# 017. 捨てられた道の男
男は、二日後の夕暮れに来た。
こそこそとではなかった。灰灯街道の西から、堂々と、道の真ん中を歩いてきた。
カイは外灯に油を注いでいる最中で、砂利を踏む足音に顔を上げた。そして、注ぎ口を持つ手を、静かに止めた。
背の高い男だった。痩せているのに、肩幅だけが張っていて、外套の輪郭が歪んで見える。いや――外套そのものが歪んでいるのだ。何枚もの犬の毛皮を、色も向きも構わず縫い継いだ、あの外套だった。斥候の若者が肩に掛けていたものの、何倍も年季の入ったやつを、この男は体ごと纏っていた。
伸びた髭。くぼんだ目。腰には、鞘の革が裂けた短剣と、束ねたロープ。
男は、外灯から十歩ほどのところで、足を止めた。
灯りの円の、ちょうど外。踏み込めば照らされ、退けば闇に消える、その境目に、男は測ったように立った。
「……よう」
低い、掠れた声だった。
「あんたが、ここの新しい主か」
「そうだ。泊まりなら、飯は出せる」
カイは、油壺を足元に置いた。両手を空けるためだったが、男はその動きを見て、口の端だけで笑った。
「泊まり、ときたか。……いい宿だ。客の顔も見ねえで飯の話をする」
「顔なら見てる。あんたの若いのが着てたのと、同じ外套だ」
男の笑みが、消えはしなかったが、質が変わった。値踏みの色が濃くなった。
「ガロだ」
男は、名乗った。名乗る義理などないはずだった。名乗ったのは、たぶん、こちらを怯えさせるためだ。夜濡れ犬の頭目の名が、この街道でどう流通しているかを知っている名乗り方だった。
「カイだ」
カイも、名乗り返した。それ以外の返し方を知らなかった。
ガロは、一瞬、虚を突かれた顔をして、それから、鼻で笑った。
「……変わってんな、あんた」
男は、灯りの境目に立ったまま、宿を眺めた。傾いた看板。打ち直された扉の受け金。割れを差し替えた屋根。その視線は、斥候の若者と同じ、数える目だった。だが、若者の目が薪の束を数えていたのに対し、この男の目は、もっと別のものを数えているように見えた。
「灯り木亭、か」
ガロは、看板を見上げて、呟いた。
「昔と、同じところに看板があるんだな」
「……昔を知ってるのか」
「この道で知らねえ奴はいなかったよ」
ガロは、それ以上その話を続けなかった。代わりに、顎で外灯を示した。
「なあ、宿の旦那。ひとつ教えといてやる。親切でな」
「聞こう」
「その灯り、消しときな」
風が、二人の間を抜けた。外灯の火が揺れ、ガロの立つ境目の線が、わずかに伸び縮みした。
「この道はもう死んでる。あんたが灯りを点けたところで、戻ってくるのは昔の客じゃねえ。……分かるか? 死んだ道に灯りを点けりゃ、集まるのは、死んだ道に取り残された連中だけだ」
「あんたたちのことか」
「俺たちのことだよ」
ガロは、あっさりと認めた。認めて、両腕を広げてみせた。継ぎ接ぎの外套が、夕闇の中で広がった。
「見ろよ、この上等な身なりを。……俺はな、旦那。この道で二十年、荷を運んだ。塩も、布も、薬もだ。西の鉱山までの荷駄で、俺の背中を通らなかったもんはねえ。橋が落ちりゃ直すのを手伝った。ぬかるみにはまった馬車を、何十台引き上げたか分からねえ」
声は、自慢の形をしていた。形だけが、だ。
「で、新しい道ができた。平らで、速くて、立派な道だ。荷はみんなそっちへ行った。荷主も、馬も、宿も、飯屋もだ。……俺たちも行こうとしたさ。そしたら何て言われたと思う? 新街道の荷運びは組合制だ、加入金を積め、身元の保証人を立てろ、ときた。二十年道の上で生きてきた人間に、保証人だと。俺の保証人は、この道だったんだよ。道ごと、要らなくなった」
「……それで、奪う側か」
カイは、静かに言った。
「二十年荷を運んだ手で、いまは同じ道を通る貧乏人の荷を剥ぐのか。あんたらが峠で剥いでるのは、籠ひとつで櫛や糸を売って歩くような連中だ。新街道に行けなかったのは、連中も同じだろう」
ガロの目が、細くなった。
「……説教か、旦那」
「帳簿の確認だ。あんたの恨みの宛先と、あんたの剥いでる相手が、合ってない」
一瞬、ガロの顔から表情が消えた。
図星を突かれた人間の顔は、二種類ある。黙る顔と、怒る顔だ。ガロは、後者だった。
「宛先だと? ……ああ、そうだよ、分かってんだよ、そんなことは!」
声が、初めて割れた。
「けどな、恨みの宛先サマは、新街道の詰所の奥で帳面つけてやがるんだ! 俺たちの届く場所にゃいねえんだよ! 手の届くとこにあるのは、この死んだ道と、その上を這って歩く、俺たちと同じ食い詰め者だけだ! それを食わなきゃ、こっちが死ぬ。……食っていくってのは、そういうことだろうが」
「違うな」
カイは、言った。自分でも驚くほど、迷いなく出た。
「食っていくのがそういうことなら、うちの宿は成り立たない。……食い詰め者同士でも、剥ぐ以外のやり方はある。あんたはそれを、二十年やってたはずだ。荷運びってのは、そういう仕事だろう」
ガロは、黙った。
長い沈黙だった。外灯の火が、ぱち、と小さく爆ぜた。
その火を、ガロは見た。憎しみの目で、と言い切れれば、話は簡単だった。だが、境目の闇の中からその火を見上げた男の目には、一瞬、カイの読めないものがよぎった。それは飢えた獣の目でも、盗人の目でもなく――遠い灯りを見る、旅人の目に、ほんの一瞬だけ、似ていた。
「……昔の話だ」
ガロは、低く言った。
「荷運びのガロは死んだ。この道と一緒にな。いま立ってるのは夜濡れ犬の頭だ。で、夜濡れ犬の頭として言いに来た」
男は、外套の前を掻き合わせ、半歩、闇の側へ退いた。
「うちの若いのが世話になったな。妙な宿主がいるって聞いて、面ぁ見に来た。……なるほど、妙だ。妙で、甘い。あんたみたいのが、いちばん剥ぎやすい」
「そうか。なら、忠告を返す」
カイは、外灯の下から動かずに言った。
「うちの飯は、剥ぎに来るより、客で来たほうが安くつく」
ガロは、喉の奥で笑った。笑い声だけが、しばらく闇との境で鳴っていた。
「……いい宿だよ、まったく」
男は背を向けた。継ぎ接ぎの外套が、闇に半分溶けた。
そして、振り向かないまま、言った。
「灯りをともすなら――奪われる覚悟も、あるんだろうな」
返事は、待たなかった。
足音が、西の闇へ遠ざかっていく。外灯の光の円だけが、あとに残った。
カイは、長いこと、その場に立っていた。
気づけば、戸口にリアが立っていた。いつから見ていたのか、蒼白な顔で、両手を胸の前で握り締めていた。
「……カイさん、今の」
「ああ。夜濡れ犬の、頭だそうだ」
カイは、油壺を拾い上げた。手が、今ごろになって、微かに震えているのが分かった。恐怖なのか、怒りなのか、自分でも区別がつかなかった。ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
あの男は、下見に来たのではなかった。
宣告に来たのだ。
「リア。飯のあと、少し話がある。……この宿の守り方の話だ」
外灯の火が、二人の影を、扉の上に長く伸ばしていた。




