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# 006. 雨の夜の迷い人

扉を開けた途端、雨が横から吹き込んできた。


カイは腕で顔を庇いながら、外灯の下へ走り出た。冷たい雨が首筋を伝う。数歩で、シャツが肌に貼りついた。


人影は、灯りの端まで来ていた。


近づいて、カイは息を呑んだ。


小さい。若い娘だった。外套も持たず、擦り切れた服が水を吸って体に絡みついている。栗色の髪が濡れて頬に貼りつき、その下の顔は、雨の夜だというのに紙のように白かった。


娘はカイに気づき、びくりと足を止めた。


一歩、後ずさる。濡れた足元がもつれ、体が傾いだ。


「おい――」


カイが駆け寄るのと、娘が崩れるのが、ほとんど同時だった。伸ばした腕が細い肩を受け止める。驚くほど軽く、そして、驚くほど冷たかった。


「すみま、せん……すみません……」


腕の中で、娘は掠れた声を絞り出した。


「あの、私、宿賃が……お金が、なくて……すぐ、行きますから……」


「いいから」


カイは短く言って、娘の腕を自分の肩に回した。


「歩けるか。歩けないなら、そう言え」


娘は答えの代わりに、また「すみません」と言った。足は動いていた。動いてはいたが、カイが支えていなければ、三歩ももたなかっただろう。


扉をくぐり、中に入れて、閂を下ろす。


雨音が、一段遠くなった。


カイは娘を竈のいちばん近くの椅子に座らせた。修理したばかりの、あの椅子だ。娘は座らされたことにも謝ろうとして、唇が震えて言葉にならなかった。


まず、火だ。


カイは竈の残り火に薪を足し、火吹き竹で強く吹いた。熾火が薪を舐め、炎が立ち上がる。それから二階へ駆け上がり、自分の外套と、掃除の時に見つけて洗っておいた古い毛布をつかんで下りた。


「これに替えろ。濡れたままだと死ぬぞ」


乾いた布の束を差し出すと、娘は目を見開いた。


「で、でも、これ、汚してしまいます……」


「布は洗える。人は洗っても治らない」


カイは背を向け、厨房に入った。着替えの間、見ないでいてやるのと、湯を沸かすのと、両方に都合がよかった。


小鍋に井戸水を張り、竈にかける。棚から椀を取り、それから、食料の袋を開けた。硬いパン。干し肉。乾燥豆は、戻す時間がない。カイは干し肉を小刀で細かく削ぎ、パンをちぎって、沸きかけた湯に放り込んだ。塩を一つまみ。スープと呼ぶのもおこがましい、ただの塩気のある粥のようなものだった。


だが、熱い。今のあの娘に要るのは、味ではなく熱だった。


厨房から声をかける。


「着替えたか」


「……は、はい。あの、お借りして、すみません……」


戻ると、娘は毛布にくるまって椅子に座っていた。濡れた服は、椅子の背に几帳面に掛けてある。この期に及んで、脱いだ服の皺を伸ばしてあった。


カイは湯気の立つ椀を娘の前に置いた。


長テーブルの、酒樽を噛ませた側。傾きを直したこのテーブルに最初に載ったのが、自分の飯ではなく客の椀になった。それは、悪くない気がした。


「食え。熱いから、ゆっくりでいい」


娘は椀を見た。それから、カイを見た。大きな目だった。その目に、湯気越しに、怯えと、空腹と、それから信じられないものを見るような色が、順番に浮かんだ。


「……いただいて、いいんですか」


「そのために出した」


娘は椀を両手で包んだ。冷え切った指を温めるように、しばらくそのまま動かなかった。指先は白を通り越して、ところどころ赤紫になっていた。


最初のひと口は、ほんの少しだった。


ふた口目は、少し大きかった。


三口目で、娘の肩が小さく揺れた。俯いた顔から、椀の中に、雨とは違う滴が落ちた。娘は慌てて袖で目元を拭い、「すみません」と言い、また食べた。食べながら泣き、泣きながら謝り、それでも匙は止まらなかった。


カイは何も言わず、竈に薪をもう一本足した。


泣くのを見ないでいてやるには、火の世話がちょうどよかった。王都の同僚なら、ここで事情を訊いただろう。どこから来た。名前は。金は。身元は。まっとうな問いだ。宿としては、訊くのが正しい。


だが、椀の中身が半分になるまで、カイは何も訊かなかった。


質問は、腹に何か入ってからでいい。答えなど、どうせ逃げない。


娘が食べ終えるころには、頬にわずかだが色が戻っていた。竈の火が、濡れた栗色の髪を乾かし始めている。


「……あの」


娘が、椀を置いて、口を開いた。


「本当に、ありがとうございました。お金は、その、必ず……働いて、お返しします。皿洗いでも、掃除でも、何でもしますから――」


「今夜はしなくていい」


カイは遮った。娘の体が、びくりと縮む。カイは、自分の声が硬すぎたことに気づいて、少しだけ緩めた。


「その体で働かせたら、こっちの寝覚めが悪い。話も、明日でいい。今夜は食って、寝ろ。それだけだ」


「でも……」


「ここは宿だ」


カイは、自分でも意外なほど自然に、その言葉を口にしていた。


「客が飯を食って寝るのに、理由は要らない」


娘は、口を開けたまま、何も言えなくなった。


その顔を見て、カイは目を逸らし、椀を下げに立った。宿だ、と言った自分の言葉が、胸の内でまだ鳴っていた。皿六枚。寝られる部屋はひとつ。それでも、言ってしまったものは、もう戻らない。


二階の、東向きの角部屋に案内した。


自分が使うつもりで整えた、唯一まともな部屋だった。カイは今夜も食堂の床で寝ればいい。もう慣れた。


「ここを使え。寝台は硬いが、床よりましだ」


娘は部屋の入口で立ち尽くした。掃除された床と、埃を払われた寝台を、まるで宮殿の一室のように眺めていた。


「私……お金、本当に、持っていなくて……」


「聞いた。三回目だ」


カイは毛布をもう一枚、寝台の上に置いた。


「明日の朝、行きたいところがあるなら送り出す。ないなら、その時に考えればいい。どっちでも、まず寝てからだ」


娘はゆっくりと寝台に腰を下ろした。体から、張り詰めていた何かが抜けていくのが、傍目にも分かった。安心した途端に、限界が追いついてきたのだろう。目蓋が、もう落ちかけている。


カイが部屋を出ようとした時、背後で小さな声がした。


「……リア、といいます」


振り返ると、娘は毛布の端を握ったまま、半分眠りに落ちながら、囁くように続けた。


「名乗りも、しないで……すみません……私……」


言葉が、途切れた。


眠ったか、と思った。


「……追われて……」


それだけを漏らして、リアと名乗った娘の呼吸は、深い眠りのものに変わった。


カイは戸口に立ったまま、動かなかった。


――追われて。


雨は、まだ屋根を叩いている。


カイは静かに扉を閉め、階段を下りた。食堂の窓の外で、外灯の火が雨に滲んで揺れていた。あの灯りが、この娘をここまで連れてきた。


だとしたら、あの灯りを見たのは、この娘だけだろうか。


カイは窓辺に立ち、雨の向こうの闇を、しばらく見ていた。


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