↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/30

# 011. 朝食係リア

宿帳に名前が入った翌朝、カイは物音で目を覚ました。


まだ窓の外は薄暗い。食堂の床から身を起こすと、厨房から、控えめな、しかし確かな物音が続いていた。水音。薪の擦れる音。それから、火吹き竹の、慣れた調子の息。


カイは外套を肩にかけたまま、厨房を覗いた。


竈の前に、リアがいた。


昨日の古い前掛けを着け、髪を後ろでひとつに括り、鍋の中を真剣な目で見下ろしている。竈の火は、カイが熾すよりずっと素直に立っていた。


「……早いな」


声をかけると、リアは跳び上がった。


「か、カイさん! おはようございます! すみません、起こしてしまいましたか」


「いや。それより、いつから起きてる」


「え、っと……空が、少し青くなったころ、です」


夜明け前ということだ。カイは鍋を覗いた。豆の粥だが、昨日までカイが作っていたものとは、見た目からして違った。豆がちゃんと潰れて、とろみが出ている。刻んだ干し肉が、底のほうで揺れていた。


「昨日のうちに、お豆を水に浸けておいたんです。そうすると、朝、早く煮えるので」


リアは、言ってから、慌てて付け足した。


「か、勝手にすみません! お水と、お豆、使ってしまって……」


「朝飯の支度を頼むと言ったのは俺だ。謝る場所がない」


カイは、素直に感心していた。豆を前の晩から浸ける。知識としては知っていた気がするが、実際にやろうと思ったことはなかった。カイの料理は、煮えるまで待つ料理だった。リアの料理は、煮える前の晩から始まっている。


「あと、その……お塩の他に、これを見つけました」


リアが棚から下ろしたのは、小さな素焼きの壺だった。蓋を開けると、乾いた葉が入っている。カイが掃除の時に「何かの葉」として棚の隅に戻しておいたものだ。


「乾した香草です。スープに入れるやつだと思います。古いですけど、香りはまだ残ってて……少しだけ、入れてみても、いいですか?」


「任せる。朝飯係はお前だ」


リアの目が、まん丸になった。


「……朝食、係」


「昨日そういう話をしたはずだが」


「は、はいっ。朝食係です。私、朝食係です」


リアは、口の中でもう一度その言葉を転がしてから、壺の葉をひとつまみ、大事そうに鍋に落とした。


出来上がった粥は、湯気の匂いからして違った。


香草の青い匂いが、豆の匂いに重なっている。カイは長テーブルの自分の席で椀を受け取り、ひと口すすった。


止まった。


豆の甘みが、ちゃんとする。塩は薄いのに、味がぼやけていない。香草の匂いが後から抜けて、口の中が軽い。同じ竈、同じ豆、同じ塩のはずだった。カイが作ると、これは「腹に入れるもの」だった。今、椀の中にあるのは、朝飯だった。


「……どうか、しましたか」


リアが、テーブルの向こうで、椀を持ったまま固まっていた。カイが黙り込んだのを、失敗の兆候として数えている顔だった。


「うまい」


短く言った。それしか言い方を知らなかった。


「俺が作るのと、材料は同じはずだが」


「あ……えと、たぶん、火です」


リアは、ほっとした反動のように、少し早口になった。


「カイさんの火は、強いんです。お掃除とか、修理とかの火なんです。ぐらぐら煮えて、豆の外だけ煮えて、中が置いていかれちゃう。お粥の火は、もっと、こう……鍋の底で、静かにしてるくらいでいいんです」


言ってから、リアは、はっと口を押さえた。


「す、すみません、偉そうに……!」


「いや」


カイは、もうひと口すすった。


「覚えておく。……いや、覚えなくていいのか。朝飯係がいるんだから」


リアは、椀の陰で、耳まで赤くなった。


その朝から、灯り木亭の朝は形を持った。


夜明け前に厨房で物音がして、カイが起きるころには湯気が立っていて、テーブルに椀が二つ並ぶ。カイの盛りのほうが、いつも少し多い。食べ終わると、リアが皿を洗い、カイが拭く。最初は「私がやります」と譲らなかったリアが、三日目には「じゃあ、お願いします」と布巾を渡すようになった。


四日目の朝は、パンだった。


残り少ない粉を練って、竈の灰の脇で焼いた、平たく硬いパンだ。だが、割ると中から湯気が出た。カイは、干し肉を茹でた汁に浸して食べる方法をリアから教わった。


「粉が、あと三日ぶんくらいで終わります」


食べながら、リアが言った。


「お豆は、あと十日。お塩は当分ありますけど、油がもう、ほとんど……」


「ああ。近いうちに、東の合流点の町まで買い出しに行く。歩いて三日の距離だ。留守を頼むことになるが――」


言いかけて、カイは口をつぐんだ。


留守番。この宿に、リアをひとりで。軒下の足跡が、頭の隅で疼いた。あれきり新しい跡はない。ないが、消えたわけでもない。


「……その話は、また考える」


リアは、少し不思議そうな顔をしたが、頷いた。


食後、カイは二階の客室の窓枠を直し、リアは食堂の床を磨いた。磨くといっても、リアの掃除は、カイの掃除と同じ床から、なぜか一段明るい色を引き出した。長年の垢の下から、木の目が浮かんでくる。


昼、カイが屋根から下りてくると、リアは食堂の窓を拭きながら、小さく歌っていた。


歌というほどのものでもない、鼻歌の切れ端だった。カイの足音に気づくと、ぴたりと止んで、リアは猛烈な勢いで窓を拭き始めた。


カイは、聞かなかったことにして、水を飲んだ。


窓の外の外灯が、拭かれた硝子越しに、まっすぐ立って見えた。


夕方、カイは帳面を開き、この数日の変化を書き留めた。


朝食、安定。床、食堂は完了。窓、あと二枚。粉、残り三日。


書きながら、ふと、頁の端に、書く欄のないことをひとつ思った。


この宿は、朝、湯気の匂いで始まるようになった。


帳面につける項目ではない。金額もつけられない。だが、この十日で宿が手に入れたもののうち、いちばん大きいのは、たぶんそれだった。


「カイさん、お夕飯、できました」


厨房から声がして、カイは帳面を閉じた。


夕飯の途中、リアが、ぽつりと言った。


「あの……今朝の、パン」


「ああ。うまかった」


「……はい。その」


リアは、匙を置いて、俯いた。


「食堂にいたころ、私、賄いを作る係だったんです。お店のお料理は、触らせてもらえなかったけど、賄いだけは、私の仕事で。……おいしいって、言われたこと、なくて。当たり前だから。賄いは、あって当たり前で、誰も……」


言葉が、細くなった。


「カイさん、毎回、言うから。うまい、って。毎回……だから、その……」


リアは、顔を上げようとして、失敗した。目の縁に溜まったものを見られないように、慌てて椀を持ち上げ、残りの汁を飲むふりをした。椀の陰から出てきた時には、無理やりの笑顔になっていた。


「へ、変なこと言いました。すみません。……おかわり、ありますよ」


「もらう」


カイは椀を差し出した。


泣きそうな顔の理由には、触れなかった。触れる代わりに、おかわりを頼むのが、たぶんこの食卓では正しい作法だった。


リアが椀を受け取って厨房へ立った、その時だった。


リアの足が、止まった。


「……カイさん」


声の調子が、変わっていた。リアは椀を持ったまま、窓のほうを向いて、じっと動かなくなった。


「どうした」


「今……外で」


カイは耳を澄ませた。


風の音。外灯の硝子の、微かな鳴り。


その下に――足音があった。


街道の砂利を踏む、確かな足音。一定の調子で、宿の前をゆっくりと過ぎていく。それが、宿の正面あたりで、ふ、と緩んだ。


立ち止まったのだ。


外灯の灯りの、届くところで。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。