# 015. 灯りを消せば安全か
戸口の三歩手前の足跡は、朝の光の下で測り直しても、三歩手前のままだった。
カイは、その上に板を置いて踏み荒らされないようにしてから、リアには「昨日の風で物置の板が倒れていた」とだけ言った。半分は事実だ。板は、確かに倒れていた。カイが夜のうちに、蹴倒しておいたのだから。
嘘の割合が、少しずつ増えていく。
その自覚は、あった。
昼間、カイは屋根の修理をしながら、頭の別のところで、ずっとひとつのことを考えていた。
外灯のことだった。
――消せば、どうなる。
理屈は単純だった。夜濡れ犬がこの宿を見つけたのは、灯りのせいだ。峠筋が狩り場の連中が、わざわざ半日も下った廃宿街道をうろつく理由は、ほかにない。闇の中に一点だけ灯る火は、旅人への合図であると同時に、ここに人がいて、食料があり、薪があり、そして女がひとりいるという告知でもある。
消せば、宿は夜の闇に沈む。連中の目からも、沈む。
もちろん、もう場所は知られている。今さら消したところで、地図から消えるわけではない。だが、毎晩ともる火と、消えた火では、意味が違う。ともる火は「まだここにいる」であり、消えた火は「もう閉めた」だ。狙う側からすれば、閉めた宿は後回しになる。連中の目当てが手っ取り早い食料なら、火の消えた家より、次の旅人を狙うほうが早い。
消すのが、正しい。
守るものの数だけで言えば、消すのが正しかった。この宿にいる人間は二人。うち一人は、連中に追われた娘だ。灯りをともして守れるのは、いるかも分からない今夜の旅人。消して守れるのは、確かにいる二人。
天秤は、どう載せても、消す側に傾いた。
カイは、屋根の上で釘を打ちながら、その天秤を何度も組み直した。組み直すたびに、同じ側に傾いた。傾くたびに、なぜか、手の中の金槌が重くなった。
夕方、カイは梯子を下り、油壺を持って外に出た。
そして、外灯の前で、立ち止まった。
油壺の蓋に手をかけたまま、注がずにいた。
今夜、注がなければいい。
火を消して回る必要すらない。ただ、油を足さない。それだけで、火は夜半までに静かに尽きる。誰の目にも、油が切れただけに見える。決断の形すらしていない決断。王都の役所で、カイが毎日見ていた種類の決断だった。判を押さないことで書類を殺す。手を挙げないことで人を切る。誰も何も決めていない顔をして、すべてが決まっていく。
カイの指は、蓋の上で止まったままだった。
「カイさん?」
背中から声がして、カイは振り向いた。
リアが、夕飯の匂いのする前掛け姿で、戸口から顔を出していた。
「お夕飯、できました。……あ、外灯、私がやりましょうか? 油、注ぐだけなら、私にも」
「……いや」
「そうですか? あの、それなら、その」
リアは、少しもじもじしてから、外灯を見上げた。
「早く点けてあげてください。……もう、暗くなっちゃうので」
「点けてあげて、か」
「え?」
「いや。……なんで、そう思う」
我ながら、妙な訊き方だった。だが、リアは笑われたと思ったのか、頬を赤くして、それでも、ちゃんと考えてから答えた。
「私、あの晩……雨で、真っ暗で、道も分からなくて。もう、座り込もうって思ったんです。座ったら終わりって分かってたけど、もう、足が。……その時、見えたんです。すごく遠くに、ぽつんて」
リアは、火の入っていない硝子を見つめた。
「星かなって思いました。でも、星は、あんな低いところにないから。あれは、火だ、火なら、人がいるって。……そこから先は、あの灯りのことしか覚えてません。灯りが、ちょっとずつ大きくなるのだけ見て、歩いて。だから、その」
リアは、少し恥ずかしそうに、前掛けの端を握った。
「今でも、夕方にあの火が点くと、安心するんです。ああ、今日も、うちはここにいますよって、道に向かって言ってるみたいで。……変ですよね、自分の住んでるところなのに」
カイは、答えなかった。
答える代わりに、油壺の蓋を開けた。
とくり、と、油が受け皿に落ちる。芯を整え、火口箱を打ち、火を移す。硝子の中で、小さな炎が立ち上がり、それから確かな火になった。リアの顔が、橙色に照らされた。
「……飯にしよう」
「はいっ」
リアが中へ戻ったあと、カイはひとり、外灯の下に残った。
天秤は、まだ消す側に傾いたままだった。理屈は何ひとつ変わっていない。灯りは危険を呼ぶ。守れる確かな二人と、いるかも分からない旅人。その計算は、今も消す側が正しい。
だが、カイは今、理屈の外側にあるものをひとつ、見てしまった。
あの晩、この火は、座り込む寸前の娘を、立たせた。
火は、ただ燃えていただけだ。カイはあの夜、娘が来ることを知らなかった。誰も来ないと思いながら、意地のように灯していた。それでも火は、闇の中で仕事をしていた。カイの知らないところで、カイの計算の外で。
灯りの価値は、ともした側には計算できない。見た側にしか、分からない。
だとしたら、あの天秤は最初から壊れている。片方の皿に載せるべきものの重さを、カイは永遠に知りようがないのだ。峠を越えてくる誰か。夜の雨に打たれる誰か。座り込む寸前の、名前も知らない誰か。その全員ぶんの重さを、「いるかも分からない」の一言で量ったつもりになっていた。
――消した夜に限って、誰かが来る。
そういうものだ。世の中の悪い偶然は、たいてい、そういう形をしている。そして、消えた外灯の下で誰かが座り込んだとして、カイはそれを一生知らない。知らないことと、なかったことは、違う。王都で、カイはその違いから逃げて、ここへ来た。
カイは、外灯を見上げた。
火は、静かに燃えていた。
「……ああ、分かったよ」
誰にともなく、カイは言った。宿帳に走り書きを残した、会ったこともない前の管理人に向けてかもしれなかった。
「消さない。消さないから――そのぶん、守り方を考える」
灯りは点けたまま、守り切る。理屈の天秤を捨てるなら、代わりに実務で埋めるしかない。戸締まり、見張り、逃げ道、武器になる道具の場所。明日から、やることの一覧がまたひとつ増えた。増えたのに、金槌より重かった油壺が、帰り道は妙に軽かった。
戸口へ戻りかけた、その時だった。
視界の端で、何かが動いた。
カイは、足を止めた。振り向かず、目だけを動かす。
外灯の光の届く縁、街道の向こうの木立。
その黒い幹の間に、ひとつ、幹ではないものが立っていた。
動かない。ただ、立っている。距離があり、光は届かず、輪郭さえ定かではない。だが、それは確かにこちらを――外灯を、見ていた。
風が梢を揺らし、影が一度、木立の奥へ滲むように動いて。
消えた。
カイは、その場に立ったまま、しばらく木立を見ていた。
背中で、外灯の火が燃えている。
宿の中から、リアが皿を並べる音がしていた。




