# 010. 宿帳の最初の名前
リアは、宿帳を見下ろしたまま、ペンに手を伸ばさなかった。
「名前……ですか」
「ああ。読み書きが苦手なら、俺が代わりに書く。印を残すだけでもいい。昔の客には、そうしてた奴もいる」
カイは開いた頁の、古い行を指で示した。名前の代わりに彫られたような、小さな丸。鳥に見える印。字を持たない誰かたちが、それでも残していった一行たち。
リアは首を横に振った。
「書けます。食堂で、品書きの写しとか、仕入れの帳面とか、少しだけ……」
「なら、ここだ」
カイは、空白の最初の行を示した。
前の管理人の走り書きの、すぐ下だった。油はまだ床下にある、誰か来たら灯してやってくれ――あの細い文字の下に、新しい行が待っている。
リアは、ペンを取った。
インクに浸し、升目の上に構える。
そこで、止まった。
ペン先が紙のすぐ上で震えて、下りない。インクの滴が落ちそうになり、リアは慌ててペンを壺の上に戻した。
「すみません……あの、少しだけ、待ってください」
「急ぎの仕事じゃない」
カイは椅子を引いて座り、帳面を開いた。在庫の頁を眺めるふりをする。急かさない、というのは、待っている顔を見せないことだ。この数日で、それだけは覚えた。
リアは、宿帳の古い頁を、そっと前へ繰った。
名前の並ぶ頁を、一枚、また一枚。行商人の名前。連名の一座。丸や鳥の印。リアの目が、行から行へ、ゆっくりと動いていく。
「……この人たち、みんな、ここに泊まったんですね」
「らしいな。俺も帳面でしか知らないが」
「この人、何度もいます。ほら、ここと、ここ……季節ごとに、来てる」
「決まった商路だったんだろう。塩か、布か。西の鉱山町の名前が多い」
リアは頁をめくる手を止め、あの冬の行の上で、指を浮かせた。
「熱。三日逗留。……粥」
読み上げて、リアは黙った。
それから、自分の手のひらを見た。三日前の夜、熱い椀を包んだ手を。
「……私と、同じ」
「ああ」
カイは、帳面から顔を上げずに言った。
「その客は、次の年の春に、また来てる。同じ頁の、下のほうだ」
リアは、その行を探し当てた。長いこと、じっと見ていた。指先が、掠れたインクの名前を、触れないように、なぞった。
「名前が残ってると……その人が、いたって、分かるんですね」
「そういうものだ、帳面ってのは」
カイは、頁を繰る手を止めて、言葉を足した。
「王都の役所には、帳面が山ほどあった。土地の帳面。税の帳面。だが、あれは人を数えるための帳面だ。……こいつは違う。誰が来て、誰が飯を食って、誰が無事に帰ったか。数じゃなくて、名前を残すための帳面だ」
言ってから、少し喋りすぎたと思った。
だがリアは、笑わなかった。宿帳の上に屈み込むようにして、古い名前の列を、端から端まで、もう一度見渡した。まるで、そこに並んでいる全員に、順番に挨拶でもするように。
やがて、リアは頁を戻した。
空白の、あの頁に。
ペンを取り、インクに浸す。今度は、ペン先は震えなかった。
「あの……カイさん」
「なんだ」
「私の名前、ここに書いたら……消したくなっても、消えませんよ?」
「宿帳ってのは、そういうものだ」
「……はい」
リアは、小さく笑った。ここに来て初めて見る種類の笑い方だった。
ペン先が、紙に下りた。
食堂は静かで、ペンの走る音だけがした。竈の中で、熾火がひとつ、小さく爆ぜた。窓から入る朝の光が、宿帳の白い頁の上で、インクの線が生まれていくのを照らしていた。
リア・トワネット。
丁寧な、少し縮こまった、けれど読み間違えようのない字だった。
リアはペンを置き、自分の書いた名前を見た。
ずいぶん長いこと、見ていた。
「……変な感じ、です」
「どんな」
「私、身分証も、何も持ってないんです。食堂を出る時、何も。だから、その……私がリアだって、証明できるもの、どこにもなくて。私がいなくなっても、私がいたって分かるものは、どこにも」
リアは、宿帳の上の自分の名前に、指を添えた。
「でも、今、ここにあります」
カイは、頷いた。
言葉を返そうとして、ちょうどいいものが見つからず、結局、実務の言葉を選んだ。
「日付も入れておけ。それと、出発地の欄は――」
言いかけて、カイは口をつぐんだ。
出発地。リアがどこから来たのか、カイはまだ聞いていない。訊けば、あの「追われて」に触れることになる。
リアも、ペンを持ったまま、その欄の前で止まっていた。
「……書かなくていい」
カイは言った。
「昔の客にも、空けてる奴はいる。ほら、ここも、ここもだ。宿帳ってのは、書きたいところだけ書けばいい帳面だ」
嘘だった。少なくとも、王都の宿ではそんな帳面は許されない。だがこの宿の帳面の決まりを決めるのは、今はカイだった。
リアは、ほっとしたように息を吐き、日付だけを書き足した。
「これで、と……できました」
「ああ」
カイは宿帳を受け取り、インクが乾くのを待って、頁を眺めた。
何年ぶんもの空白の後に、たった一行。
リア・トワネットと、日付。
たったそれだけで、この帳面は、過去の記録から、続いている帳面に変わっていた。行の途切れた古い宿帳ではなく、昨日も今日も、そして明日も客を待つ、現役の宿帳の顔をしていた。
「さて、と」
カイは宿帳を閉じかけて、やめた。
開いたまま、帳場の台へ運び、台の中央に置く。閉じてしまうより、開いておくほうが、この帳面には合っている気がした。
リアが、隣に立って、台の上の宿帳を覗き込んだ。
「私の下、まだ、いっぱい空いてますね」
空白の升目が、リアの名前の下に、何行も、何頁も続いている。
「埋まると思うか」
カイが訊くと、リアは少し考えて、真面目な顔で答えた。
「……お布団を、増やさないといけません。あと、お皿も」
「皿は六枚ある」
「六枚じゃ、足りなくなります」
リアは、きっぱりと言った。
根拠なんて、どこにもないはずだった。この十日で、街道を通った人間は、リアひとりなのだ。それなのに、その言い方があまりに当たり前で、カイは思わず、空白の頁をもう一度見た。
白い升目の列が、朝の光の中で、静かに続きを待っていた。




