# 019. 宿を使って守る
翌朝、リアは下りてきた。
前掛けを着け、髪を括り、いつも通りに竈へ火を入れた。出ていく者の身支度ではなかった。カイは何も言わず、いつも通りに水を汲んだ。宿帳の決まりに従うなら、それが答えの受け取り方だった。
朝食のあと、カイは食堂のテーブルに紙を広げた。
宿の見取り図だった。ゆうべ、寝る前に描いたものだ。文官の描き癖で、線は定規のようにまっすぐで、扉と窓には全部、番号が振ってあった。
「今日から、守りの支度をする。手伝ってくれ」
「は、はいっ」
「先に言っておくが」
カイは、炭筆を置いた。
「俺は、戦えない」
リアが、目を丸くした。
「剣は習ってない。弓も引けない。喧嘩は、王都で酔っ払いに絡まれて逃げた経験が二回あるだけだ。二回とも、全力で逃げた」
「……あの、それ、いま言うことですか?」
「大事なことだ。守る側の戦力を、正しく数えるところから始まる」
カイは、大真面目に言った。実際、大真面目だった。
「向こうは、頭数で来る。腕っぷしでも来る。まともにやり合えば、話にならない。……だが、連中がどれだけ強くても、変えられないことが一つある。連中は、この建物の中身を知らない。俺たちは、知ってる。それが、こっちの持ってる唯一の元手だ」
だから、宿で守る。
カイは、見取り図の上に指を置いた。
「入口になり得る場所を、全部数える。正面扉、裏口、一階の窓が六つ、破れた食料庫の格子――計九つ。九つ全部は守れない。だから、減らす」
その日の仕事は、要するに、開く場所を潰していく仕事だった。
一階の窓のうち、四つは内側から板を打ちつけて完全に塞いだ。明かり取りには二階があれば足りる。残す窓は、食堂の二つだけ。ここは締まり木に加えて、窓枠の下に古い食器棚を横倒しに据えた。乗り越えようとすれば、必ず棚板を踏む。棚板には、洗って乾かした空き瓶を並べた。踏めば、割れる。割れれば、鳴る。
「番犬の代わりだ。うちのは餌が要らない」
「……カイさん、こういうの、慣れてません?」
「宿の管理は、財産の管理だ。財産の管理は、王都で習った」
裏口は、閂を新調した上で、内側に水瓶を据えた。満杯の水瓶は大人二人でも動かせない。開けるには、まず瓶をどかす音がする。
正面扉だけは、塞がなかった。
「ここは、開けておく――開けられる状態にしておく。逃げ道と入口を兼ねる扉が、一つは要る。全部塞ぐと、こっちが袋の鼠になる」
「逃げ道……」
「そうだ。次は、それを決める」
カイは、リアを連れて建物を回り、逃げる道筋を歩いた。食堂から厨房、厨房から裏の井戸端へ。井戸の脇の柵は一箇所だけ外れるようにしておき、その先は草地を抜けて東の疎林へ入る。
「東へ逃げる。西は連中の側だ。疎林を抜けたら、街道へは戻らず、川筋に沿って下る。……ここまでを、体で覚えろ。夜、灯りなしで歩けるまで」
昼からは、その通り道を二人で三度歩いた。三度目は、リアに先を歩かせた。リアは二度、柵の外れる場所を間違え、三度目に、正しく開けた。
夕方、カイは最後の支度に取りかかった。
厨房だった。
「リア。襲われた時、お前の持ち場はここだ」
「厨房、ですか……? あの、私、隠れてるんじゃ……」
「隠れてるだけの人間が、いちばん危ない。何も見えず、何も聞こえず、動く決断だけ遅れる。……お前には、仕事を持っていてもらう」
カイは、厨房の竈を指した。
「第一の仕事は、火の番だ。何かあったら、まず大鍋に湯を沸かせ。煮え立ってなくていい。湯気の立つ湯が、鍋一杯あるだけでいい」
「お湯……あっ」
リアの顔が、理解の色になった。
「そうだ。熱い湯は、狭い入口では剣より強い。かけられた側は、必ず怯む。殺さずに、確実に止める。……厨房の窓は高くて狭い。大人は通れない。ここは、この宿でいちばん硬い部屋だ」
「第二の仕事は、音だ」
カイは、棚から、磨き上げられた鍋を一つ下ろした。
「俺が『リア、火を見ろ』と言ったら、それは合図だ。この鍋を、お玉で、力いっぱい、鳴らし続けろ」
「な、鳴らして、どうなるんですか?」
「分からん」
カイは、正直に言った。
「だが、夜襲ってのは、静かにやりたいものなんだ。連中は人目を避けて生きてる身だ。鳴り止まない金物の音の中で仕事を続けるのは、思ってるよりずっと肝が要る。……音は、こっちが出せる、いちばん安い武器だ」
リアは、鍋とお玉を、両手で受け取った。
剣を受け取る従者のような顔で、深く頷いた。
「……練習して、いいですか」
「今はやめてくれ。心臓に悪い」
日が落ちて、夕飯を食い、カイは見取り図に今日の成果を書き込んだ。
塞いだ窓に、斜線。水瓶、空き瓶、逃げ道、厨房の持ち場。図の上では、宿は昨日より、ずっと硬くなった。
だが、書き込みながら、カイには見えてもいた。
板は、所詮、古釘で打った廃材だ。斧が一本あれば、四、五回で割れる。水瓶は音を稼ぐだけで、時間にすれば十を数えるほど。空き瓶の警報が鳴ったとして、駆けつける「守り手」は、逃げた経験二回の文官くずれが一人。
この守りは、敵を防ぐ守りではなかった。
時間を稼ぎ、音を立て、相手に「面倒だ」と思わせるための守りだ。本気で押し込まれたら、保たない。それが、正直な帳尻だった。
「……カイさん、お茶、入れました」
リアが、湯気の立つ椀を、図の脇に置いた。
ドマルの置いていった乾茸の、戻し汁に香草を落としただけの、茶とも汁ともつかないものだった。だが、温かかった。
「明日は、何をしますか」
「二階だ。階段の守りと、寝る部屋の割り振りを変える。……それと、灯りの油の置き場所も」
「はいっ」
返事をして、リアは自分の椀を持って、向かいに座った。
守りの図を挟んで茶を飲む夜が、日常の顔をし始めていることに、カイはふと気づいた。恐ろしいのか、ありがたいのか、分からなかった。
その夜、更けてから。
カイは、食堂の壁際に敷いた寝床の中で、目を開けた。
音がした、気がした。
耳を澄ます。風。梢。それから――砂利。
砂利を踏む音が、規則正しく、ゆっくりと、建物の外を回っていた。正面扉の前で、一度止まる。また歩く。塞いだ窓の外で、一度止まる。また歩く。裏口の前で、止まる。
数えている。
こちらが今日、閉じた場所を、向こうは外から、一つずつ数え直している。
カイは、寝床の中で身を起こし、火掻き棒を引き寄せて、次の音を待った。
足音は、建物を一周すると、来た時と同じ静かさで、西の闇へ遠ざかっていった。
外灯の火だけが、窓の外で燃えていた。




