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# 018. 私が出ていけば

夕飯の椀は、ほとんど減らなかった。


リアは匙を三度持ち上げ、三度とも、口まで運ばずに椀へ戻した。カイは急かさず、自分のぶんを食べながら、話す順番を組み立てていた。守り方の話。戸締まりの分担。逃げ込む部屋の決め方。合図の決め方。


だが、その順番は、使われなかった。


「カイさん」


リアが、匙を置いた。


「私、出ていきます」


声は、震えていなかった。それが、かえってまずかった。震えながら言う言葉なら、まだ迷いの側にある。この静かさは、決めてしまった人間の静かさだった。


「……理由を聞こう」


カイも、匙を置いた。


「あの人たちの狙いは、私です」


リアは、テーブルの木目を見ながら、用意してきた言葉を順番に並べた。


「峠で、私、見たんです。あの人たちの顔と、やってることを。だから追われました。ここに私がいる限り、あの人たちは来ます。薪も、足跡も、今日のあの人も、ぜんぶ、私が来てからです。……私が出ていけば、この宿は、ただの宿に戻ります。カイさんは、狙われなくて済みます」


「なるほどな」


カイは、頷いた。


「筋は通ってる。……半分だけな」


リアが、顔を上げた。


「まず、事実の確認だ。薪が減ったのも、軒下の足跡も、お前が来る前からの話じゃない。それは正しい。だが、ガロの狙いがお前だけなら、今日あの男は、俺に『灯りを消せ』とは言わない。『女を出せ』と言う。言わなかった」


カイは、椀を脇に押しやった。


「あの男が数えてたのは、お前じゃなくて、この宿そのものだ。薪、食料、鍋、屋根。……つまり、お前が出ていっても、連中は来る」


「で、でも、私がいなければ、少なくとも――」


「少なくとも、何だ? 連中の獲物が、ひとつ減るだけだ」


カイは、なるべく穏やかに言った。事実で殴るためではなく、事実で支えるために。


「そして、お前はどこへ行く。東の町までは歩いて三日。その三日の道は、誰の縄張りだ。……峠から下りてきてる連中の、真ん中だぞ。この宿を出た瞬間、お前は屋根も壁も閂もない場所で、あの連中と同じ夜の下に立つことになる。それは『迷惑をかけない』じゃない。ただの『目の届かないところで危なくなる』だ」


リアは、唇を噛んだ。


反論は、出てこなかった。出てこないことは、たぶんリア自身、最初から分かっていた。この娘の「出ていきます」は、算段の結論ではないのだ。もっと古い場所から出てくる、癖のようなものだった。


「……でも」


長い沈黙のあと、リアの声は、急に小さくなった。静かな決意の膜が破れて、その下のものが出てきた。


「でも、じゃあ、私、どうしたらいいんですか……」


声が、揺れた。


「カイさんが、怪我したら? あの人たちが来て、宿が壊されて、火をつけられて、カイさんが……そうなったら、私、どうしたら。私のせいじゃなくても、私は、私のせいだって思います。絶対に、思います。そんなの、耐えられません。それくらいなら、私が――」


「リア」


「食堂の時も、そうだったんです……!」


堰が、切れた。


「お店が苦しくなって、誰かが出ていかなきゃいけなくて。誰も、私に出ていけなんて言いませんでした。言われる前に、分かるんです。ああ、次は私だなって。皿の数とか、賄いの量とか、目の合わせ方とかで、分かっちゃうんです。だから、言われる前に、自分から言いました。私、出ますって。そうしたら、みんな、ほっとした顔をして……」


リアは、両手で顔を覆った。


「言われる前に出ていけば、捨てられたんじゃなくて、自分で決めたことになるから……! それだけが、その、私の、たったひとつの……」


その先は、言葉にならなかった。


カイは、動かなかった。


抱き寄せもせず、慰めの言葉も探さなかった。探しかけて、やめた。この娘が今、初めて自分の癖の底を言葉にしたのだ。その途中に、安直な慰めを挟むべきではなかった。


代わりに、カイは待った。竈の火が薪をひとつ崩す音がして、リアの嗚咽が少しずつ間遠になるまで。


やがて、リアは、濡れた顔のまま、椅子から立ち上がった。


前掛けのポケットから、何かを取り出す。


鍵だった。


東向きの角部屋の、あの古い鉄の鍵。リアはそれを両手で持って、テーブル越しに、カイへ差し出した。


「……お世話に、なりました。これ、お返しします」


手は、震えていた。目は、まだ濡れていた。それでも差し出したその姿は、たぶんこの娘が今までの人生で何度も繰り返してきた、いちばん手馴れた動作なのだった。捨てられる前に、返す。奪われる前に、手放す。


カイは、鍵を見た。


受け取らなかった。


「その鍵は、俺のじゃない」


「……え?」


「渡した時に言ったはずだ。客室の鍵は客が持つものだ、と。今のお前は住み込みだから、正確には、住人が持つものだ。……つまりそれは、いま、お前のものだ。自分のものを、俺に返すことはできない」


「へ、理屈が、変です……」


「うちの宿の決まりは俺が決める。……いいか、リア」


カイは、差し出された鍵と、それを持つ赤くなった手を、順番に見た。


「出ていくか残るかは、お前が決めろ。それは灯宿りの決まりで、俺には止める権利がない。本気で出ていくと言うなら、俺は三日ぶんの食料を包んで、東の町までの道順を書いて渡す。それが宿主の仕事だからだ」


リアの肩が、びくりと動いた。


「だが、鍵は持っていけ」


「……え……」


「出ていって、東の町が合わなかったら。行った先で、また皿の数で明日を数える暮らしになったら。……戻ってくればいい。その鍵は、あの部屋の鍵だ。あの部屋は、お前が戻るまで、誰にも貸さない。空いたままにしておく」


カイは、そこで初めて、少しだけ言葉を探した。


「出ていく自由のない場所を、居場所とは呼ばない。……だがな、戻る場所のない旅を、自由とも呼ばないんだ。両方あって、初めて選べる。だから、鍵は返すな。それはお前の、戻るほうの自由だ」


リアの手から、力が抜けた。


差し出されていた鍵が、ゆっくりと、リアの胸元へ戻っていく。リアはそれを、両手で包んだ。あの晩の椀と、同じ形に。


「……ずるいです、カイさん」


涙声が、言った。


「そんなの言われたら……出ていけません……」


「出ていくなとは、ひと言も言ってない」


「言ってるのと、同じですっ……」


リアは、鍵を握り締めたまま、泣き笑いの顔で、椅子に座り直した。


出ていくとも、残るとも、その夜のリアは、結局言わなかった。


カイも、訊かなかった。


冷めた椀を、カイは黙って竈にかけ直した。温め直したスープは、少し煮詰まって、味が濃くなっていた。リアは今度は、最後まで食べた。食べ終わって、皿を洗って、二階へ上がって――ドアの内側で、鍵の下りる音が、いつも通りに、した。


カイは、階段の下でその音を聞き届けて、息を吐いた。


食堂に戻り、帳面を開く。守りの算段は、一日、後ろへずれた。ずれたが、無駄な夜ではなかった。閂や締まり木より先に、直さなければならない場所が、この宿にはあったのだ。


窓の外で、外灯が燃えている。


覚悟はあるんだろうな、と、あの男は言った。


「……あるさ」


カイは、帳面に最初の線を引いた。


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