# 003. まず掃除だ
最初の夜は、食堂の床で眠った。
二階の寝台は埃と黴で使いものにならず、敷布もない。カイは持ってきた外套にくるまり、壁を背にして目を閉じた。屋根裏で何かが走る音を二度聞いた。鼠だろう。それも、直すべきものの一覧に加わった。
目が覚めると、割れた窓から朝の光が斜めに入っていた。
体のあちこちが硬い。カイは首を回し、肩を回し、それから立ち上がって、広間の真ん中に立った。
朝の光の下で見る宿は、昨日より正直だった。埃の厚さ、床の傷、テーブルの傾き。夕方の赤い光がごまかしていたものが、全部そのまま見えている。
普通なら、ここで途方に暮れるのだろう。
カイは腰の帳面を抜き、頁を開いた。
――全部は無理だ。全部やろうとした奴から潰れる。
王都の行政院で、山積みの書類を前にした時と同じだった。順番をつける。今日できることと、今日やらなくていいことを分ける。それだけで、山は山でなくなる。
カイは帳面に書いた。
一、寝る場所。
二、火と水。
三、食う場所。
それ以外は、あと。
まず井戸から始めた。
裏庭に出て、桶を落とし、水を汲み上げる。上がってきた水は最初こそ濁っていたが、三度汲むと澄んだ。手ですくって匂いを確かめ、指先で舐める。土の味はするが、腐ってはいない。
「……上等だ」
誰もいない裏庭で、カイは呟いた。水が生きているなら、この宿は生きている。
井戸の隣に、屋根の低い小屋があった。薪小屋だ。扉を開けると、中は半分ほど空だったが、奥に古い薪が積まれたまま残っていた。表面は白っぽく乾いている。何年も前のものだろうが、乾いた薪は乾いた薪だ。むしろよく燃える。
蜘蛛の巣を払い、崩れかけた薪の山を積み直す。数を目で数え、帳面に書き留めた。ひと月――いや、火を節約すれば、ふた月はもつ。
次は厨房だった。
竈の中に溜まった灰と鳥の巣の残骸を掻き出し、煙突の詰まりを長い枝でつついて落とす。試しに小枝を燃やしてみると、煙は最初こそ部屋に逆流しかけたが、やがてまっすぐ煙突へ吸い込まれていった。
火が、竈の中で小さく立っている。
カイはしばらく、その火を眺めた。廃屋の竈に火が入っただけで、厨房は厨房の顔になった。建物というのは不思議なもので、水と火が通った途端、死体から病人くらいには戻る。
――病人なら、治しようがある。
棚の食器を全部下ろし、井戸の水で洗った。欠けたものと使えるものを分ける。皿が六枚、椀が四つ、大鍋がひとつ、小鍋がひとつ。スプーンの類はほとんど錆びていたが、二本は磨けば使えそうだった。
使える食器を数えながら、カイはふと手を止めた。
皿が、六枚。
一人で使うには多い数を、当たり前のように「使える」の側に積んでいた。カイは自分の手元を見下ろし、それから小さく息を吐いて、六枚とも棚に戻した。洗ってしまったものを、いまさら埃の側に戻す理由もない。
昼は、持ってきた携行食を井戸の水で流し込んだ。硬いパンと干し肉。座って食べようとして、座れる椅子がないことに気づいた。
「……次は椅子だな」
広間に残った椅子を全部並べ、ましな二脚を選んだ。座面の抜けた一脚は、別の壊れた椅子から外した板を渡して塞ぐ。がたつく脚には、削った木片を噛ませた。腰を下ろすと、椅子はわずかに軋んだが、耐えた。
長テーブルは、折れた脚の代わりに酒樽を噛ませて水平を出した。見てくれは悪い。だが、拭き上げた天板に手を置くと、しっかりと体重を受け止めた。
午後は、二階に上がった。
四つの客室のうち、窓が割れていない部屋がひとつだけあった。角の、東向きの部屋だ。カイはその一室に狙いを定めた。全部の部屋を直すのは、あとでいい。今夜まともに眠れる部屋が、ひとつあればいい。
床を掃き、壁を拭き、寝台の木枠を叩いて埃を落とす。木枠は頑丈だった。安宿の寝台は最初に壊れるものだが、この寝台は太い木を惜しみなく使ってある。建てた人間が、客の眠りをけちらなかった証拠だった。
敷布はないから、今夜も外套にくるまることになる。それでも、床と寝台では話が違う。
掃除をしながら、カイは何度も手を止めて、細かいものを拾った。
寝台の下から出てきた、子供の靴の片方。壁の釘に掛かったままの、色の褪せた布飾り。窓枠に彫られた、小さな文字。誰かの名前の頭文字らしい、拙い彫り跡。
そのどれも、カイは捨てなかった。ひとまず空の木箱に入れ、部屋の隅に置いた。持ち主はもういない。だが、ゴミかどうかを決めるのは、今日でなくてもいい。
日が傾き始めたころ、カイは雑巾を桶の縁に掛け、腰を伸ばした。
広間を見回す。
埃の膜が剥がれた床。水平になった長テーブル。座れる椅子が二脚。火の通る竈。棚に伏せた六枚の皿。
まだ宿とは呼べない。呼べないが、昨日までの「廃屋」でもなかった。人がひと晩、屋根の下で眠り、朝に湯を沸かせる場所。最低限、そこまでは戻った。
カイは帳面を開き、今日の項目に線を引いた。線を引く瞬間だけ、王都にいたころと同じ手つきになる。違うのは、線を引いた先に、また自分で書いた次の行があることだった。
誰かに割り振られた仕事ではなかった。ここでは、明日やることを決めるのも自分だ。その当たり前のことが、妙に手に馴染んだ。
夕方の空気を入れ替えようと、カイは正面の扉を開けて外に出た。
西の空が、燃えるような色をしていた。灰灯街道が、赤い光の中をまっすぐ西へ伸びている。人影はない。今日も、この道を通った者はいなかった。
振り返ると、灯り木亭が夕日を受けて立っていた。
傾いた看板。それでも、開いた扉の奥に、掃除の済んだ広間がある。外から見ると、それは思いのほか、建物の顔つきを変えていた。
その時、カイの目が、宿の前で止まった。
外灯だった。
昨日、着いた時に見た、あの死んだ外灯。掃除に追われて、一日、視界の隅に置いたままにしていた。
鉄の支柱は錆びてはいるが、まっすぐ立っている。硝子の覆いは泥で曇り、中の受け皿には枯れ枝と埃が積もっていた。
――油はまだ床下にある。
宿帳の、あの細い文字がよみがえった。
誰か来たら、灯してやってくれ。
カイは、暮れていく街道と、消えたままの外灯を、交互に見た。




