# 001. 左遷先は廃宿だった
石畳が、途中で途切れていた。
カイは足を止め、靴先で敷石の縁を軽くつついた。その先は土がむき出しになり、雨に削られた轍だけが道の名残をつないでいる。王都の大通りなら、こんな穴はひと晩で埋められる。ここでは、誰も埋める気がないらしい。
灰灯街道――かつては王都と西の辺境を結ぶ主街道だったと、辞令に添えられた地図には書いてあった。今は、道の両側から伸びた雑草が石畳の隙間を割り、傾いた道標が「あと二里」と読めるような読めないような文字を晒しているだけだ。
カイは背負った荷を担ぎ直し、また歩き出した。
王都の道は、朝になれば掃かれていた。誰かがそれをやっていることに、カイは気づいてもいなかった。今は、それをやる人間がいないというだけで、道がどれほど早く死んでいくかを、靴の裏で学んでいる。
道の脇に、崩れた宿場の跡があった。屋根はとうに落ち、柱だけが黒く朽ちて立っている。かつては旅人がここで馬を替え、飯を食い、眠ったのだろう。今は蔦が窓枠を締め上げ、中を覗く気にもさせない。
――こういう場所が、この先にいくつあるんだろうな。
考えても仕方のないことだった。カイは目的地の名前を、もう一度頭の中でなぞる。
灯り木亭。
辞令の文字を思い出すと、指の先が微かに強張った。羊皮紙の硬さ、判の重み、上司の顔を見ないまま受け取った書類の感触。三日前まで、カイは王都の行政院で文官見習いとして働いていた。その先を思い出すのは、今はまだ早い。
大事なのは、これからだ。
道の向こうに、建物の影が見えた。
看板は、支柱が一本折れて斜めに傾いでいる。文字はほとんど消えかけていたが、木の板に刻まれた跡の凹凸だけが、かろうじて「灯り木亭」と読める形を保っていた。
宿の前に立つ外灯は、火の入っていない硝子の中に、埃と枯れ枝の影を溜め込んでいるだけだった。昼間だからというより、もう長いこと灯された記憶がないという顔をしている。
カイはしばらく、その傾いた看板と、死んだ外灯を見上げた。
――ここか。
落胆はしなかった。落胆するには、王都を出てからの数日で、覚悟という言葉の意味を体に刷り込みすぎていた。カイがしたのは、ただ荷を下ろし、扉に向かって歩くことだけだった。
扉は、押すと軋んだ。蝶番が錆びて、開くたびに小さく悲鳴を上げる。カイはその音を聞きながら、頭の中で無意識にひとつ数えた。
――蝶番、油。
まず直すべきものが、ひとつ増えた。
中に入ると、埃の匂いが鼻を突いた。カビの匂いも混じっている。差し込む光の筋の中を、埃がゆっくりと舞っていた。
正面は、かつて食堂だったらしい広間だった。長テーブルが二つ、脚の一本が折れて傾いたまま放置されている。椅子は数えるほどしか残っておらず、残った椅子も座面が抜けていた。
カイは天井を見上げた。梁の一部が黒ずんでいる。雨漏りの跡だ。指で触れると、湿った木がわずかに軟らかい。
――ここも直さないと保たない。
嘆きたい気持ちがなかったわけではない。だが、それを声に出したところで、屋根が直るわけではなかった。カイは黙って広間を横切り、奥へ進んだ。
厨房は、思ったよりましだった。竈は煤で黒くなっているが、崩れてはいない。壁際の棚には欠けた食器が並び、井戸へ続く裏口の扉も、開けてみれば重いだけで壊れてはいなかった。
裏庭に出ると、井戸があった。縄を垂らして桶を落とすと、しばらくしてから水音が返ってきた。涸れてはいない。カイは短く息を吐いた。今日、いくつか確認した中で、初めて安心できる音だった。
客室へ続く階段は、上るたびに軋んだ。一段一段、体重をかける場所を変えて確かめながら上る。踏み抜けば怪我をするのは自分だ。二階には四つの部屋があり、扉はどれも開いたが、寝台の上に敷布はなく、埃を被った木枠だけが残っていた。窓の一枚は割れ、そこから吹き込んだ風が、床に積もった枯れ葉を静かに揺らしている。
カイは部屋の一つに入り、寝台の縁に手を置いた。木は硬く、冷たい。
――誰かが、ここで眠っていた時期があったんだろうな。
そう思ったのは、根拠があったわけではない。ただ、四つの部屋という数が、一人二人が寝泊まりするための建物ではないことを示していた。
一階に戻り、広間の奥にある小さな一角に、カイは足を止めた。
木製の台。腰の高さほどの、宿の帳場に置かれるべき台だった。表面には彫刻の名残があり、かつては丁寧に磨かれていたことが分かる。今はその上に、灰色の埃が均等に積もっているだけだ。
台の下、引き出しの隙間から、革の背表紙のようなものが覗いていた。
カイは膝を折り、埃を吹き払った。革は乾き、端がめくれ上がっている。だが、崩れてはいない。
――宿帳か。
手を伸ばしかけて、カイは一度動きを止めた。
この建物の中で唯一、人の名前が書かれているかもしれないものだった。誰が泊まり、誰がここで一晩の雨風をしのいだのか。その記録が、まだ土に還らずに残っている。
外はまだ明るい。だが、傾いた日の色は、さっきよりも赤みを増していた。
カイは指先を、埃を被った革の表紙にかけた。




