# 004. 灯宿りの掟
カイは外灯に歩み寄った。
近くで見ると、支柱の錆は思ったより浅かった。表面が赤茶けているだけで、芯はまだ硬い。手のひらで叩くと、鈍い、しかし詰まった音が返ってくる。倒れる心配はなさそうだった。
硝子の覆いは蝶番で開く造りになっていた。留め金は固着していたが、何度か揺らすと軋みながら外れた。中の受け皿に溜まった枯れ枝と埃を掻き出し、泥で曇った硝子を袖で拭う。
受け皿の中央に、焼け残った芯があった。
短い。だが、まだ使える長さだった。宿帳の走り書きは、嘘をついていなかったわけだ。
覆いを閉じようとして、カイの指が止まった。
支柱の根元、ちょうど膝の高さに、何かが結びつけてあった。
雨ざらしで黒ずんだ、木の札だった。麻紐は朽ちかけ、触れると千切れて、札がカイの手の中に落ちた。
表面は風化して、彫られた文字の大半は読めない。カイは札を夕日にかざし、角度を変えた。彫りの溝に残った影が、かろうじて文字の形を結ぶ。
「……ともし木の、もとに……」
そこから数文字は潰れていた。読めるのは、その先の短い一節だけだった。
「迷い人を、拒まず」
カイは札を持ったまま、しばらく動かなかった。
似た言葉を、聞いたことがあった。ずっと昔だ。王都に出る前、子供のころ。冬の夜に、年寄りが囲炉裏端で話していた。旅の途中で日が暮れたら、灯りのともった宿を探せ。外灯をともす宿は、夜に戸を叩く者を追い返さない。それが灯宿りだ――と。
御伽噺の類だと思っていた。王都に、そんな宿はなかった。王都の宿は、夜半に戸を叩けば、まず金額を訊く。払えなければ、扉は開かない。それが当たり前で、疑ったこともなかった。
カイは札を裏返した。
裏には、表よりも深く、短い文字が彫られていた。こちらは読めた。
「一夜の雨風。問わず。選ばせよ」
三つの言葉が、単語のまま並んでいる。彫った者は、長い文を残すつもりがなかったのだろう。あるいは、これだけで足りたのだ。この札を読む人間には、これだけで通じた時代があった。
はじめの二つは、すぐに分かった。一晩の雨風をしのがせ、客の過去を問わない。あの宿帳の「熱。三日逗留。粥」と、同じ側の言葉だ。
最後のひとつだけ、カイにはすぐに意味が取れなかった。何を選ばせるのか。札はそれ以上、何も言わなかった。
カイは札を握ったまま、宿を振り返った。
灯り木亭。
昨日から何度も目にした看板の名前が、初めて名前として意味を持った。灯り木。ともし木。この宿の名は、飾りでつけられたものではなかった。外灯こそが、この宿の看板だったのだ。
宿帳のあの厚みを思い出す。行商人、石工、巡礼、字の書けない誰か。あの名前の列の中には、夜更けにあの外灯だけを頼りに、この扉を叩いた者が何人もいたはずだった。
金を先に訊かれていたら、あの帳面の行の何割が消えていただろう。
カイは札の紐を新しく結び直すことにして、ひとまず懐に入れた。それから、思い出したことがあって、宿の中へ戻った。
床下だ。
帳場の裏、厨房との境の床に、一枚だけ色の違う板があった。掃除の時に気づいてはいたが、後回しにしていた。指をかけて持ち上げると、板は素直に外れた。
暗がりの中に、素焼きの壺が三つ、並んでいた。
ひとつを持ち上げると、ずしりと重い。蓋を取ると、澄んだ油の匂いが立った。灯し油だ。埃ひとつ入っていない。蓋の合わせ目には布が巻かれ、丁寧に封がしてあった。
三つとも、同じように封がされていた。
去っていく人間が、最後にやった仕事がこれだった。売れば路銀になったはずの油を三壺、床下に隠し、宿帳に一行だけ書き残して、この宿を出た。
――誰か来たら、灯してやってくれ。
カイは壺をひとつ抱え、床板を戻して、外に出た。
日は、街道の果てに沈みかけていた。西の空の赤は上端から藍色に食われ始め、東の空には、もう星が出ている。
外灯の前に立つ。
油壺を足元に置き、カイは曇りの取れた硝子を見上げた。
灯すのは、簡単だ。油を注ぎ、芯を立て、火を移す。作業としては、それだけのことだった。
だが、と、カイは思う。
あの札が本当なら、この火は照明ではない。夜道の果てからこの灯りを見た者に向かって、「ここは拒まない」と告げる合図だ。一度掲げれば、誰が来ても、その言葉の側に立たされる。
来るのが、疲れた旅人だとは限らない。
それに――カイは自分の帳面の中身を思い浮かべた。皿六枚。薪ふた月ぶん。食料は、自分ひとりが当面食いつなぐ量。寝られる部屋は、ひとつ。
誰かを拒まないと言える備えが、今のこの宿のどこにある。
王都でのことが、ふと胸の底で疼いた。何もしないことにも、理由はつけられる。理由をつけるのは、いつだって簡単だった。
カイは、油壺の蓋に手をかけたまま、暮れていく灰灯街道を見た。
道は、藍色の闇に沈みかけている。この道を今夜歩く者など、いないのかもしれない。何年も前から、いなかったのかもしれない。
それなら、この火は誰のためのものでもない。ただの油の無駄だ。
――それなら、なぜあの人は、油を三壺も残していった。
カイは蓋の布を解き、壺を持ち上げた。
冷たい油が、とくり、と受け皿に落ちる音がした。




