# 007. まず飯だ
朝、雨は上がっていた。
カイは食堂の床で目を覚まし、体を起こした。窓から入る光は薄い水色で、拭き上げた床板の上に、割れ残った硝子の影を落としている。外灯の火は、夜のうちに油が尽きたのだろう、もう消えていた。
昨夜のことを、順番に思い出す。
雨。人影。冷え切った肩の軽さ。リア、という名前。
そして、眠りに落ちる寸前の、あのひと言。
――追われて。
誰に。何のために。訊きたいことは、ひと晩寝ても減っていなかった。カイは外套を畳み、竈の灰をかき起こして火を熾した。
考えるのは、それからでいい。
まず、水を汲んだ。小鍋を洗い、残りの乾燥豆をひと掴み、水に放り込んで竈にかける。豆が煮えるまでの間に食堂の窓を開け、夜気の湿りを外に出した。雨上がりの街道の匂いが入ってくる。土と、濡れた草の匂いだった。
階段の上で、床の軋む音がした。
振り向くと、リアが階段の途中に立っていた。
毛布を几帳面に畳んで胸に抱え、借り物の外套を着て、まるで叱られる前の子供のような顔で、カイを見下ろしていた。顔色は昨夜よりましだ。だが、目の下の影は、ひと晩では消えていなかった。
「お、おはようございます。あの、勝手に寝てしまって、すみません……!」
「寝ろと言ったのは俺だ」
カイは竈に向き直り、鍋をかき混ぜた。
「もうすぐ煮える。座って待て」
だが、足音は椅子に向かわなかった。おずおずと厨房のほうへ回ってきて、カイの手元を覗き込む。
「あの、私がやります。かき混ぜるのでも、火の番でも、お皿でも……昨日のぶん、働かせてください」
「客に働かせる宿があるか」
「で、でも、私、宿賃が――」
「その話は飯のあとだ」
カイは椀を二つ、棚から取った。豆の粥に、削いだ干し肉と塩を足し、椀に注ぎ分ける。湯気が二筋、朝の光の中に立ちのぼった。
長テーブルに、向かい合わせに置く。
「座れ」
リアは、座らなかった。
テーブルの脇に立ったまま、湯気の立つ椀と、カイの顔を、交互に見た。抱えた毛布を、細い指が強く握り込んでいる。
「私……昨日の夜も、いただきました。お部屋も、毛布も。これ以上いただいたら、お返しできる分を、超えてしまいます」
声は小さかったが、はっきりしていた。冗談でも、遠慮の作法でもない。返せる分と受け取る分を、本気で量っている顔だった。
カイは椀を置いたまま、リアを見た。
痩せた頬。骨の浮いた手首。昨夜、腕に受け止めた時のあの軽さ。この体は、昨日今日の空腹で出来上がったものではない。ずっと前から、この娘は「返せる分」しか口にしてこなかったのだろう。
そして誰も、その天秤を取り上げてやらなかった。
「リア」
名前を呼ぶと、リアの背筋が、びくりと伸びた。
「まず飯だ」
「……え?」
「話は、それからだ。返すとか返せないとかの勘定も、それからだ。冷めた粥は不味い。不味い飯を客に食わせたら、宿の恥だ。だから食え。座って、熱いうちに」
理屈になっているようで、なっていない自覚はあった。だが、この娘に「受け取っていい」と正面から言っても、届かない気がした。それなら、食べないことのほうが迷惑なのだと、順番をひっくり返してやるほうが早い。
リアは、口を半分開けたまま、カイを見ていた。
やがて、毛布を椅子の背にそっと置き、腰を下ろした。
「……いただきます」
匙が、粥をすくう。
最初のひと口は、昨夜と同じように小さかった。ふた口目も小さかった。だが、三口目をすくった時、リアの手が止まった。
「……おいしい」
呟いてから、自分の声に驚いたように、はっと顔を上げる。
「あ、いえ、その、昨日のも、おいしかったです! ただ、その、昨日は、味が、よく分からなくて……」
「だろうな」
カイは自分の椀に口をつけた。
「凍えてる舌は、味が分からない。今朝は分かる。つまり、少しはましになったってことだ」
リアは目を瞬かせ、それから、俯いて、また匙を動かした。
食べる速さが、少しずつ上がっていく。昨夜のような、泣きながらの必死さではなかった。ちゃんと噛んで、ちゃんと味わって、時々湯気に目を細める。そういう食べ方だった。
カイは自分の粥を食べながら、視線は窓の外に置いていた。
見ていないふりをしているほうが、この娘はよく食べる。昨夜、それを覚えた。
食堂に、匙が椀に当たる音だけが続いた。
悪くない音だった。この十日、この建物の中で鳴る音は、カイが立てる音だけだった。金槌の音、箒の音、自分の足音。それが今朝は、向かいから、自分のものではない生活の音がする。
粥の減りに合わせて、リアの姿勢から、少しずつ強張りが抜けていった。
「……あの」
椀の底が見えるころ、リアが口を開いた。
「このお宿は、カイさんが、お一人で?」
昨夜、部屋に案内する時に名乗った名前を、覚えていたらしい。
「ああ。十日前に来たばかりだ。見ての通り、まだ半分壊れてる」
「そんなこと……! お掃除、すごく行き届いてます。床も、窓も、この机も」
リアは言ってから、テーブルの天板を撫でて、脚の酒樽に気づき、それから慌てて付け足した。
「この樽も、その、しっかり噛ませてあって……」
「無理に褒めなくていい」
「ほ、本当です! 私、食堂で働いていたので、分かります。手を入れてある店と、諦めてる店は、床を見れば――」
そこまで言って、リアは口をつぐんだ。
食堂で働いていた。自分の過去に、言葉が触れたからだろう。視線がすっと下がり、匙を持つ手が膝に落ちた。昨夜の「追われて」という囁きが、カイの耳の奥でまた鳴った。
訊くなら、今だった。
どこの食堂だ。なぜ辞めた。誰に追われている。問いはすぐそこに並んでいて、宿の主として、訊く権利くらいはあるはずだった。
カイは、口を開いた。
「――皿、下げるぞ。もう食わないなら」
リアが、顔を上げた。
「え……あ、はい。ごちそうさま、でした」
空の椀を両手で差し出しながら、リアは何かを探すような目でカイを見た。訊かれると思っていたのだろう。その目が、戸惑うように揺れた。
カイは椀を受け取り、厨房の桶に運んだ。
過去は逃げない。だが、せっかく戻った血色を、朝から引っ込めさせる理由もない。話したくなったら話すだろうし、話さないなら、それはそれで宿の客として扱いに変わりはなかった。
井戸水で椀をすすいでいると、背中に、ためらいがちな声が届いた。
「あの……カイさん」
「なんだ」
「私……その……」
言葉が、途切れた。
振り向くと、リアは空になった自分の席の前に立って、両手でエプロンでも探すように服の裾を握っていた。大きな目が、カイを見て、床を見て、もう一度カイを見る。
「ここに、いても――」
そこで、リアは唇を閉じた。
言いかけた言葉を、自分の手で摘み取るように、口の中へ戻してしまった。代わりに出てきたのは、小さく折り畳まれた、いつもの言葉だった。
「……お皿、拭かせてください」
カイは、濡れた椀を持ったまま、しばらくリアを見ていた。




