# 016. 夜濡れ犬
木立の影を見た翌日から、カイは仕事の合間に「見回り」を挟むようになった。
大げさなものではない。薪を取りに出るついでに小屋の裏まで足を延ばす。井戸のついでに建物を一周する。屋根の修理のついでに、高いところから街道と疎林を眺める。作業の動線に、目の仕事を織り込んだだけだった。
リアには、散歩だと言ってあった。信じている顔ではなかった。
三日は、何もなかった。
四日目の昼下がり、カイは屋根の上にいた。
北側の瓦の割れを差し替えながら、ふと顔を上げた時――疎林の縁で、鳥が飛び立った。
一羽ではない。五、六羽がまとまって、林の同じあたりから、弾かれたように散った。風はない。獣か。それとも。
カイは、瓦を置いた。
梯子を静かに下り、火掻き棒を土間から取って、建物の陰を伝った。正面からではなく、薪小屋の裏を回り、草地との境の茂みに沿って進む。心臓が、耳の奥で鳴っていた。戦いの訓練など受けたことはない。あるのは、王都の路地で酔漢を避けてきた程度の心得だけだ。
だから、捕まえる気はなかった。
顔を見る。人相と、人数と、得物を確かめる。それだけでいい。相手を知らずに守りの算段は立てられない。帳簿と同じだ。まず、数字を確かめる。
薪小屋の角から、そっと裏手を覗いた。
いた。
男がひとり、薪小屋の裏の壁に張りついて、板の隙間から中を覗き込んでいた。
若い。二十歳そこそこか。痩せて、頬骨が浮いている。着ているものは元は旅装だったのだろうが、袖口も裾も擦り切れて、泥の色に染まっていた。そして、その肩に。
犬の毛皮が、掛かっていた。
何枚もの毛皮を、不揃いに縫い継いだ肩当て。ドマルの言った通りの、リアの言った通りの、それだった。
男は、小屋の中の薪の量を数えているらしかった。指を折りながら、口の中で何か呟いている。その仕草が、あまりに――物盗りというより、棚卸しに近くて、カイは一瞬、声をかける調子を見失った。
その一瞬で、足元の枯れ枝が鳴った。
男が、跳ねるように振り向いた。
目が合った。
くぼんだ眼窩の奥の目に、浮かんだのは殺気ではなかった。まず驚愕、それから、隠しようのない、剥き出しの怯えだった。男の手が腰の短剣に走り、しかし抜くより先に、体は既に逃げる側に傾いていた。
「待て――」
カイが一歩踏み出すのと、男が跳ねるのが同時だった。
男は薪小屋の裏から草地へ転がるように駆け出した。カイは追った。追いながら、足の差は歩数で分かった。向こうは、逃げ慣れている。カイは、追い慣れていない。距離は、開く一方だった。
男は草地の半ばで一度振り返り、カイがまだ追ってくるのを見ると、憎まれ口の届く距離を確かめるように足を緩めた。
「……っ、来るんじゃねえよ!」
声が、裏返っていた。
「宿の旦那さんよぉ! あんた、いい度胸だな、こんなとこに灯りなんか点けやがって!」
「薪を数えてたな」
カイは、足を止めて、声だけ届けた。
「盗るなら、なぜ今日は盗らない。この前は束で四つ持っていったのに」
男の顔が、分かりやすく強張った。
「知らねえよ、そんなもん」
「腹が減ってるなら、戸口から来い。うちは宿だ。飯なら――」
「うるせえ!」
男は、叫んだ。それは怒鳴り声というより、耳を塞ぐための音だった。
「そういうのが、いちばん、むかつくんだよ……! 飯なら出すだと? 恵む側の顔しやがって……!」
男は後ずさりながら、唾を吐いた。
「首領に知らせるからな! 女がいるのも、蓄えの場所も、戸のどこが硬えかも、ぜんぶだ! ……あんたが親切ぶれるのも、今のうちだぜ、宿の旦那!」
そう吐き捨てると、男は身を翻し、疎林の中へ駆け込んだ。下生えの鳴る音が遠ざかり、やがて、林は元の静けさに戻った。
カイは、追わなかった。
追えなかった、が正しい。足の差もあったが、それ以上に、最後に見えたものが、カイの足から力を抜いていた。
逃げ込む寸前、男の毛皮の肩当てが、木漏れ日の中で揺れた。継ぎ接ぎの毛皮の中に一枚、他と違う、手入れの跡のある滑らかな毛並みが混ざっていた。あれは野良犬の皮ではない。飼い犬の――おそらくは、荷運びの犬橇か、荷番の犬の皮だ。
道の仕事を失った人間が、道の仕事を共にした犬を、食って、皮を着ている。
そういうことなのだとしたら、あの継ぎ接ぎは、戦利品ではなくて、墓標だった。
宿に戻ると、リアが戸口の前に立っていた。
顔色を見れば、どこまで見ていたかは訊くまでもなかった。
「……犬の皮、でした」
リアの声は、細かった。
「ああ」
「あの人たちですよ。峠の。私を追いかけた……」
「その断定は、まだ早い」
「カイさん」
リアは、初めて、カイの言葉を遮った。
「私が見た夜も、あの人たち、荷物を数えてました。縛った人の横で、樽とか、袋とか、指を折って。……今の人も、数えてたんですよね。薪を」
カイは、答えに詰まった。
「あの人たち、盗る前に、数えるんです。……今日は、下見なんです」
リアの手が、震えていた。震えながら、それでも、この娘は逃げ出すとも、出ていくとも言わなかった。それが、三週間前との違いだった。代わりに、リアは震える手で前掛けを握って、言った。
「カイさん。私……何をすれば、いいですか」
カイは、リアの顔を見た。
怯えは、そのままそこにあった。だが、その奥に、あの晩スープの椀を両手で包んだ時と同じ、何かを受け取ろうとする必死さがあった。守られるだけの場所から、一歩ぶんだけ、こちらに踏み出した顔だった。
「……まず、今日の戸締まりを、二人で全部確かめる」
カイは、言った。
「それから、飯を食う。温かいやつをだ。腹が減ってると、人間はろくな考えをしない。……算段は、そのあとだ」
「はいっ」
その晩、二人は閂をひとつずつ確かめ、締まり木を全部下ろし、それから、いつもより少しだけ濃いスープを飲んだ。
食後、カイは帳面を開き、新しい頁の頭に、こう書いた。
夜濡れ犬。斥候一名、確認。若い。痩せている。逃げ足が速い。怯えている。
最後の一語を書くかどうか、少し迷った。書いた。あれも数字のうちだった。怯えた人間の群れは、飢えた獣の群れより、時に読みにくい。
窓の外で、外灯の火が燃えていた。
今夜も、それは消さなかった。消さないと決めたのは自分だ、と、カイは帳面を閉じながら思った。決めた以上、この火の呼ぶものは、善意も悪意も、全部この宿の帳簿につく。
首領に知らせる、と、あの男は言った。
貸方に、何が来るか。
カイは、灯りの揺れる窓を、長いこと見ていた。




