# 002. 宿帳の空白
革の表紙は、見た目より重かった。
カイは宿帳を両手で引き出し、台の上に置いた。積もっていた埃が舞い上がり、窓から差す夕方の光の中で渦を巻く。カイは袖で口元を覆い、埃が落ち着くのを待った。
表紙に文字はない。ただ、長年の手垢で革の中央だけが黒く艶を帯びている。何百回、何千回と、誰かの手がここを開いてきた跡だった。
カイは表紙をめくった。
紙は黄ばみ、端が脆くなっていたが、文字は読めた。
日付。名前。出発地。行き先。
几帳面な字もあれば、ひどく崩れた字もある。字を書けないのか、名前の代わりに小さな丸や、鳥のような印を残している者もいた。それでも一行は一行だった。誰かがここに来て、一晩眠り、朝に発っていった。その一晩ぶんの重さで、行が埋まっている。
カイはページをめくり続けた。
行商人らしき名前が続く時期があった。同じ名前が数ヶ月おきに現れる。決まった道を、決まった季節に往復していたのだろう。西の鉱山町の名が行き先の欄に何度も出てくる時期もあった。荷馬車の御者、石工、旅芸人の一座らしき連名。巡礼。薬売り。
――これだけの人間が、この道を歩いていたのか。
今日、カイが灰灯街道で見たものは、途切れた石畳と、崩れた宿場跡と、傾いた道標だけだった。人には一人も会わなかった。
だがこの帳面の中では、道はまだ生きていた。
ある冬のページに、インクの滲んだ一行があった。名前の横に、別の手跡で短い書き込みがある。
「熱。三日逗留。粥」
宿の人間が書き足したものだろう。倒れた客を三日置いて、粥を出した。それだけの記録だった。その客の名前は、翌年の春のページにもう一度現れていた。行き先の欄には、来た時と同じ町の名前が書いてある。
無事に帰って、また通ったのだ。
カイは、その行を指でなぞりかけて、やめた。紙が脆い。触れば崩れそうだった。
ページを進めるにつれ、行の間隔が広がっていった。
一日に数組あった客が、数日に一組になる。季節が変わっても同じ名前は戻ってこなくなる。行き先の欄に並んでいた西の町の名前が減り、代わりに「南回りへ」という走り書きが増えた。
南回り。カイは辞令と一緒に渡された地図を思い出した。新街道は、南の平野を抜ける。
やがて、月に一行になった。
年に、数行になった。
そして、あるページの途中で、行は終わっていた。
最後の客の名前の下に、少しの余白を置いて、明らかに客のものではない筆跡があった。宿帳の升目を無視して、ページの下半分に斜めに書かれている。インクは薄く、慌てて書いたのか、それとも書く手に力が残っていなかったのか、線が細かった。
はじめの一行は、雨にでも濡れたのか、インクが滲んで判読できなかった。読めたのは、その下だけだった。
「油はまだ床下にある。誰か来たら、灯してやってくれ」
署名はなかった。
カイはその一行を、しばらく黙って見ていた。
前の管理人が、いつ、どんな事情でここを去ったのか、カイは知らない。引き継ぎの書類にも、そんなことは書かれていなかった。「灯り木亭 管理人交代」という一行と、判があっただけだ。王都の書類の上では、この宿は備品のひとつでしかなかった。
だが、去った人間は、油の場所を書き残していった。
自分のためではない。もう二度と戻らないつもりの人間が、床下の油の心配をする理由は、ひとつしかなかった。
――誰か来たら、か。
カイは顔を上げ、広間を見回した。
脚の折れた長テーブル。座面の抜けた椅子。雨漏りの染みた梁。埃と、カビの匂い。さっきまで、直すべき箇所の一覧でしかなかった広間が、少しだけ違って見えた。
ここは潰れたのではなかった。道が死んで、客が来なくなって、それでも最後まで、誰かが灯す側に立っていた場所だった。
カイはその先のページをめくった。
空白だった。
その次も。その次も。升目だけが並んだページが、束になって残っている。誰の名前も書かれないまま黄ばんでいった紙が、帳面の残り半分を占めていた。
カイは空白のページの上に、手のひらを置いた。
紙は冷たかった。だが升目は、まだ行を待つ形のまま並んでいる。名前が書かれるのを待つ形のままで、何年もここにあった。
王都で、カイは毎日書類を作っていた。作った書類がどこへ行き、誰の役に立つのか、最後まで分からなかった。自分の名前は、どの書類にも残らなかった。代わりはいくらでもいる。実際、代わりが今ごろカイの机に座っているだろう。
この帳面は違う。ここに書かれた名前は、一つずつ、その夜ここに人がいたという証だった。
カイは宿帳を閉じた。
埃を袖で拭い、表紙の革を軽く払ってから、台の中央に戻す。傾けず、まっすぐに。明日、台そのものを磨く時に、また持ち上げればいい。
――床下の油は、明日確かめよう。
外で、風が鳴った。
傾いた看板が軋む音が、扉の向こうから届いた。折れた支柱が風に押されて、ぎ、ぎ、と間隔を置いて鳴っている。まるで長いこと呼ばれなかった名前を、掠れた声で呼び直しているような音だった。
カイは帳場の台から離れ、扉のほうへ目をやった。
日は、もうすぐ落ちる。




