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# 012. 旧街道の客

カイは扉を開けた。


外灯の下に、男がひとり立っていた。


歳のころは五十絡み。日に焼けた顔に、白いものの混じった無精髭。背負い籠を負い、手には使い込んだ杖。上着の肘は継ぎが当たり、靴は爪先が割れかけていた。行商人――それも、羽振りのいいほうではない。


男は、開いた扉と、その奥の竈の火を、眩しいものでも見るように見た。


「……ここ、宿かい」


「宿だ」


カイが答えると、男は、それでも半信半疑の顔で、外灯を見上げた。


「灰灯街道の宿は、みんな閉まったって聞いてたがな。灯りが見えた時は、狐に化かされてるのかと思ったぜ」


「開けたばかりだ。……というより、開け直したばかりだ」


男は籠を担ぎ直し、それから、言いにくそうに、目を伏せた。


「先に言っとく。銭は、ほとんどねえんだ。東の町まで行って、この籠の中身を売らねえことには……だから、その、軒下でいい。屋根の下の隅っこを、ひと晩だけ貸してもらえりゃあ」


カイは、男の割れかけた靴を見た。


それから、背後を振り返った。食堂の入口で、リアが息を詰めてこちらを見ていた。目が合うと、リアは慌てて頷いた。何に頷いたのかは分からないが、たぶん、鍋にはまだ夕飯の残りがある、という意味だった。


「軒下に客を寝かせる宿があるか」


カイは扉を大きく開けた。


「入れ。飯は残り物だが、温かい。宿代は――」


言いかけて、カイは男の籠に目をやった。


「あんた、行商か。籠の中身は」


「あ? ああ……櫛だの、糸だの、鍋の修理道具だの、こまごましたもんだ。あとは山で採った乾茸が少し」


「なら、明日の朝、うちの鍋をひとつ見てくれ。取っ手が緩んでる。それと、乾茸を少し分けてもらえるなら、それで宿代は釣りが来る」


男は、ぽかんと口を開けた。


「……そりゃあ、構わねえが。あんた、商売っ気がなさすぎやしねえか」


「うちは開けたばかりで、客の相場を知らん」


カイは、真顔で言った。半分は本当だった。もう半分は――金のない客を追い返す宿なら、そもそもあの外灯に火を入れた意味がなかった。


男はドマルと名乗った。


竈の近くの席に座らせると、リアが、緊張で直角になりながら、椀を運んできた。


「お、お待たせしました……! 豆のスープと、パン、です」


「こりゃどうも……って、熱っ、うめえな、おい」


ドマルは、ひと口すすって目を丸くし、それから泥のついた手を上着で拭ってから、あらためて匙を持ち直した。食い物への敬意の払い方で、その人間の飢えの履歴が分かる。この男は、温かい飯の値打ちを知っている側の人間だった。


リアは、給仕を終えると、厨房との境に下がって、そこからドマルの椀の減り具合をじっと見守った。おかわりの気配を計っているらしい。接客というより見張りに近い姿勢だったが、ドマルが椀を空けた瞬間に飛んでいった速さは、確かに食堂の人間のものだった。


「しかし、驚いたね」


二杯目の椀を抱えながら、ドマルは食堂を見回した。


「灯り木亭っていや、俺が若い時分にゃ、この街道の真ん中の宿だった。夜にここの灯りが見えると、ああ今日も生きて着いた、ってなもんでな。……閉まってからは、この道を通るたんびに、暗くてなあ」


「今も、この道を使うのか。新街道じゃなく」


「使うさ。使うしかねえもの」


ドマルは、パンの欠片で椀の底を拭った。


「新街道はな、いい道だよ。平らで、速くて、宿も飯屋も並んでる。……そのぶん、銭がかかる。通行の札代、橋の渡り賃、宿代も飯代も、こっちの倍だ。俺みてえな担ぎの小商いが通ったら、儲けが道代で消えちまう」


「それで、こっちを」


「ああ。遠回りで、橋は落ちかけで、宿はねえ。それでも、タダだ。俺らみてえのが通れる道は、もう、こっちしか残ってねえのさ」


カイは、黙って聞いていた。


王都にいたころ、新街道は「成功した政策」だった。書類の上では、物流は増え、税収は増え、みなが豊かになったことになっていた。その書類のどこにも、道代で儲けの消える担ぎ商人の欄はなかった。


「まあ、それでもよ」


ドマルは、声を少し落とした。


「近ごろは、こっちの道も、タダじゃなくなってきた」


「……どういう意味だ」


「取られるのさ。銭じゃなくて、荷をな」


ドマルは、椀を置いた。竈の火が、男の彫りの深い顔に影を作った。


「追い剥ぎだよ。この半年ばかりで、めっきり増えた。西の峠の向こうじゃ、荷ごと身ぐるみ剥がれた奴が何人もいる。……あんたら、聞いたことねえかい。《夜濡れ犬》って名前を」


厨房の境で、陶器の触れ合う音がした。


リアだった。重ねた椀を持ったまま、立ち尽くしていた。顔から、色が引いていた。


カイは、椅子を半分回して、さりげなくドマルの視線を自分に集めた。


「夜濡れ犬」


「ああ。頭目は、犬の皮を継ぎ接ぎした外套を着てるって話だ。雨の晩に出るから、夜濡れ犬」


ドマルは、鼻を鳴らした。


「……ま、狙われるのはもっぱら峠筋だ。ここいらまで下りてくるって話は、まだ聞かねえがな」


まだ、という言葉が、部屋に少しだけ長く残った。


カイは、軒下の足跡を思い出していた。大きさの違う、三人ぶんの靴の跡。あれが「まだ」の内なのか、外なのか。


その夜、ドマルは二階の部屋で泥のように眠った。


リアは、洗い物を終えたあとも、しばらく厨房の火を見ていた。カイは何も訊かず、戸締まりをひとつずつ確かめてから、リアの部屋の鍵がちゃんと内側からかかる音を、階段の下で聞き届けた。


翌朝、ドマルは約束通り、鍋の取っ手を締め直し、ついでに頼んでもいない包丁を二本研いで、乾茸のひと袋と燻し卵をいくつか、テーブルに置いた。


「世話になったな。……朝飯も、うまかった」


リアが、耳を赤くして頭を下げた。


出立の間際、ドマルは籠を背負い、外灯を見上げた。


朝の光の中で火の入っていないそれを、長いこと見てから、男はカイに向き直った。


「なあ、宿の旦那。ゆうべは言いそびれたがよ」


「なんだ」


「この灯り、ありがてえよ。俺みてえのには、心底な。……だがな」


ドマルは、杖の先で、街道の西――峠のほうを、軽く示した。


「灯りってのは、見せたい相手だけに見せるってわけには、いかねえもんだ。あんたが灯りを見せるなら――犬どもにも、見えるぜ」


そう言い残して、行商人は東へ歩き出した。


杖の音が、砂利の上を遠ざかっていく。


カイは、外灯の下に立ったまま、その背中が街道の曲がりに消えるまで見送った。


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