# 005. 火を入れる
油は、受け皿の半分ほどで注ぐのをやめた。
多すぎれば溢れ、少なすぎれば朝までもたない。適量など知らなかったが、体が勝手に「半分」で手を止めた。足りなければ、足せばいい。
カイは焼け残った芯を指でつまみ、炭化した先端を小刀で削り落とした。新しい繊維が覗くまで削り、油に浸し、受け皿の中央に立て直す。硝子の内側をもう一度拭い、覆いの蝶番が滑らかに動くことを確かめた。
あとは、火を移すだけだった。
カイは懐から火口箱を出し――そこで、手が止まった。
指が動かなかったわけではない。動かす前に、もう一度だけ考えたのだった。
この灯りは、誰の目にも入る。
疲れた旅人の目にも。そうでない者の目にも。灯った火は、選ばない。札に彫られていたあの言葉は、選ばないと決めた人間の言葉だ。
備えはない。皿六枚。薪ふた月。寝られる部屋はひとつ。守る腕っぷしなど、最初からない。王都で書類を運んでいた男の手には、剣ではなく、鍵束と帳面しか馴染んでいない。
灯さない理由なら、いくらでも並んだ。
カイは、並んだ理由を順番に眺めた。眺めながら、気づいた。この理由の並べ方に、覚えがある。
王都で、見てしまった書類から目を逸らした夜。あの夜も、こうやって理由を並べた。自分は見習いに過ぎない。証拠が足りない。誰も味方しない。動かない理由はどれも正しくて、正しいまま、カイは動かなかった。
そして、動かなかった自分だけが残った。
――理由は、もういい。
カイは火口箱を打った。
火花が散り、火口が赤く熾る。細い付け木に火が移り、小さな炎が立った。風に消されないよう手のひらで囲い、硝子の覆いの中へ差し入れる。
芯が、火を受け取った。
一度、ふ、と細って、消えるかに見えた。カイは息を止めた。芯は油を吸い上げ、それから、確かな炎を立てた。
カイは付け木を引き抜き、覆いを閉じた。
硝子の中で、火が揺れている。
たったそれだけの火だった。囲炉裏の火より小さく、竈の火より頼りない。だが、暮れきった旧街道の闇の中で、その火はカイが思っていたよりもずっと遠くまで、光を投げた。
外灯の足元に、カイ自身の影が長く伸びる。宿の壁が、扉が、傾いた看板が、橙色に浮かび上がる。
灯り木亭が、闇の中に、形を持って立っていた。
カイはしばらく、灯りの届く端を目でたどった。光は街道の路面を照らし、二十歩ほど先で夜に溶けている。あの境目の向こうから見れば、この火はどう見えるのだろう。
それを確かめる者は、その夜は現れなかった。
翌る夜も、カイは火を入れた。
昼のあいだに客室をもうひとつ掃除し、雨漏りの梁に当て木をし、日が暮れると外に出て、芯を整え、油を注ぎ、火を移した。誰も来なかった。
その次の夜も、灯した。
夜半に一度、外灯の火が消えていないかを確かめに起きる癖がついた。食堂の窓から橙色の明かりが見えると、カイは寝床に戻った。誰のためでもない火を、なぜ確かめるのか、自分でもうまく説明はつかなかった。
ただ、消えていると思うと、落ち着かなかった。
四日目の夕方、空の色が変わった。
西から灰色の雲が押し出してきて、日暮れを待たずに街道を暗くした。風が湿り、薪小屋の戸がばたばたと鳴った。カイは戸に閂を下ろし、割れた窓に打ちつけた板の釘を確かめて回った。
夜になって、雨が来た。
最初は屋根を叩く疎らな音だった。それが半刻もしないうちに、途切れない響きに変わった。当て木をした梁の下に桶を置いたが、水は落ちてこなかった。昼間の仕事は、無駄ではなかったらしい。
カイは食堂の椅子に腰を下ろし、竈の残り火で湯を沸かした。
湯を飲みながら、窓の外を見る。
雨の膜の向こうで、外灯の火が滲んでいた。
風が硝子の覆いを鳴らし、火はそのたびに身をよじる。だが、消えない。油はさっき足したばかりだ。芯も整えてある。この雨と風の夜に、あの小さな火だけが、街道でただひとつの色だった。
――こんな夜に、あの道を歩く者はいない。
カイは椀の湯に口をつけた。
いないと分かっていて、それでも灯した。三夜続けて誰も来なかった火を、四夜目も灯した。理由を訊かれたら、答えられる言葉はまだ持っていない。強いて言うなら、あの走り書きの人物と、自分との間の約束のようなものだった。会ったこともない相手との、一方的な。
風が、ひときわ強く鳴った。
外灯の火が大きく揺れて、カイは窓に顔を寄せた。火は持ち直した。ほっとして、視線を戻しかけた、その時だった。
灯りの届く、いちばん端。
光と闇の境目に、何かが動いた。
カイは椀を置いて、立ち上がった。
雨の膜のせいで、輪郭は定かでない。獣か、風に飛ばされた枝か。目を凝らす。
違った。
人だった。
小さな人影が、雨に打たれながら、街道をこちらへ歩いてくる。歩くというより、傾いだ体を一歩ごとに立て直しながら、外灯の光に向かって、よろめき進んでくる。
カイは扉へ走った。




