らかに艶があった。
「昼まで寝てろ、と言っても、寝ないんだろうな」
「え? あ……その……」
「顔に書いてある」
カイは帳面を開き、今日の予定に目を落とした。二階の残りの客室の掃除。それから、昨日買い出しを諦めた分の食料の算段。リアの体は、あとひと晩ふた晩は休ませないと使いものにならない。追われている、という言葉の件を抜きにしても、この体で街道へ送り出すのは、川に突き落とすのと変わらなかった。
つまり、今夜も泊めることになる。
それなら、と、カイは帳面を閉じた。
「リア。二階に来てくれ。手伝ってほしいことがある」
リアの顔が、ぱっと上がった。
「はいっ」
返事の速さに、カイは少しだけ胸の奥が軋んだ。仕事を与えられた時だけ、この娘は迷いなく返事をする。
二階に上がり、カイは昨夜リアが使った東向きの角部屋の、隣の部屋の扉を開けた。
窓は割れていないが、掃除はまだの部屋だ。埃を被った寝台と、傾いた小机がある。カイは窓を開け放ち、リアと二人で埃を払い、床を掃き、寝台の木枠を拭いた。リアの働きぶりは、正直、カイより手際がよかった。雑巾の絞り方ひとつ、埃の追い込み方ひとつに、年季が入っていた。
昼過ぎには、部屋はひとつ、まともになった。
「よし。これでいい」
カイは腰を伸ばし、部屋を見回した。リアも雑巾を手にしたまま、満足そうに、少し誇らしそうに、磨いた窓を見ていた。ここに来て初めて見る表情だった。
「この部屋は、俺が使う」
「え? ……あ、そうですよね。昨日のお部屋、私がいただいてしまったから……すみません、すぐ荷物を――荷物は、ないんですけど……」
「そうじゃない」
カイは廊下に出て、帳場から持ってきた鍵束を取り出した。
十日前にこの宿で見つけた時は、どの鍵がどの扉のものか分からない、ただの錆びた鉄の束だった。掃除の合間にひとつずつ錠と突き合わせて、今は札をつけて分けてある。カイはその中から、一本を抜いた。
昨夜の、東向きの角部屋の鍵だった。
「これは、あの部屋の鍵だ。お前が持て」
リアは、差し出された鍵を見た。
手を、出さなかった。
「……私が、ですか?」
「客室の鍵は客が持つものだ。どこの宿でもそうだろう」
「でも、私、宿賃を――」
「その勘定は俺が帳面につけてる。お前が心配することじゃない」
リアはまだ、手を出さなかった。鍵とカイの顔を見比べて、それから、消え入りそうな声で言った。
「……鍵を、いただいたら、私、勝手に……その、閉めて、しまうかもしれません」
一瞬、カイは意味が取れなかった。
「閉めるための鍵だが」
「だって……」
リアの指が、服の裾を握り込んだ。
「働かせていただいてる身で、部屋に、鍵をかけるなんて……呼ばれた時に、すぐ出られなかったら……夜中に御用があるかもしれないのに、閉めてたら、その……」
カイは、黙った。
この娘の言っていることが、ようやく呑み込めたからだった。
リアの中では、部屋とは与えられるもので、扉とはいつでも開けられていなければならないものだった。夜中だろうと、呼ばれたら飛び起きて出ていく。それが、置いてもらっている人間の作法だと、体に染みついている。
食堂で働いていた、と、今朝言いかけていた。そこでこの娘がどんな部屋で寝起きしていたのか、カイは訊いていない。訊いていないが、鍵をもらって最初に出てくる言葉が「閉めてしまうかもしれません」である以上、鍵のかかる部屋で寝たことは、おそらく一度もない。
カイは、リアの手を取って握らせるようなことはしなかった。
代わりに、鍵を廊下の小机の上に、ことりと置いた。
「リア。ひとつ確認だが」
「は、はい」
「この鍵は、内側からかかる」
「……はい」
「つまり、外からお前の部屋を開けられる人間は、いなくなる。俺も入れない。それが客室ってものだ」
リアは、小机の上の鍵を見た。
「夜中の御用なんてものは、ない。あったとしても、扉を叩いて、お前が開けるまで待つ。開けたくなければ、開けなくていい。……いいか。開けなくて、いいんだ」
リアの目が、鍵の上で止まったまま、動かなくなった。
「鍵のかかる部屋ってのはな」
カイは、なるべく事務的に聞こえるように言った。事務的に言わないと、この娘は受け取れない。今朝の粥で、それは学んでいた。
「贅沢品じゃない。人間に必要なものだ。飯と、寝床と、同じ棚に並ぶものだ。だから宿は客に鍵を渡す。うちも宿だ。それだけの話だ」
長い沈黙があった。
リアの手が、ゆっくりと持ち上がった。小机の上の鍵に触れ、一度止まり、それから、壊れ物を扱うように持ち上げた。
古びた、なんの変哲もない鉄の鍵だった。
リアはそれを両手で包んで、胸の前に持っていった。今朝、熱い椀を包んだ時と、同じ手の形だった。
「……ありがとう、ございます」
声が、湿っていた。
カイは、見なかったことにして、掃除道具を持ち上げた。
「今日はもう休め。夕方になったら、飯の支度を少しだけ頼む。それが今日の宿賃だ」
「……はいっ」
返事は、廊下に明るく響いた。この娘の返事の中で、いちばんまともな音がした。
夕方前、カイは外に出た。
外灯に油を足すためだった。雨上がりの空は薄い茜色に染まり、街道の水たまりがそれを映している。カイは受け皿に油を注ぎ、芯を整えながら、ふと、建物の東側に目をやった。
リアの部屋の、窓の下あたり。
軒下の地面の色が、妙だった。
カイは油壺を置き、歩み寄った。
軒の張り出しが雨を防いだ一角にだけ、乾いた土が残っている。その上に、踏み荒らされた跡があった。昨夜の雨が輪郭を半分溶かしていたが、消えきってはいない。
足跡だった。
カイは、しゃがみ込んだ。
一人分ではない。大きさの違う靴の跡が、少なくとも二つ――いや、三つ。窓の下に集まるように残り、街道のほうへ戻っている。カイのものではない。この靴底の模様に、覚えはなかった。
昨夜か。それとも、もっと前か。
雨の中、外灯の灯りに向かって歩いてきた、あの小さな人影を思い出す。追われて、という寝入り端の囁きも。
カイは立ち上がり、足跡の向かう先――暮れ始めた灰灯街道の西の闇を、じっと見た。
宿の中から、竈に火を入れる、小さな物音が聞こえていた。厨房の窓に、夕餉の支度の明かりが揺れている。
カイは油壺を拾い上げ、外灯に火を入れてから、その明かりのほうへ戻った。




