# 020. 最初の客だから
夜の足音のことを、カイは朝のうちにリアへ話した。
隠す段階は、もう過ぎていた。リアは青ざめたが、取り乱しはしなかった。代わりに、その日一日、厨房の鍋の位置を三回並べ直し、逃げ道の柵を一人でもう二度、開ける練習をした。
夕方には、二階の部屋割りも変え終えた。
リアの部屋は、東向きの角部屋のまま。カイの寝床は食堂の壁際から、階段の上がり口の脇へ移した。二階へ上がる者は、必ずカイの前を通る配置だった。
「あの、それだと、カイさん、階段の風で寒くありませんか」
「王都の官舎より、ましだ」
夕飯は、豆と乾茸のスープに、リアが灰の脇で焼いた平パンだった。
食べ終わっても、リアは席を立たなかった。
椀の底に少し残ったスープを、匙の先でゆっくり回している。何か言いたいことがある時の、この娘の癖だった。カイは、食器を重ねる手を止めて、待った。
「……あの、カイさん」
「なんだ」
「変なこと、聞いてもいいですか」
「内容による」
「私って……何、なんでしょうか」
カイは、重ねかけた椀を、置いた。
「その、変な意味じゃなくてですね」
リアは、慌てて手を振った。
「お客さん、なのかなって。宿帳に名前を書いた時は、お客さんでした。でも、今は住み込みで、お給金の話もあって、働いてて。……でも、カイさんは、私に部屋の鍵をくれて、守りの算段までしてくれて。それって、雇い人にすることじゃ、ない気がして」
匙が、椀の中で止まった。
「食堂にいた時、私、下働きでした。下働きは、守ってもらえません。何かあったら、いちばん先に外に出される側です。それが当たり前で、ずっと、そういうものだと思ってました。……だから、分からないんです。いま、私、どこに立ってるのか。お客さんなのか、雇い人なのか、ただの、居候なのか」
リアは、顔を上げた。
「私、何だと思って、ここにいたらいいですか」
まっすぐな問いだった。
カイは、すぐには答えなかった。茶化して逃げられる問いではなかったし、この娘は、曖昧な答えの隙間を、必ず悪いほうに埋めて生きてきた娘だった。だから、答えは正確でなければならなかった。
カイは、帳場の台から、宿帳を持ってきた。
テーブルの上で開く。何年ぶんもの空白のあとの、あの頁。リア・トワネットの一行。
「これが、何の帳面か覚えてるか」
「……宿帳、です」
「そうだ。この宿が死んでた間、この帳面は白いままだった。俺が来てからも、白いままだった。掃除をして、屋根を直して、外灯に火を入れても――帳面が白いうちは、ここはまだ、宿じゃなかった。ただの、直しかけの建物だ」
カイは、リアの名前の行を、指で示した。
「この行が書かれた朝から、ここは宿になった。……リア。お前は、灯り木亭の最初の客だ。俺が主になってからの、最初の一人だ。この帳面のこの行は、この先どれだけ頁が埋まっても、ずっと最初の行のままだ。それは、もう誰にも動かせない」
リアの目が、自分の名前の上で、動かなくなった。
「住み込みだの雇い人だのってのは、あとから足した勘定だ。土台は変わらん。お前は客で、ここは宿で、俺は宿主だ。……で、だ。宿主ってのは、何の商売か分かるか」
リアは、小さく首を振った。
「客を、朝まで無事に寝かせる商売だ」
カイは、言った。
「飯を出すのも、鍵を渡すのも、閂を打ち直すのも、全部そのためにある。だから、守りの算段は、お前が特別だからやってるんじゃない。……いや、違うな」
カイは、言い直した。ごまかしの利く相手ではなかった。
「特別じゃない、は嘘だ。最初の客ってのは、特別だ。この宿が宿である証拠は、今のところ、お前一人しかいないんだからな。……だから、これは決まりの話でもあり、俺の勝手の話でもある。お前がこの宿にいる間は、俺はお前を守る。宿主として。それが、お前の立ってる場所だ」
食堂は、静かだった。
竈の火が、薪を一つ、崩した。
リアは、宿帳の自分の名前を、長いこと見ていた。それから、袖で目元を一度だけ拭って、顔を上げた。
「……じゃあ、私、お客さんなんですね」
「最初の、な」
「最初のお客さんが、朝ごはんを作るお宿って、変ですよ」
「うちの決まりは俺が決める。文句は受け付けるが、却下する」
リアは、笑った。
鼻の赤い、不格好な笑い方だったが、この数日で初めての、芯まで届いた笑い方だった。
「……分かりました。じゃあ、私、最初のお客さんとして、言います」
リアは、居住まいを正した。
「このお宿の朝ごはんは、私が作ります。誰が来ても、渡しません。……それと」
少しだけ、声が小さくなった。
「ここに、います。出ていきません。……いさせて、ください」
「ああ」
カイは、頷いた。それ以上の言葉は、足さなかった。足せば、この娘はまた、受け取った分の重さを数え始める。
リアは、深く息を吸って、ゆっくり吐いた。長いこと背負っていた荷物を、ようやく床に下ろしたような息だった。
「なら、明日も頼む。朝食係」
「はいっ」
その夜、リアの部屋の鍵の音は、いつもより少しだけ早く、そして軽く鳴った。
カイは階段の上がり口の寝床で、火掻き棒を枕元に置き、浅い眠りと聞き耳の間を行き来しながら、夜を越えた。足音は、来なかった。空き瓶も、鳴らなかった。
朝が来た。
カイは、いつも通り、外灯の火を確かめに戸口を出て――そこで、足が止まった。
食堂の窓。
締まり木を下ろし、内側に食器棚を横たえた、あの窓だ。
その硝子の外側に、手形があった。
泥の手形が、一つ。指を大きく開いて、硝子に押しつけられている。大人の男の、それも大きな手だった。夜露に半分滲んで、泥は乾きかけていた。
叩き割るでもなく、こじ開けるでもなく、ただ、手を、置いていった。
――見ているぞ。
手形は、そう言っていた。硝子一枚の内側は、昨夜、リアが笑っていた食堂だった。
カイは、袖でそれを拭き消そうとして、一度、手を止めた。
拭く前に、手形の大きさを、自分の手を広げて測った。指一本半、大きい。それも、帳面につけるべき数字だった。




