# 014. リアの沈黙
遠吠えの夜から、リアは変わった。
目に見えて塞ぎ込んだわけではない。逆だった。リアは、働くようになった。
もともとよく働く娘だった。だが、今のそれは種類が違った。朝食の片付けが終わると、頼んでもいない二階の空き部屋の拭き掃除を始める。それが終わると、洗い場の桶を磨く。桶が終わると、食器棚の皿を全部下ろして拭き直す。昨日拭いたばかりの皿を、だ。
手が止まると、何かを思い出す。だから止めない。そういう働き方だった。
三日目の昼、カイは井戸端で、洗濯物と格闘しているリアを見つけた。
カイの作業着に、敷布に、雑巾。洗い桶の脇には、次の山が積んである。よく見れば、その山の中には、一昨日洗ったはずの毛布が混ざっていた。
「リア」
「あっ、カイさん! すみません、お昼、もう少しでっ……あと、これだけ干したら――」
「昼はまだいい。それより、手を見せろ」
リアの手が、桶の中で止まった。
しぶしぶ差し出された手は、指の節が赤く、あかぎれが切れかけていた。冷たい井戸水と灰汁で、一日じゅう洗い物をしていれば当然だった。
「……今日は、もう水仕事は終いだ」
「で、でも、まだ敷布が」
「敷布は逃げない」
「あの、じゃあ、お部屋の拭き掃除の続きを――」
「リア」
カイは、洗い桶の縁に腰を下ろした。立ったまま言うと説教になる。同じ高さで言えば、相談になる。王都の上役に、ひとりだけ、それをやる人がいた。
「うちの給金で買える働きの量は、とっくに超えてる。これ以上働かれると、帳簿が合わなくて俺が困る」
冗談のつもりだったが、リアは笑わなかった。
濡れた手を前掛けで拭いて、俯いて、それから、絞り出すように言った。
「……働いてないと、駄目なんです」
「駄目って、誰がだ」
「私が、です」
リアは、洗い桶の水面を見ていた。
「手が空くと……考えちゃうから。あの声とか。足跡とか。私がここにいて、いいのかとか。……手が動いてる間は、考えなくて済むんです。だから、その、働かせてもらえたほうが、楽で」
正直な言葉だった。たぶん、この娘がここへ来てから口にした中で、いちばん正直な言葉だった。
カイは、すぐには答えなかった。
分かる、と言いかけて、やめた。分かるのだ、実際。王都を出る前の最後のひと月、カイは誰よりも遅くまで役所に残って、誰も読まない書類を清書し続けた。手が動いている間は、自分が何から目を逸らしたのかを、考えなくて済んだ。
だから、分かる、と言うのは簡単だった。だが、それを言うには、王都の話をしなければならない。カイは、まだその話をする気になれなかった。話したくない事情を抱えた人間が、この宿には二人いる。それだけのことだった。
「……夜濡れ犬の話は、しなくていい」
カイは、別のことを言った。
「え……?」
「峠で何を見たか。誰に、どこまで追われたか。詳しく話せば、俺はもう少し備えられるかもしれん。だから、宿の主としては、聞いておきたい」
リアの肩が、強張った。
「だが、聞かない。話したくなったら話せ。話したくなければ、一生黙ってていい。この宿の決まりは、知ってるな」
リアは、少しの間のあと、小さく言った。
「……問わず」
「そうだ。夜の雨風は、問わない。……あれは客向けの決まりだと思ってたが、考えてみれば、住み込みに使っちゃいけないとは、どこにも彫ってなかった」
リアは、顔を上げた。
泣き笑いのような、へにゃりとした顔になっていた。
「カイさんは……ずるいです」
「よく言われる。……で、だ。働いてないと考えてしまうという件については、別の手を打つ」
「別の、手?」
「手が動いて、なおかつ、座ってできて、あかぎれが切れない仕事だ」
その日の午後、カイは物置から、古い繕い物の籠を引っ張り出した。
前の住人が残していった端切れと、糸と、針。それから、カイの作業着の、肘の破れたやつが二枚。掃除の時に見つけた、虫食いの毛布が三枚。
「縫えるか」
「……! 縫えます。得意です」
リアの目に、初めて仕事の光が戻った。水仕事の必死さとは違う、腕に覚えのある者の光だった。
夕方まで、リアは食堂の窓際で、竈の火の届く暖かい席に座って、針を動かした。カイはその向かいで帳簿をつけた。時々、糸切りの小さな音がして、時々、カイの頁をめくる音がした。
会話は、ほとんどなかった。
だが、この三日間で、いちばん静かな沈黙だった。皿を二度拭く沈黙とは、別のものだった。
「……あの」
日が落ちかけたころ、リアが、針を止めずに言った。
「峠で見たの……縛られてた人、いたって言いましたよね」
カイは、帳簿から顔を上げなかった。頁をめくる手だけ、そのまま続けた。
「ああ」
「あの人……どうなったのかなって、ずっと考えてました。私、逃げただけで。誰にも言わないで、ここまで来ちゃって。……もし私が、どこかの町で誰かに知らせてたら、って」
針が、止まった。
「私、自分が逃げることしか、考えてなくて」
「それでいい」
カイは、言った。
「追われてる人間の仕事は、逃げ切ることだ。他人を助けるのは、屋根と飯のある人間の仕事だ。お前はあの晩、自分の仕事をやり切った。だからここにいる。……今のお前は、屋根と飯のある側だ。誰かのために何かしたいなら、これからすればいい」
リアは、長いこと黙っていた。
それから、針を持ち直して、ひと針、縫った。
「……はい」
返事は、それだけだった。それだけだったが、糸を引く手つきから、さっきまでの重さがひとつ、抜けていた。
夕飯のあと、リアが繕い終えた作業着を畳んでいると、外で、音がした。
かたん、と。
薪小屋のほうだった。
リアの手が、止まった。カイは、目で「動くな」と伝えて、静かに立ち上がった。竈の火掻き棒を手に取り、裏口ではなく、正面の扉へ回る。閂を上げ、扉を細く開けた。
外灯の火が、いつも通り、闇に円を描いていた。
その円の中に、動くものはなかった。風が、疎林の梢を揺らしている。薪小屋の戸は――閉まっていた。昼間、カイが肩で押し込んだ、そのままに見えた。
風で何かが倒れただけか。
カイは、灯りの円の縁まで出て、耳を澄ませた。何もない。夜の虫の音と、風。
戻りかけて、ふと、足元に目が行った。
昨夜、雨がひと降りした。戸口の前の地面は、まだ乾き切っていない泥のままだった。今朝、カイとリアが井戸へ通った足跡が、そこに残っている。
その上に。
新しい足跡が、増えていた。
大きな靴。戸口の、ほんの三歩手前まで来て――そこで向きを変え、街道のほうへ戻っている。
今朝はなかった。断言できた。今朝、カイはこの泥を跨いで井戸へ行ったのだ。
つまり、今日の昼か、夕方か。自分たちが食堂で針と帳簿を挟んで座っていた、あの静かな時間のどこかで、誰かが、この扉の三歩手前まで来て、立ち去った。
カイは、火掻き棒を握り直し、闇の奥を見た。
外灯の火が、背中で静かに燃えていた。




