# 013. 薪小屋の異変
ドマルを見送って、二日が経った。
朝は変わらず、湯気の匂いで始まった。リアの粥に、ドマルの置いていった乾茸が入るようになって、食卓の匂いがひとつ増えた。カイは竈の火をリアに任せ、薪を取りに裏へ出た。
薪小屋の前で、足が止まった。
扉が、少しだけ開いていた。
閉め忘れたか。いや、と、すぐに打ち消す。薪小屋の戸は建て付けが渋く、最後まで押し込まないと閉まらない。だからカイは、閉めるたびに肩で押し込む癖がついていた。昨日の夕方、薪を取りに来た時も、そうしたはずだった。
カイは扉を開け、中を見た。
薄暗い小屋の中で、しばらく目を慣らす。積み上げた薪の山。手前の段は、昨日カイが崩した形のままに見えた。
見えたが――違った。
カイは毎晩、帳面に薪の残りを書きつけている。几帳面さというより、冬までの燃料の計算のためだ。昨夜の時点で、乾いた薪は縦にして四十と少し。今、手前の山を数え直すと、束にして三つ、いや四つぶん、確かに足りなかった。
一日で燃やす量では、ない。
「……盗るなら、食料庫だろうに」
呟いてから、カイは自分の言葉に引っかかった。
食料庫は、母屋の中だ。錠を下ろしてある。薪小屋は外にあって、錠がない。つまり、盗んだ側は、母屋には入らなかった。入らなかったのか、入れなかったのか――それとも、まだ入る時ではないと思っているのか。
カイは小屋を出て、周囲の地面を見て回った。
小屋の裏手、街道と反対側の、草地との境。
あった。
柔らかい土の上に、靴の跡。それも一人分ではない。二人。歩幅は大きく、爪先が深い。重いものを担いで歩いた足の沈み方だった。跡は草地を突っ切って、西の疎林のほうへ続き、下生えの中に消えていた。
軒下で見た足跡と、同じ靴かどうかまでは、カイには分からなかった。分からなかったが、別だと考える理由も、なかった。
「カイさーん? 朝ごはん、できま……」
呼びに来たリアの声が、途中で止まった。
振り返ると、リアは薪小屋の角のところに立って、カイの視線の先――土の上の足跡を、見ていた。
「……リア。朝飯、先に食っててくれ」
「それ」
リアの声は、小さかった。
「足跡、ですよね。……薪、減ってるんですか」
隠すべきか、カイは一瞬だけ迷った。
隠せば、今朝のところは、リアは笑って皿を並べるだろう。だが、この娘はもう客ではない。この宿の住み込みだ。宿に起きていることを知らされないまま、何かあった時にいちばん逃げ遅れるのは、事情を知らない者だった。
それに――夜の雨風は問わない決まりだが、嘘をつかない決まりも、要る気がした。
「ああ。束にして四つほどな。昨夜か、一昨日の夜か。……軒下にも、前に足跡があった。お前が来て、二日目の朝だ」
リアは、動かなくなった。
「その時は言わなかった。雨で半分消えてたし、確かなことは何も分からなかったからだ。今も、確かなことは分からん。ただの薪泥棒かもしれん。この寒さだ、火が要るのは誰でも同じだからな」
カイは、なるべく淡々と並べた。事実だけを、順番に。
リアは、足跡を見つめたまま、両手で自分の肘を抱えた。
「……犬の皮の外套の人たちを」
声が、震えていた。
「見たこと、あります」
カイは、黙って続きを待った。
「ここへ来る前……峠の、手前の道で。夜、火を焚いてる人たちがいて。最初、旅の人たちだと思って、火を分けてもらおうとして……近くまで行って、見えたんです。犬の毛皮を、継ぎ接ぎした……ドマルさんが言ってた、あれ」
リアの指が、肘に食い込んだ。
「荷車が停まってて、知らない人が縛られてて。私、見ちゃいけないものを見たって分かって、逃げて……気づかれて。追いかけてくる声がして、それで、雨も降ってきて、道も分からなくなって、ずっと走って――」
そこで、言葉が切れた。
追われて。眠りに落ちる寸前の、あの囁き。三週間近く経って、その言葉はようやく形を持った。この娘が雨の夜に倒れ込んだのは、飢えと寒さだけのせいではなかったのだ。
「……すみません」
リアは、深く俯いた。
「私、黙ってました。言ったら……追われてる子なんて、置いてもらえないと思って。私がここにいたら、あの人たちが、この宿に……薪だって、きっと、私のせいで、目をつけられて――」
「リア」
カイは、遮った。
「薪泥棒がお前を追ってきた連中だと決まったわけじゃない。仮にそうだとしても、だ。悪いのは盗んだ側で、追われた側じゃない。その勘定を逆さにするな」
リアは、俯いたまま、答えなかった。
答えない、ということが、答えだった。この娘の中では、勘定はもう逆さに済んでいる。私のせいで。その四文字が、リアという人間の帳簿の、いちばん最初の行に書き込まれているのだった。
カイは、それ以上その場では言わなかった。言葉で消える文字なら、とっくに消えている。
その日、カイは仕事の順番を入れ替えた。
窓の修理を後回しにして、まず、戸という戸の錠と閂を確かめた。正面の扉の閂は太いが、受け金の木が古い。カイは廃材から硬い樫の板を切り出し、受けを二重に打ち直した。裏口は閂が細すぎたので、心張り棒を新しく削った。
食料庫の錠を確かめ、油の壺を床下から食料庫の中へ移した。
薪は、三日ぶんだけを母屋の土間に運び込んだ。小屋に錠をつける材料はない。盗られるにしても、全部は盗らせない。
一階の窓は、内側から落とし込む簡単な締まり木を、一枚ずつ付けた。
リアは、その作業のあいだ、ずっとカイの後ろをついて回った。板を押さえ、釘を渡し、削り屑を掃いた。手伝いというより、一人になりたくないのだと、途中で気がついた。カイは何も言わず、次の釘を要求した。
夕方、カイは早めに外灯へ油を入れた。
火を移しながら、ふと、手が止まった。
この灯りが、連中の目印になる。ドマルの言葉が、油の匂いと一緒に喉の奥に上がってきた。灯りを消せば、宿は闇に沈む。闇に沈めば、少なくとも今夜、遠くからこの宿を見つけられる者はいない。
理屈は、そうだった。
カイは、火を入れた。
理屈に負ける夜は、いつか来るのかもしれなかった。だが、今夜ではなかった。
夕飯は、ドマルの乾茸を入れたスープだった。リアの作るスープは今夜もうまかったが、リアの匙は、何度か止まった。カイは、止まるたびに、別の話をした。皿の数の話。冬までに直す部屋の話。東の町で買う毛布の枚数の話。
未来の話をしている間だけ、リアの匙は動いた。
皿を洗い終え、リアが二階へ上がり、内側から鍵の下りる音がした。
カイは、竈の火を落とし、食堂の灯りを消して、窓辺に座った。
外灯の火が、闇の中で静かに揺れている。あの灯りの届く縁までが、今夜のこの宿の領分だった。その先は、闇だ。闇の側からは、こちらの一切が見えている。
どれくらい、そうしていたか。
風の切れ間に――声が、聞こえた。
遠い。西の疎林の、さらに向こう。高く、長く、尾を引く声。
犬の遠吠えに、似ていた。
似ていたが、カイの首筋の毛は、それが犬ではないと言っていた。吠え声は一度きりで、あとには風の音だけが残った。まるで、返事を待つような間だった。
カイは、動かずに、闇を見ていた。
二階の廊下で、床の軋む音がした。リアも、聞いたのだ。
その夜、外灯の火は、朝まで消えなかった。




